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2014年11月の見聞録



11月4日

 谷口忠大『ビブリオバトル 本を知り人を知る書評ゲーム』(文春新書、2013年)を読む。参加者がおすすめの一冊を持ち合い、本の魅力を互いにプレゼンしあって、どの本を読みたくなったのかを最後に投票をして優勝者を決める「ビブリオバトル」について紹介する。公式ルールは「発表参加者が読んで面白いと思った本をもって集まる」、「順番に1人5分間で本を紹介する」、「それぞれの発表の後に参加者全員でその発表に関するディスカッションを2〜3分行う」、「すべての発表が終了した後に「どの本が一番読みたくなったか?」を規準とした投票を参加者全員一票で行い、最多票を集めた者を『チャンプ本』とする」の4つである。
 単に銘々が紹介するだけで終わるのではなく、ゲームとして勝利者を決めることで、「自分が好きな本」というだけではなく、「その場にいるみんなも読みたいと思いそうな本」という視点が入り、その場の参加者も興味を持ってくれそうな本を持ってこようとする。それによって、好きな本を紹介するだけの一方的なトークで終わりにくくなり、聴講者によいプレゼンをしようという緊張感が生まれる。絶対に5分は紹介するということで、早く終わった際にも意外なトークへと発展して、その人の性格や思わぬ人となりが見えることもある。さらに全員が投票権を持つことで、プレゼンをせずに話を聞くだけの人にも、真剣に聞こうという緊張感が生まれる(だからこそ、少数のゲスト審査員のみに投票権を与えるようなことはしてはならない)。従ってビブリオバトルには、本の内容を参加者で共有できる、スピーチの訓練になる、いい本が見つかる、紹介本を通じてその人の人柄や考えなどの理解が深まる、といったメリットがあると言える。
 著者自身も語っているが、よくビブリオバトルだけで1冊の本を書けたなあ、と思う。分量を増すために、ビブリオバトルのシミュレーション的な創作やエピローグ的な小説も挿入されている。ビブリオバトルがどのように誕生したのかの経緯も書かれているのだが、元々の始まりは学生時代に行っていた輪読会の問題点を考えて魅力ある図書紹介を行うにはどうすべきかという試行錯誤にあったようである。著者も指摘するように、輪読会は読んでみるとつまらなかったということもあり得るし、自分が紹介を分担した箇所しか読まないこともしばしば起こって、結局のところ本の内容が頭に残らないケースも多い。本の内容をつかみやすいし、面白そうな本を知りうるという点では、確かにビブリオバトルの方が輪読会よりも利点はある。
 なお、上記のように輪読会に端を発しているのだが、しばしばビブリオバトルは教育目的として始まったと誤解される場合が多いらしい。ただし、著者自身も取り上げているように、すでに大学の授業としても行われており、中学校や高校、さらには小学校でも行われたようである。個人的には、小中学生に読書の楽しさを体感してもらうためにこそ有用なのではないかと思う。著者も述べているように、読書感想文ではあらすじを書いて面白かったと締めくくって終わってしまいがちだし、教員の目を意識したよい話を書いて終わってしまう。これがビブリオバトルならば、参加者に面白いと思ってもらうための本を選ぶという点でつまらない枷が外れるし、小中学生の方が勝って嬉しいというのを素直に喜びやすい。これに加えて、ビブリオバトルを通じて人を知るという特徴は、たとえばクラスのなかでくじ引きをして班分けをランダムにすることで、特に親しくしていなかったクラスメイトと仲良くなるきっかけを与える結果になるのではなかろうか。場合によっては、同じ本を使ってメンバーを変えて何回かバトルを行えば、その可能性を増やすことになる。1日で何回もすることが負担になりそうならば、3日連続で行ってもよいだろう(なお著者は、小学生の場合は1人の持ち時間を3分に縮めてもよい、という特別ルールを設けている)。小中学生でも友達のグループ化はおこりがちなので、たとえ友達にはならなかったとしても、少しでも交友関係を広げるためのきっかけになるのではなかろうか。
 ところで、面白そうな本を知って交流を広げて深めるというのがビブリオバトルのメリットだろうが、その点ですでに輪読会とはかなり性格を異にしている。個人的には、輪読会の対象となる本は、自分1人で読むのはしんどいような基礎文献や古典的な文献だと思う。みんなで読むことで、必読文献を読んでしまおうというわけだ。その際には面白さだけではなく、その本の問題点の指摘や本の主張を乗り越えるような視点をいかにして持つのかを意識する必要もある。そうした態度は何も基礎文献に対してだけではなく、あらゆる文献に必要となる。本を読んで批判するだけに留まらず、いかにしてさらに説得力のある意見を言えるのか、または他の事象にどのように活用できるのかを考えることが必要となる。その意味で、大学教育として活用するには、読書の楽しさを知りプレゼン能力を上げるビブリオバトルの利点を踏まえた上で、さらにそうした態度を身につけるような教育も必要になるだろう。


