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2017年9月の見聞録



9月5日

 ハロルド・ハーツォグ(山形浩生・守岡桜・森本正史訳)『ぼくらはそれでも肉を食う 人と動物の奇妙な関係』(柏書房、2011年)を読む。ヴェジタリアンとして動物を愛するにもかかわらず、ネズミを使った実験には反対しないという矛盾した心情について、様々な事例を紹介しつつ考えていく。たとえば冒頭で紹介されているのはネコとヘビとネズミの事例である。ペットとして比べた場合、アメリカの家庭ではヘビの150倍のネコが飼われている。中型のニシキヘビが健康を保つために必要な肉は1年間で約2.3キロ(5ポンド)以下とされる。一方で平均的なネコは、1年間に約23キロ(50ポンド)の肉を消費する。ところで、アメリカの愛護施設では、毎年200万匹のネコが安楽死に処されている。それならば、そのネコをヘビの餌にすれば、ヘビが食べるネズミの数を減らしうる(17頁)。たいていの人の心情としては、この方法は何か受け入れがたいものであろう。それでも合理的ではある。ちなみに、アメリカの世論調査会社のゾグビーが2009年に行った調査によれば、アメリカ人の75%は家にネズミが出たら喜んで殺し、つかまえて外に放すと答えた人は10%、家で同居すると答えた人はいなかった(281頁)。なお、アメリカ議会が1966年に可決した動物福祉法によれば、ハツカネズミ属とクマネズミ属は動物と見なされていない(297頁)。それ以外にも、犬を飼いつつも必要に応じてそれを食べてきた歴史的な状況や、血の滴る肉に嫌悪感をもちつつも、それを見せないようにうまく料理して食べることは好きであるという心情などについても取りあげている。
 訳者解説にもあるように、本書によって明確な結論が出ているわけではない。そうした矛盾した心情が何に由来しており、どう解決できるのかが示されているわけではない。むしろそのような明快な解答が出るわけはないのだから、個別に対応して極端すぎる考え方を慎むべし、としか言えないのであろう。ただし動物愛護に対する極端な信条をもっている人は、本書を読もうともしないであろうが。ちなみに、先のヘビの事例を読んだ際に、竹内靖雄『経済倫理学のすすめ 「感情」から「勘定」へ』中央公論社(中公新書)、1989年)における、殺人者を死刑にせずに補償の責任を課すほうがよいのではないか、と述べた部分を思い出した。
 以下メモ的に。イルカとふれあうことで癒しを得ようとするイルカセラピーに対して、イルカは攻撃的になるとの批判がある。実際に、海生哺乳類を仕事で扱う400人強のうち半数が外傷を負ったという。さらに、アメリカ以外では大量捕獲によって捕らえられた野生のイルカが使われるのだが、1頭のイルカを捕獲するために7頭のイルカが犠牲となり、その1頭もコンクリートのプールで過ごさねばならない(29頁)。
 幼少時の動物虐待が人に対する暴力と強く結びついているとは限らない。354件の連続殺人事件の犯人のうち8割は、動物虐待の前歴をもっていなかった。学校での銃乱射事件の37件のうち、動物虐待を行っていたのは5人だった(39〜40頁)。これについては、確かに件数は少ないかもしれないが、他の要素と比べれば多めということがありえないのだろうかというのは少し気になる。
 アメリカ人の子供で、誕生日にクワガタムシをもらって喜ぶ者は少ない(65頁)。訳者解説でも触れられているが、アメリカ人は虫をペットのように飼うことがないらしいというのはまったく知らなかった。
 動物を使った仮想実験として、猿の胚から取った幹細胞を大人の猿の脳に移植する実験と遺伝子の調査のために生まれたばかりのマウスの前足を切断する実験を承認できるかどうかをアンケートに取ったところ、前者は半数が許可したが、後者は1/4しか許可しなかった。その理由として、前者に対しては調査研究のコストや動物固有の権利を考慮に入れて冷静に判断する傾向にあったが、後者に対しては動物がかわいそうという感情的な判断が多かった(71〜72頁)。
 フィンランドで2万2千人を対象に行われた踏査では、ペットを飼っている人は飼っていない人に比べると、血圧値もコレステロールも高いという結果が出た。さらに、腎疾患や関節炎、座骨神経痛、偏頭痛、パニック発作にもかかりやすく、喫煙量も飲酒量も多くないのに、体を動かす時間が少なく太りやすいと明らかになった(118頁)。
 アメリカ疾病対策センターの概算によると、毎年8万5千人以上のアメリカ人がペットにつまづく事故で負傷している。1999年に民間調査会社のオピニオン・リサーチ・コーポレーションが行った調査では、犬を飼っている人の6人に1人が車の中で飼い犬が飛びまわったせいで自動車事故に遭うか、あわや事故という経験をしたことがある(123頁)。
 ブロイラーとして開発されたコッブ500は、繁殖用雌鳥の場合には生後15ヶ月間で132羽のひな鳥を産む。そのひな鳥たちは6〜7週間で2.3キロ程度になって解体される。ブロイラーは重心が高く不安定なので、たいていは排泄物で汚れた寝床に横になった状態で過ごす。そのため胸部水腫・飛節皮膚炎・肢部びらんを発症する(210〜211頁)。これに比べれば、野蛮だと非難されている軍鶏はとても大事にされて2年の生涯を過ごす(213頁)。なお、アメリカではニワトリの値段がウシの1/4である。ただし、牛は屠殺時の体重500キロのうち62%を食肉にできるのに対して、コッブ500は1.5キロしかとれない。したがって牛1頭分の肉を得るためには鶏211羽を殺さねばならない(247頁)。
 コーネル大学の生物学者ポール・シャーマンの調査によれば、各地の何千もの伝統的なレシピでは、いずれも肉料理のほうが野菜料理よりも辛かった。これは肉の危険性を減らすためにスパイスを使った結果と考えられる(229〜230頁)。
 ハツカネズミが殺される同族に対して共感を覚えるにあたって重視されるのは視覚だと実験の結果によって分かった。嗅覚や聴覚を奪われたハツカネズミは共感を示したのに、仲間をみられないように間仕切りしただけでは共感を示さなかったためである(304頁)。ちなみに、この実験は倫理的と言えるかどうかを決断するのは難しい、と著者は述べており、これは本書の全体的なテーマとも言える。


