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2017年11月の見聞録



11月4日

 立川武蔵(大村次郷写真)『聖なる幻獣』(集英社(集英社新書ビジュアル版)、2009年)を読む。メドゥーサ、キマイラ、キールティムカ、海獣マカラ、竜、一角獣、スフィンクス、ガルダ鳥、グリフィンなどの様々な幻獣が、各文化で想像されてきた。それらは、ある種の「聖性」を有しており、戦慄されつつお畏敬の念をもたれている場合も珍しくなかった。ただし、それぞれの特徴は文化の伝播によって共通した要素が存在していた。たとえば、インドにおける顔面と手だけの幻獣キールティムカは、2つの源泉をもっているとする。1つは、シリア北部で出土する、ライオンの顔を縁に配した儀礼用の杯である。もう1つは、ギリシア神話のメドゥーサの首の図像である。なお、どちらかと言えばアジア圏の事例の紹介が多めとなっている。それでも、いくつも紹介されている写真や図像とともに幻獣の類似性を眺めていくだけで十分に楽しめる。
 個人的に気になったのが、同じ幻獣でも聖獣か怪物かが文化によって違う場合については、どう判断すべきなのかという点である。たとえばスフィンクスは、エジプトでは聖獣であったが、ギリシアでは人を食らう怪物であった。ギリシアでも墓の守護神となる例はあったようだが、それは「毒をもって毒を制す」の考え方に近いように思われる。このあたりの精神性の違いはなぜなのかについて知りたい。
 以下メモ的に、トルコ南部で出土したローマ皇帝トラヤヌスやトロイアで出土したハドリアヌスの彫像には、胸の部分にメドゥーサが掘られている。なお、ユスティニアヌス2世時代の地下宮殿には、貯水槽の土台としてメドゥーサが掘られているものの、1つは逆さ向きで1つは横向きである。これによって封じ込めるためである(58〜59頁)。
 十二星座の山羊座は下半身は魚の姿をしている。これは牧人と家畜の神パンが、怪物テュフォンに襲われてナイル川に飛び込んで逃げようとした際に、化け損なった姿だと伝えられている。この海山羊のイメージはすでにバビロニアに存在しており、山羊面人身のインドの間からにも影響を与えたと考えられる(84〜85頁)。
 インドのストゥーパの前にはトーラナという門が立てられているが、これは日本の神社の鳥居の起源とされる。なお、中国を通じて日本に伝えられた当初は仏教寺院に建てられたと思われるが、その後の人では本堂の屋根の下に組み入れられる形式となっていく(97頁)。


11月14日

 石川明人『キリスト教と戦争 「愛と平和」を説きつつ戦う論理』(中央公論新社(中公新書)、2016年)を読む。キリスト教は「愛と平和」を祈りつつ、「戦争」を実行している。実際に、信仰のために戦うのは当然だという事例を歴史上にいくつも見て取れる。個人的には、キリスト教は戦う宗教だというのは『新約聖書』のこの世に剣をもたらしに来た、というイエスの言葉からは当然のようにも感じていたので、特に不思議とは思わない(なお、本書でも指摘されているとおり、『新約聖書』などでは信仰が軍事的な比喩でしばしばたとえられている)。とはいえ、それを分かりやすく提示している点で、キリスト教についての分かりやすい入門書ともなり得るだろう。
 以下メモ的に。アメリカ軍には従軍の宗教家であるチャプレンが配属されている。チャプレンには士官の階級が与えられており、軍人の一員と言える。この制度は独立戦争が始まった1775年から始まったが、それ以前からすでに存在している(13〜14頁)。ローマ・カトリックによる『現代世界憲章』79項には、「良心を理由に兵役を拒否する者については、彼が特別な方法で人間の共同体に奉仕する用意があるかぎり、法をもって人間的な待遇が定めることは正しいと思われる」とある。これは良心的兵役拒否を勧めているというよりは、そうした選択しも可能であるというニュアンスにもとれる(30〜31頁)。
 ルターはドイツ農民戦争の参加者を殺しても構わないと批判し、「狂犬を撃ち殺さなければならないときと、事情は同じである」と述べている。『新約聖書』のパウロの言葉を念頭に置きつつ、神の権威によって正当に剣を持つ者には悪を食い止める「義務」があるとした(51頁)。
 ローマ軍にキリスト教徒がいた明白な証拠は、173年の軍隊に確認できる。このときの軍隊は敵の包囲にあって喉の渇きに苦しんでいたが、軍団にいたキリスト教との兵士の祈りによって暴風雨になり、軍団は飲み水を得て立ち居直り、敵は稲妻によって敗走したという(124頁)。
 古代のギリシア教父であるオリゲネスは『コリント信徒への第一の手紙注解』にて、信者はどんなときにも武器を手にすることは許されないと述べている。平和を維持・確立する軍隊の役割を手助けする責任はあるものの、その責任を世俗的な次元ではなく、内的・霊的な次元で遂行することを考えていた(132〜133頁)。
 キリスト教では信者仲間のことをしばしば「兄弟姉妹」と呼ぶが、11・12世紀には「戦友」と表現される場合も珍しくなかった。そして修道院長は天の軍隊の司令官と見なされていた。修道院長は、指導者である自分に服従する誠実な兵士たちを守り、忠誠心に値する存在であると証明する義務も負っていた(155頁)。


