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2018年1月の見聞録



1月3日

 金沢百枝『ロマネスク美術革命』(新潮社(新潮選書)、2015年)を読む。ヨーロッパにおける11世紀から12世紀のロマネスク美術を、知識より感情を、写実よりかたちの自由を優先する新たな表現として評価する立場から紹介していく。
 いまさら、ロマネスクを写実的ではないと低く評価する者などいないだろうが、本書で指摘されているとおり、確かにピカソなどを経た後ではそれは当然であるとも言える。それでも、ノルマン征服を描いたバイユーのタピストリーが19世紀に至るまで美術的な価値は評価されていなかった、というのは驚きだが。たとえばナポレオンは、あくまでもイングランド征服という政治的な価値に重きを置いて、ナポレオン博物館で展示させたらしい(46〜47頁)。
 なお、なぜロマネスク様式が用いられたのか、という根源的な問いについては、どうやら解答が難しいようだ。個人的には、阿部謹也『蘇える中世ヨーロッパ』(日本エディタースクール出版部、1987年)にて説明されている、キリスト教を信じてはいなかった民衆へ布教するために、まだまだ信じられていた怪物たちの図像を見せて、教会へ来ればそれらから守ると教えた、という説がわかりやすくて好きである。だが、本書で述べられているとおり、12世紀以前の教会にはそれほど図像がないのであるならば、この説の妥当性は低いのかもしれない。
 やがてロマネスクからゴシックへと移っていくが、ゴシックにおいては大聖堂への部分的な寄付を王侯貴族や富裕層たちが行うようになっていく。その結果として、聖堂内部の空間は分断され、私有化もされていった。こうしてロマネスク的な一体感は崩れていくことになる、ということらしい。だからこそ、内部の装飾も世俗の宮廷文化に近づいていくようである。なお、ゴシック期には巨大な建築ゆえに大量生産による制作へと変わってもいくようである。
 以下、メモ的に。11世紀の聖堂建築ブームは、封建制の確立による安定化、農業革命による新たな開拓に基づく村の建設とそれに伴う聖堂の建造、聖地巡礼の流行が挙げられる(59〜63頁)。
 カール大帝は、アーヘンの宮廷礼拝堂を建てるため、ローマやラヴェンナで石柱や大理石などの建材を集めさせている。ローマ帝国皇帝として戴冠したカールにとっては、古代の再生を示すための格好の道具であった。なお、「再利用」にあたるラテン語のspoliaは「戦利品」が原義に含まれている(66頁)。
 ロマネスクの壁面彫刻はあらかじめ定められた枠があるために、そこに併せるように歪んだ姿に見える。しかし、枠に併せればそこで自由な表現が許されたとも言える。たとえば、最後の審判の彫刻に描かれた罪人の姿は、異様に長くてくの字に曲がっている。これは、恐怖や絶望の表現として使われている(100頁)。ちなみに、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』で指摘されているように、マンガではコマの形の自由が許されているが、これとは逆の動きなのかもしれない。なお、ここには隙間に対する恐怖があったとも言える。古代末期の石棺やバロックの彫刻にも、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた構図はしばしば窺える(90頁)。
 ロマネスク美術で描かれる海獣ケートスは、古代ギリシアのころから図像化されている。ギリシアの壺絵では全体像は描かれず大きな口が強調されていた。ただし、ローマ時代になるとアイリアノス『動物の性質について』には、「獅子、ヒョウ、雄羊の頭を持つ」ケートスが描かれるようになる。なかでも犬のような長い鼻面と前足を持ち鱗のある尾が長くとぐろを巻いたケートスが増える(114〜115頁)。古代末期にはキリスト教徒も葬礼美術に用いた。「マタイ伝」第12章第40節での海に投げ込まれたヨナが怪物に飲み込まれたものの陸地にはき出されて助かったという逸話にて、怪物にケートスの語が当てられているためである。なお、イエスはヨナのように死から復活すると予言している。したがってケートスは神の使いとして登場している(116頁)。古代末期のキリスト教徒たちは、この生き物を図像化する際に大魚ではなく、怪物のイメージを用いた(118頁)。だがロマネスク期には、古代の規範が薄れて柱頭に物語が刻まれていったのと同じように、ケートスは誰にでも分かる魚型となった(120頁)。
 古代ギリシアのドラコーンは、アリストテレス『動物誌』やパウサニアス『ギリシア案内記』に見られるように、大蛇であった。ラテン語でも同様であった。アウグスティヌスも「創世記注解」では、「竜に脚はなく、洞穴に休み、しかも空へ舞い上がるといわれている」と記している。


