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2017年12月の見聞録



12月4日

 石田晴男『応仁・文明の乱(戦争の日本史9)』(吉川弘文館、2008年)を読む。タイトル通り、応仁の乱を扱っている。少し必要があって読んだのだが、応仁の乱の詳細について書かれているものの、こちらの知識がなさすぎるために、歴史的事実の詳細を追うだけに終わってしまった。もっと知識があれば、何か新しい見方が得られたのかもしれない。


12月14日

 金森修『動物に魂はあるのか 生命を見つめる哲学』(中央公論新社(中公新書)、2012年)を読む。動物に霊魂があると見なす動物霊魂論はよく見られる。そもそも古代でいえばアリストテレスは、『霊魂論』にて動物は人間のような思考的霊魂は持たないが、感覚的霊魂は持っていると見なしていた。こうした立場は基本的にモンテーニュに至るまで続く。だが、近世フランスではデカルトが動物機械論を訴えることで論争が生じた。動物機械論とは、その名の通り、動物は機械の部品の組み合わせにすぎず感情などないという考え方である。動物が動いているのは、時計が歯車やゼンマイで組み立てられているので正確に動くのと同じであると見なす。結果として、動物の苦しみへの無関心が生じ、知性を持つがゆえに人間は高い地位にあると思う傾向を生んだ。しかし、動物に対する常識的な感覚からの反論が生じる。ただし18世紀後半には、そもそも動物に霊魂があるのかという議論そのものが衰退していく。
 フランスの事例に固まっていて、動物に関してというよりは細かいフランス近世思想史を動物観から見ているように感じた。動物よりも人間を上に置く考え方がヨーロッパにて現れた点については、池上俊一『動物裁判 西欧中世・正義のコスモス』(講談社現代新書、1990年)が、より分かりやすいと思う。
 以下メモ的に。プルタルコスは「動物が理性を用いること」という小編にて、『オデュッセイア』でのキルケによって動物へとに変えられた部下たちの逸話を、パロディのような反論としてキルケに語らせている。動物は詐術も使わないし、命乞いもしないし、贅沢な欲望にも導かれないので、美徳がある、と訴えている(32〜37頁)。
 デカルトの信奉者であるマルブランシュは、自分に近づいてきた妊娠していた雌犬をいきなり蹴っ飛ばした。悲しそうな声をあげて遠ざかっていく犬を見て、マルブランシュをとがめたフォントネルに対して「おやおやあなたは知らないんですか、あれは別に何も感じないんですよ」と冷たく言い放った(74頁)。この逸話を好意的に見ることはできないが、首尾一貫しているとは言える。ハロルド・ハーツォグ『ぼくらはそれでも肉を食う 人と動物の奇妙な関係』でも詳しく述べられているように、動物を哀願しつつそれを食することもあるように人間は矛盾した部分があるからこそ、いかに合理的であろうとも、それに不快感を持つ感情があるのかもしれない。デカルトらにいわせればそれではダメだ、ということになるかもしれないが。
 ヴォルテールは「崇拝者たち」という文章で動物機械論への反感を隠していない。その一方で、動物と同じく人間同士でも才能の違いがある、とする。さらに言えば、愚鈍な状態の老人よりも猟犬やオランウータン、秩序だったゾウの方が優秀ではないのか、とする。さらに若いころのニュートンと老いさらばえたニュートンを比較している(142〜143頁)。


12月24日

 ジェイコブ・ソール(村井章子訳)『帳簿の世界史』(文藝春秋、2015年)を読む。ヨーロッパ史における帳簿の位置づけに関して、古代や中世の事例にも簡単に触れつつ、中世イタリア商人から近世を中心に現代をも含めて述べていく。
 物凄く簡単に言えば、経済的な繁栄を維持できるのは、複式簿記に基づく帳簿をきちんと付けていたか否かにかかっている、というのが全体的なテーマであろう。さらに、支配者が会計の仕事をどちらかといえば蔑む傾向が20世紀に至るまで続いていたことにも繰り返し触れられている。もちろん帳簿をきちんと付けることは、合理的な経営に不可欠であろう。それは繁栄の土台と持続にはつながると思う。だが、結局のところ事業に成功することなくしては、繁栄することは適わないのではなかろうか。現代のように複式簿記が当たり前になっても、事業が上手くいかないからこそ粉飾決算を行うのだと思われる。その意味で、帳簿の世界史は没落の世界史なのだろう。本書を読みながら、浅羽通明  『天皇・反戦・日本 同時代論集治国平天下篇』『昭和三十年代主義』での成長しないなかでどのような心持ちでいるかという問題と、高橋洋一『日本経済のウソ』の項で述べたそれでも「上に引っ張っていこうとする力がなければ、そうしたスケールダウンを緩やかに行うことすらできずに、急降下して崩壊してしまうような気がする」と書いたことを思い出した。
 ちなみに、帳簿に基づく計算をきちんと行うとようになる背後には、山本義隆『一六世紀文化革命』が指摘していた技術の価値の上昇も関わる気がする。
 以下メモ的に。アウグストゥスは自らの業績禄にどれほどのお金を払ったのかを記録させている。これについて「透明性の高い精密な会計を自身の政治的正統性と功績に結び付けた」としている(21頁)。だが、新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』にも記されているように、アウグストゥスをはじめとする皇帝たちはどんぶり勘定で財政を行っており、各地の自治制に任せていたのであって、このような評価には少し疑問符がつくと思われる。ただし、27頁には、ローマ帝国の帳簿は不十分であることも指摘されている。
 ジェームズ・ワットは、事業の拡大とともに大量の財務書類を作成して保管せねばならなくなったため、複写機も発明した。インクが裏面にしみこみやすい特殊な紙を使い、圧力をかけて別の紙に転写させるというものであった(210〜211頁)。
 ネッケルはフランス王家の『会計報告』を出版したが、これは当時としては大ベストセラーになった。1781年だけで10万部が売れ、翻訳されて数千部が外国で出版される(235頁)。なお、革命憲法の第5章第3条では、各省庁に支出の詳細な会計報告の公表を義務づけているし、徴税請負制度が廃止されて国税庁が設置されている。ただし、有能な人材は限られていた(241〜242頁)。


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