11月24日

 高木久史『通貨の日本史 無文銀銭、富本銭から電子マネーまで』(中央公論新社(中公新書)、2016年)を読む。日本の通貨について、古代から現代まで時代順に眺めていく。あえて簡単にいってしまえば、明治初期に至るまで、日本の通貨は支配者による完全な統制がとれていたわけではなく、そもそも民間で使用されていた通貨を納税の支払い手段として支配者側が追認していく、という流れが繰り返されがちであった、と言える。たとえば、飛鳥時代に各地で社会慣行として布・米・塩が通貨に使われていて、これらが納税の手段となっていった(7〜8頁)。加えて、権力側が貨幣をつくるのは、交換手段としての普及ではなく、政府事業への物資や労働力の提供に対して銭を渡し、納税や官職の対価として銭を受け取ることで支配者側は債務を弁済するという、政府側の負債から始まる回路が銭の価値を保証していた。江戸時代の藩札も、銀貨を十分にもっていない藩政府が領民へは藩札を渡して銀貨を回収して、それを物品購入に充てていた(115頁)。ただし通貨は、権力者に対する支払い以外に場所でも使われるようになると、広く流通していくわけである。だからこそ、銭を発行して利益を得ようとする必要がなければ、室町幕府のように貨幣を造らずに輸入銭で賄う場合もあった。国防費の調達の必要がなく、地方支配を配下の武士に任せていたため、幕府そのものの財政も小規模ですんだためである(47頁)。なお江戸時代には、幕府通貨の質は下がり、素材価値と額面とが乖離した名目貨幣の性格を強めていく。これが明治期における政府紙幣や銀行券が流通する前提となった。なお、明治政府は幕府の金属通貨をすべて係数貨幣にしているが、これは江戸時代に進んでいた金貨による通貨単位の統一の延長でもあった。
 明治初期までの中央権力が決して日本全国を統合するものではなかった、という当たり前の事実を、通貨からも知ることができるのだなと感じた(本郷和人『武士から王へ お上の物語』でも述べられていたことだが)。
 ちなみに、ふと疑問に思ったのだが、日本の貨幣にはほとんど図像が描かれていないことに気付いた。これは中国も同じであるような気がする。翻って、インドやギリシア・ローマ、ヨーロッパなどは支配者の肖像画や神々、さらには記念物など様々な図像が描かれている。なぜそうなのかはよくわからないが、使っている文字が表音文字と表意文字であることにでも由来するのだろうか。そんなおおざっぱなことが関わってくるとは思えないのだが。なぜ中国や日本では図像が描かれなかったのかを述べている文献があれば読んでみたい。
 以下メモ的に。和同開珎以前にも、無文銀銭という銀貨が用いられていた。無紋のものが多いためにこのように呼ばれており、遅くとも660年代頃には存在していて、機内で主に流通していた。機内近郊では銀は産出しなかったので、貿易通貨として新羅から輸入されたとの説が有力である。さらに、銀は単位質量あたりの価値が大きすぎて、庶民が日常の取引で使う通貨ではおそらくなかった(8〜9頁)。
 11世紀には京都周辺を除き銭が流通しなくなった。代わりに紙媒体を通貨のように用い始める。ある商品を得た権力者は、対価となる米を払うように出納部門へ命令する切符系文書を作る。その切符系文書を商品の売却者へと渡し、売却者は出納部門から記載額の米を受領できる。この切符系文書は金融業者が買い取る場合もあり、譲渡性があった。その点で、現在の為替手形に近い。米や絹布は重量や体積があるため、使われなくなった銭に対して紙製の通貨類似物が発明された(24〜26頁)。
 中国の南宋銭は通貨以外の需要で輸入された、という説が近年は提唱されている。それは青銅製品の原料である。12〜15世紀の青銅製品の原料は、ほとんどが中国華南産で、宋銭と金属成分の組成が近いと判明している。さらに、青銅銭に含まれる錫を求める目的もあった。そもそも錫は古代・中世には日本では生産されず、輸入に頼っていた(30〜31頁)。
 15世紀の日本では、銀の精錬に関して灰吹法という新たな技術が採り入れられた。その結果銀の供給量が増えた。対して中国では、15世紀に税の銀納制を導入して銀の需要が増えたたため、銀高傾向にあった。結果として16世紀後半には、銀輸入・禁輸出国だった日本は、逆の状況へと至った(70頁)。


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