1月13日

 マルクス・シドニウス・ファルクス(ジェリー・トナー解説、橘明美訳)『奴隷のしつけ方』(太田出版、2015)を読む。古代ローマ人が書いた奴隷のしつけ方のガイドブックという体裁を取った、古代ローマの奴隷に関する入門書。奴隷は言葉を話す道具と見なされていたが、決して無意味に虐げるのではなくいかに上手く管理するのかをローマ人が考えていた点がよく分かる。奴隷は財を持つことも許されていたというのは、近代の奴隷制とはかなり異なっているとは思われる。ただし本書を読んでいると、現代の経営者がいかにサラリーマンを上手く使うのかについて述べているガイドブックを読んでいるような気もする。社畜とはよくもいったものである。
 なお、奴隷の供給源として海外からの輸入が主であるとされているが、本村凌二『薄闇のローマ世界 嬰児遺棄と奴隷制』(東京大学出版会、1993年)では、捨て子が主な供給源とされている。


1月23日

 エレツ・エイデン、ジャン=バティースト・ミシェル(阪本芳久)『カルチャロミクス 文化をビッグデータで計測する』(草思社、2016年)を読む。Googleがスキャンした数世紀分の書物から、各年に発行された本に使われている単語・フレーズの使用頻度をグラフに示す「グーグル・Nグラム・ビューワー」を用いて、用語の変遷を探っていく。
 ビッグデータの分析はなかなか面白いのだが、それを利用するまでのノンフィクションの部分が多くて、それよりも分析をもっと読みたかった気がする。素材が足りなかったから、そこに至るまでのドキュメントを増やしたのかな、という穿った見方をしてしまった。ただし、そうした経緯のなかでひとつだけ興味深かったのが、「グーグル・Nグラム・ビューワー」を著者たちが利用できるようになった経緯。グーグル・ブックス・プロジェクトの最高責任者だったダン・クランシーの許可を得るにあたって、クランシーが熱烈に支持していたスティーヴン・ピンカーに著者たちがプレゼンを行って、会議に両者を呼んだところ、30分で許可が下りたという(122〜123頁)。アメリカでもコネって大事だな、と。
 以下メモ的に。The United States isという表現がThe United States areという表現に代わって用いられたのは、南北戦争以後だったというのが通説である。しかし、「グーグル・Nグラム・ビューワー」によれば、南北戦争の終戦から15年ほどたった1880年代以後に両者の頻度はひっくり返って、前者が急増するようになった(14〜15頁)。
 「グーグル・Nグラム・ビューワー」に従えば、ある不規則動詞の半減期は使用頻度の平方根に比例する。ある不規則動詞の100分の1の使用頻度しかない不規則動詞は、規則化されるまでに要する時間が前者の10分の1になる。たとえば、使用頻度が100回に1回から1000回に1回の間に入るdrinkやspeakのような不規則動詞の半減期はほぼ5400年となる(67頁)。
 ナチス・ドイツ時代にはシャガールをはじめとする退廃芸術家と見なされた人物の名前は書物から消え去っている。1936年から1943年までのドイツ語の本では、マルク・シャガールというフルネームは1回しか現れない(179〜180頁)。
 「第一次世界大戦」はもともとGreat Warと呼ばれていた。しかし、第2次世界大戦が勃発すると、World War IIが定着していく(212〜213頁)。このあたりの話は、木村靖二『第一次世界大戦』にもあった気がする。
 go to heavenとgo to hellでは19世紀半ばまでは、前者は後者の2倍であり、前者の10億語あたりの出現回数は1000回に至ることもあったが、後者はその半分であった。だが1912年を境に逆転し、20世紀には後者が約500回で前者その半分ほどになる(346頁)。


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