9月15日

 菊地達也『イスラーム教「異端」と「正統」の思想史』(講談社(講談社選書メチエ、2009年)を読む。ムハンマド亡き後のイスラームにおける派閥争いの中で形成されていった宗教思想を、多数派ではないシーア派の視点から探っていく。本書のせいではないのだが、専門外の人間からすればやや難しいところが多く、きちんと理解できたわけではない。ただし、ムハンマドが政治的にもトップであったからこそ、その後継者をめぐる対立が生じ、それがイスラームの宗教思想の形成に大きな影響を与えたという大まかな流れはわかった。最後の方にあるまとめのような箇所が、一神教の歴史的な特徴を分かりやすく指摘しているような気がする。つまり、聖典そのものは信者にとって真理であるが、その啓示が下される瞬間と世代を超えて伝承される過程において、人間が真理を扱うという点を担保にかけねばならない、ということである(223〜224頁)。イスラームの場合はシーア派は特別な個人に求めたが、スンナ派は学者集団全体に求めたということになるようだ。
 以下メモ的に。慣行を意味するスンナの対極に位置するのは、革新を意味するビドアである。ただし、イスラームの文脈におけるビドアとは、ムハンマドの時代にはなかった行いや考えを新たに作り出すことを意味し、否定的なニュアンスとなる。ただし、社会のあり方は激変しているため、スンナに明確に反しない限りは許容する立場が優勢である(52頁)。


9月25日

 黒川正剛著『魔女狩り 西欧の三つの近代化』(講談社(講談社選書メチエ、2014年)を読む。近世に弾圧される魔女は、自然に反するという批判がなされる。というのは、自然とは神によって創造された不可侵なものに他ならないという発想があったためである。この自然に反するという批判は、ローマ末期からすでに見られていたが、やがて信仰における錯誤と重なり合っていく。さらに近世に入ると、自然を超える事績に対する区別が行われる。神の直接の活動の所産に対しては自然を超える奇跡と見なされたのに対して、奇形や怪物の誕生などは悪魔の活動として自然を脱するものとして、悪魔の活動としての魔術や予言と結び付けられるようになる。加えて、この時代はバロック美術が隆盛する時代であることも関わる。バロック美術は、見た目の現実らしさという見せかけによって人々に真理を納得させるものであり、真実よりは真実らしさが重要であった。魔女を弾劾する書物では、実際に魔女の魔術を見たわけではないが、まるで見ているかのような記述がなされているが、バロック美術と類似している。こうしたなかで近世社会の男女の立場も関わってくる。近世社会では妻は夫に服従するものであり、そのあり方が国家にも敷衍された。さらにキリスト教が本格的に民衆社会に広まったなかで、神に服従する人類という考え方も強まる。国家と教会によって民衆文化と女性が曲解と悪魔化として、魔女裁判が行われていく。その一方で、近世は視覚から見たままの客観的・合理的な科学研究として自然を見なすようになる。そうした世界には魔女が存在する場所はなくなっていく。
 著者自身が述べているとおり、魔女や魔女裁判そのものについてよりも、それを近世という時代背景から読み解くことに主眼を置いている。牟田和男『魔女裁判 魔術と民衆のドイツ史』では、当事者同士の解決を目的とする中世の裁判から、制度の拡充とともに真実を求める近世の裁判への変化が、魔女裁判にて拷問をも辞さない追究へと至ったとされているが、本書の見解はそうした流れに連なるものとも言えるのではなかろうか。なお、これも著者自身が述べているとおり、本書の対象は主にカトリック側であり、魔女裁判がより激しく行われたプロテスタントについてはさほど取りあげられていない。両者の違いが分かるようになれば、研究はさらに奥深いものとなっていくのだろう。
 以下、メモ的に。ローマ神話の月と狩猟を司る神ディアナ(ギリシア神話のアルテミスやゲルマン神話のホルダと同一視される)は、女性を引き連れて夜に騎行すると信仰されていた。こうした信仰は中世にも残り続けており、少なくとも10世紀以降には、迷信として教会関係者から非難されていた(48頁)。阿部謹也『蘇る中世ヨーロッパ』(日本エディタースクール出版部、1987年)によると、中世半ばまでは教会にしばしば怪物の彫像が見られ、それらから守ってくれる教会という論法で布教を行ったとあり、夜の騎行への非難が高まってくる時期がだいたい一致するような気もする。


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