11月9日

 米沢穂信『ふたりの距離の概算』(角川文庫、2010年(リンクは文庫版))を読む。古典部シリーズの続巻(前巻『遠まわりする雛』はココ)。春を迎え、進級して高校2年生となった奉太郎たちの「古典部」に、新入生の大日向友子が仮入部した。しかし、和やかな時間を過ごしたはずの大日向は、千反田との会話を終えたある日、入部はしないと告げて去っていく。一体何が起こったのか、奉太郎はマラソン大会のさなか昨日の千反田と大日向の会話に至るまでの過去の出来事を思い出しながら、マラソンを走る古典部の面々と会話しつつ、大日向と対峙して自分の推測を告げる…。
 前作で意識した奉太郎とえるの微妙な距離感を維持しながら、奉太郎がえるという他者の理解を通じてささやかに精神的な成長を遂げているのだな、と読んでいて実感できる…と思ったのだが、何となく保護者の目線だな、これは。日常の謎としてのミステリも、きちんと面白いものに仕上がっていると思うので、これまでシリーズを読んできた読者ならば、十分に楽しめるのではないだろうか。
 ちなみに余談だが、アニメ化されたことによって一気にファン層が広がり、次々と二次創作が生みだされているので、著者は新作が書きにくいかもしれない。とはいえ、早くシリーズを書き終えないと、発表時の時代観が作品の時間とずれていってしまう危険があるので、早めに完結させて欲しいところではあるが。


11月14日

 城平京『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫、1998年)を読む。毒殺事件が起きたのだが、その直前に『メルヘン小人地獄』なる怪文書がマスコミ各社に届いていた。さらに小人地獄なる毒が実在することが判明し、毒殺された家族への脅迫者も現れた。その家の娘の家庭教師をしていた三橋は、同じ研究室に属する名探偵の瀬川に助けを求める。彼女によって事件はあっという間に解決したのだが、再び小人地獄をつかった毒殺事件が起きた…。
 1つめの事件と数年後の事件の2部構成になっているのだが、ミステリとしての構成よりも(決して出来が悪いわけではない)、名探偵の苦悩の方が強く印象に残る作品となっている。瀬川は事件を解決するごとに被害者の側も加害者の側も後ろ暗い部分があり、事件の解決によって何かが崩壊する目に何度も遭っていながらも、自分自身の能力ゆえにそこから離れられない、という設定になっている。ミステリは謎解きと社会派とに大まかに分かれると思うが、前者では忘れられがちな、単にパズルを解く傍観者でいるわけにはいかない探偵側の苦悩を、読む側にも感じさせる。特に2つめの事件の加害者の場合、名探偵への憧れとそれを目に焼き付けておきたいという思いが、事件へとつながっているのであり、その苦悩がより一層引き立っていると言える。読んでいて後味の良いものとは言えないが、ミステリの題材である事件に備わっている業のようなものを感じたい読者には、お勧めできるのではないだろうか。


11月19日

 呉智英『マンガ狂につける薬 二天一流篇』(メディアファクトリー、2010年)を読む。呉智英『マンガ狂につける薬21』と同じく、雑誌の『ダ・ヴィンチ』の連載をまとめたもので、テーマ的に関連性があるマンガと書籍を1冊ずつ取り上げて短評していくスタイルを続けている。マンガに関しては、以前ほど読みたいと思える作品がなくなったのは、情けないことだがマンガについてのこちらの感性が鈍ってきているのかもしれない。書籍はどちらかと言えば文学作品が増えている気がする。いまの自分にとって関心が引かれたのは、ごく普通の日常生活を描き出すような作品だった。特に興味深かったのが「職人と俺様化」。戦後の左翼知識人は、芸術家をアルチスト、職人をアルチザンとわざわざフランス語で言い換えて、アルチザンではなくアルチストになるように説いたという。職人は「すでに存在しているものを発見することはできるが、自ら発明してゆく想像力は独創性はない。時代に添い寝し、人に使われ、歴史を牽引することなどできない人間」(83頁)だと見なされていたという。ただし現在では、一般人の自己顕示欲が高まった結果として、職人が誉め言葉として用いられるようになっている、との皮肉な見方も示している。これを読んで、「アトランティス伝説が孕むアカデミズムの袋小路」で引用した、山形浩生「「創作者」は思い上がってはいけない」(初出は、『Voice』2007年2月号、110〜111頁)での、著作権の延長を主張する著作家たちに対する「自分の職能を重要に見せたいから、創作の生みの苦しみだのなんだのをやたらに美化する」態度への弾劾を思い出した。ここでの創作者とは、アルチザンを気取る知識人と同じであろう。
 それとともに山本義隆『一六世紀文化革命』で紹介されている、近世に至るまでヨーロッパでは「書物を中心にした世界こそが高い知識として評価されており、現場の技術は卑しいものと見なされていた」という状況を思い出した。


