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2014年12月の見聞録



12月4日

 山本義隆『世界の見方の転換』(みすず書房、2014年)1(世界の一元化と天文学の改革)2(地動説の提唱と宇宙論の相克)3(天文学の復興と天地学の提唱)を読む。ものすごく簡単に言ってしまえば、ヨーロッパの宇宙論の決定的な転換は、天動説から地動説へと移ったことにあるのではなく、アリストテレスによる地上世界と天上世界の二元論が崩れ去って、地球を他の惑星と同列に置いたことにある、とする。その転換において決定的だったのは、それまで信じられていた天体運動は等速円運動によってのみ成り立っているという考え方が否定されたことでもあった。
 そもそもアリストテレスの宇宙観では、水・土・空気・火の元素で構成されていた地上と異なり、月より上の天上界は普遍の物質であるエーテルによって構成されていると考えられていた。なお、こうした二元的世界像そのものは、キリスト教にとっても受けいれやすいものであり、中世以後も信奉され続けていった。
 その一方で、アリストテレスはこうした宇宙観を観測による検証によって提唱したわけではなかった。その正しさは定義の正確さと厳密さに求められており、「かくあるべき」宇宙を重んじていた。この自然学的な宇宙論はに対して、数学に基づく観測による天文学は別の存在であり、その代表であるプトレマイオスの宇宙論は、アレクサンドリアの学問を受け継いで現象の数学的な法則の探求へと目が向けられた。こうした観測による天文学は、自然学的な宇宙論よりも下位に置かれた。そうした態度はプラトンも同様だったが、イデアの世界を求めた彼の思想は、どれほど複雑な自然現象であってもその基本においては単純な概念で理解可能であるとの指摘につながり、これこそが現代物理学の信念にもつながっている。とはいえ、イスラームや中世ヨーロッパではアリストテレス的な宇宙観が受け継がれ続けた。
 ただし、その中で受け継がれていた天動説は、プトレマイオスによって理論的な完成を見た。プトレマイオスは惑星の運動を説明するために、地球のまわりの円軌道である導円のまわりを、周転円として円運動しながら移動しているとみなし、移動速度の差異を、導円の中心点を地球から離れた場所に置くことで解決しようとした。こうした天体の運動の解析のためには正確な地理的情報も必要だと考えて、プトレマイオスは地理学の書物も記しているが、ルネサンス期のウィーンにてまずは彼の地理学の再発見が行われる。そうしたなかで、それまで蔑まれていた観測や実験に基づく調査が盛んになっていく(これについては著者の前著『十六世紀文化革命』を参照)。
 ただし、中世までにおいても天文学が活用されている場面はあった。暦と占星術である。古来より占星術は、法則通りに動く星の動きに影響を受けるという点で科学に属するものだった。キリスト教は占星術を聖書の解釈に役立たないものとして否定したが、占星術に通じて天の影響を正しく知れば、天の及ぼすところに抗しうるという理屈で、その知識を許容していった。ウィーンにて天体運動の観測が進められたのも、ハプスブルク家で占星術が重んじられたことと関係している。
 こうしたなかで登場したのがコペルニクスであった。ただし、コペルニクスが革命的だったのは、地動説を訴えたことにあったのではない。そもそも彼の地動説は天体の運動は円運動のみで説明すべきという見解にとらわれていたため、結局のところプトレマイオスが天動説に用いた周転園と導円のモデルに、さらにもう1つ周転円を加えているにすぎない。むしろコペルニクスがそれまでの宇宙論と決定的に異なっていたのは、地球を他の惑星と同列と扱ったことにある。つまり下等な地球と崇高で神聖な天上界というそれまでの二元論的な宇宙論を否定したことにある。その一方でコペルニクスは、厳密な観測に基づいた理論の構築を行ったわけではなく、プトレマイオスやその他の観測データの恣意的な観測すら行っている。観測に基づく天文学を発展させたのはティコブラーエであった。ティコは、地球を中心として円運動する太陽のまわりを他の惑星が回るという説を主張した。これは天動説と地動説の雪中主義的な阻害物と見なされているが、決してそうではない。地球を中心とした球状の宇宙という見方を否定するものであえう点で、コペルニクスを含むそれまでの宇宙論に代わる理論でもあった。
 この後に登場したケプラーにとって、太陽中心説はもはや自明の理であり、その体系が成り立つ原因を探ることこそが目的となった。軌道を円軌道と見なす演繹的な論証ですまさずに、正確な観測に基づいて検証する姿勢を徹底して楕円軌道を提唱したたケプラーの姿勢こそが、自然科学の出発点でもあった。
 『磁力と重力の発見』『十六世紀文化革命』に続く近世ヨーロッパでの科学および思想の転換に関する書。ケプラーの天文学の物理学化の鍵となった当時訴えられつつあった天体観に働く遠隔力の概念の導入については『磁力と重力の発見』での説明と関係しているし、16世紀に重んじられた実学が天文学で観測を重んじる姿勢につながる点で、『一六世紀文化革命』と関連している。3つのなかで一番アカデミックっぽい論証となっている書物であり、そのために壮大さという点では他の二つに譲るが、焦点の絞られ方という点では最も分かりやすいかもしれない。初めにこれを読むよりは、長いエピローグ的に本書を読むのがよいだろう。