11月24日

 芝村裕吏『この空のまもり』(ハヤカワ文庫、2012年)を読む。世界中のあらゆる場所と人に電子タグをはりつけられる時代となった日本には、近隣諸外国民の政治的落書きで満ちていた。政府の対応に不満を持つネット民は架空政府を設立した。、幼なじみの女性に心配されているニートの田中翼は、架空防衛大臣として架空防衛軍10万人を指揮する身となった。しかし架空防衛軍は、翼が唯一共感する防衛軍の参加者である老女の不安が的中するかのように、翼の抑制を超えて現実世界でも爆発してしまった…。
 舞台設定は、アニメの『電脳コイル』のように現実世界に仮想空間を上乗せするような設定で、どちらも仮想空間との関係の不安定性が重要になってくるのだが、あちらがそれと個人がいかに関わるべきかという部分に主眼を置いているとすれば、本作は政治的な部分を重視している。より具体的に言えば、いわゆる「ネトウヨ」が現実化した仮想現実の世界に放り込まれれば、このような暴走を迎えるのではないか、というモチーフが感じられる。別にネトウヨを擁護するつもりはないし、特に共感しているわけでもない。著者自身もナショナリズムに肩入れしているわけでも批判的なわけでもないのは、「〔愛国心という〕獣は猛獣で人類史上何人も何人も殺してきたのだが、同時にひどく慈悲深く、同胞を助けるために何人もの人々に寄り添っては立ち上がるまでその心を守ってきたのだった」(295頁、〔〕内は引用者)という文章からも分かる。その上で思うのだが、ネトウヨには良くも悪くも本書のような現実世界を揺るがすほどのパワーはない気がする。ネトウヨと言うよりもナショナリズム的な運動という方が正しい。浅羽通明『右翼と左翼』が指摘するように、現在は左翼に対するカウンターパンチとして、ナショナリズムや国粋主義という考え方が生じたにすぎないため、「左翼」という敵に依存した存在にすぎないならば、自発的に何かを創り上げるような動きには結びつかない気がするので。というよりも、ナショナリズムは意識せずとも存在しているという意味で普遍化してしまったために、逆に現実的な力をなくしてしまったというべきか。ただし、何か新たなパラダイムが出てくるにあたって、ナショナリズムとグローバリズムの衝突が踏み台になるのかもしれないが。
 むしろ、もしかしてそうなるのでは、と思わせるのは、「自由恋愛を唱える左巻の入った新聞社は、お一人様老人とともに時代の波に消えた。〔中略〕同様にきらきらネームとかDQNネームと言われた昔の規準から見て変な名前も、一般化した批判にさらされていた時代から三〇年で、批判していた連中が子孫を残していないことはもはや明白だった」(210頁)という箇所。なお、スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー『ヤバい経済学 悪ガキ教授が世の裏側を探検する 増補改訂版』によれば、アメリカでは上流階級のあいだでまず流行った名前が、普通の家で使われる、やがてより低い階級のあいだで使われると、使い回しが終わるというサイクルになっているそうだが、日本では歴史的に見てどうなのだろうか。パオロ・マッツァリーノ『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』に基づくと独自のものを付ける傾向が強いのかもしれないが、やがては何らかの方向性に収斂していくような気もする。ただし、変な名前が増えたという設定なのに、主人公の名前が翼で幼なじみは七海という割と普通な名前なのはちょっとおかしい気もするが。


11月29日

 森川智喜『踊る人形 名探偵三途川理とゴーレムのEは真実のE』(講談社Box、2013年)を読む。探偵小説が大好きな小学生の古沢くんは、同級生のふみこちゃんと一緒に、謎の博士・エリカと彼女が泥と呪文でつくりだした怪人・ゴーレムに出会った。しかしゴーレムは、孤独を嘆いて自分の仲間を増やせと博士を脅迫しはじめて、博士とふみこちゃんを誘拐してしまった。古沢くんは探偵団の先輩と一緒にゴーレムを倒そうとし、さらに出張から帰ってきた探偵団の長とも言える名探偵・三途川理の協力を得て自体の解決を図ろうとする…。
 前作の『スノーホワイト 名探偵三途川理と少女の鏡は千の目を持つ』と同じく、探偵として三途川が登場する。ただし、前作と性格的には似通っていても、それ以外の設定は全く異なっている。となれば、はたして三途川が登場する必然性はあったのだろうか。三途川が悪しき企みを持っている人物として先入観を持ってしまうので、ミステリとしては意外性をはなから捨ててしまっているように感じられる。「悪名高い三途川」という人物を設定を変えて楽しむ、というコンセプトを意図しているのであれば仕方がないとは思うが、個人的にはいくらトリック等に興味を引かれても、倒叙ミステリでもないのにこのような手法が続くならば、これでこのシリーズはもういいかな、と。


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