 ところで、コペルニクスに関して、彼が太陽を中心に置こうとしたのは新プラトン主義の影響だとする見解に対して、著者は否定的である。エジプトの太陽崇拝の影響を受けた『ヘルメス文書』には、太陽は世界の中央に座すと記されているが、コペルニクスの意義は二元論に基づく天体の神聖性を破壊したことにあるので、そうした見解には結びつかない、としている。あくまでも個人的にだが、直に結びつかなくてもインスピレーションを与えたことはあり得るのだろうか。実際に、本書にも挙げられているように、コペルニクス自身も「あらゆるものの真ん中に太陽が座している。というのは、いったい誰がこのもっとも美しい神殿の中で、全体を一度に照らすことのできる場所とは別の、あるいはもっと良い場所に、この炬火を置けようか」と述べている。さらに言えば、村上陽一郎の諸著作を読む限り、新プラトン主義と言うよりは、『旧約聖書』にて神が最初に創ったとされる太陽を中心に置こうとしたというキリスト教の影響があるように思える(これも本書にあるとおりコペルニクスは教会で勤めていた)。コペルニクスの太陽中心主義が新たな実験と数値に基づくものではなかったという本書の議論からすれば、むしろ神秘主義的な信念が核にあったという見方の方がしっくりする気がする。
 ちなみに、過去の人物はカタカナ表記であるのに対して、現代の研究者はアルファベット表記になっている。誰かが、読み間違いをさも大事のように突っ込むというつまらないことをしたためにこうなってしまったのだろうか、と邪推してしまった。
 以下、メモ的に。ストア哲学では、アリストテレスの宇宙観とは異なった捉え方をしており、天上界と地上との区別をしていなかったようである。たとえば、セネカ『自然研究』第9章第9節では、天と地の分割を認めていない。一般的には紀元後10年前後に書かれたマルクス・マニリウスの占星術の書にあるように、「土・水・空気・火の結合から生まれた自然」と「エーテル質がたえず円運動を行う」ところの「エーテル界」が区別して語られていた(1・6頁)。
 プラトンやアリストテレスの宇宙論は思弁的な哲学者の系譜に属している。これに対して観測天文学は、毎年繰り返される農作業や宗教儀式の日取りのための暦作成という実用的技術に基づいていた(1・28頁)。
 プルタルコスによれば、「エウドクソスとアルキュタスが機械的装置を用いて作図したことに対して「プラトンはそれを不満として、二人に対して幾何学の美点を壊滅させて、非物体的な悟性的なものから感覚的なものに外れるようにし、さまざまな賤しい仕事を必要とする物体を元のように用いるようになったと非難した」。そのため古代ギリシャでは「機会学は幾何学から分離され、長い間哲学から侮蔑されていた」(30頁)。
 手写本では転写のたびに図像情報が劣化し不正確になっていくことは、プリニウスが植物学・本草学に関して『博物誌』(25.4)で指摘していた。プトレマイオスも同様のことを指摘しており、そのために『地理学』(1.18.2.3)にて記事本文を用いてできるだけ容易に地図化が果たせるように示すことが大切だと考えていた(1・86頁)。
 プトレマイオスが記した各地の経度差の値は全般的に現実より2・3割ほど大きい。他方で地球を実際よりも小さく考えていた。この誤りのため、西回りでアジアに至る距離が小さく見積もられた(1・92頁)。
 古代ローマ人は北方のゲルマン人を蔑んでいたが、ルネサンス期のイタリア人にも同様の傾向は見られる。たとえば、ペトラルカは『イタリア人誹謗者論駁』にて、ガリア族は蛮族だが、あらゆる蛮族のうちで一番温和であると述べて、言外にゲルマニア人はガリア以上に野蛮だと匂わせている。それから1世紀ほど後のバルバロは、北ヨーロッパのスコラ学者を「鈍重で、粗野で、無教養な野蛮人」と評している(1・104〜105頁)。
 古代において、水星に関しては様々な意見があった。アリストテレスは、月下の最上部にある気体状の可燃性物質が天の運動で発火して、しばらく持続したものと見なした。ピュタゴラスやセネカは、6番目の惑星と見なしていた(3・702〜703頁)。
 ヤーコブ・ブルクハルトは『イタリア・ルネサンスの文化』にて、ルネサンスを特徴付けるメルクマールとして、国家や党派や門地に拘束されないコスモポリタニズムに基づく個人の発展を挙げた。これと同様に、祖国デンマークから亡命せざるを得なかったティコ・ブラーエも、天文学者もコスモポリタンであると捉えていた(3・819〜820頁)
 ケプラーはもともと聖職者を志していたが、天文学に没頭するなかでその願望は薄れていった。ケプラー自身で言うところの「聖書であれほど誉めそやしている自然という書物」の研究を進めていった。「神のみ言葉としての聖書の学習から神の御業としての自然の学習に転じた」のである(3・979頁)。実際に1595年の手紙の中で、太陽は不動であり、「運動の源泉として乳なる神、造物主の似姿となっています」と語っている(3・1021頁)。さらに、『宇宙の神秘』では、「宇宙は神により主さと尺度と数とで、つまり神とともにある永遠のイデアでもって創り出された」と述べ、世界の秩序は「(神の)創造のイデア」からアプリオリに導かれると考えていた。なお、ガリレオへの手紙には、「我らが真の師たるプラトンとピュタゴラス」と述べている(3・1092頁)。


12月9日

 片理誠『エンドレス・ガーデン ロジカル・ミステリー・ツアーへ君と』(早川書房、2010年)を読む。目覚めた少年の前には、蛾の妖精の姿をした少女がいた。彼女によってここが、人格の暮らす電脳空間と分かる。彼女は管理を行うメインOSの擬似人格で、システムダウン寸前のこの世界を救うために少年は創り出されたのだった。そのためには10個のアクセスキーを集める必要があったのだが、それらは40万の住人の個人空間を通過していき、謎を解き明かさねばならなかった…。
 全体としては上記のような世界の救済が中心的なストーリーなのだが、10種類の様々なタイプのクエストをこなす部分がこの物語のメインとなっている。個人的には、全体のストーリーの核心部分は、それほど意外性を感じなかったのだが、個々のクエストは十分に楽しめた。ある意味でゲーム的とも言えると思うが、そういったクエストが好みならば、面白さを感じると思う。
 なお、ルネサンスはキリスト教の支配を終わらせて人類を再生ださせたと、とある人格が語る場面があるのだが(177頁)、実際には逆で、ルネサンスの知識人の核にキリスト教があったのは、村上陽一郎『新しい科学論 「事実」は理論をたおせるか』(講談社ブルーバックス、1979年)などで,ほぼ通説になっていると言えるだろう。


12月14日

 京極夏彦『魍魎の匣』(講談社文庫、1999年(原著は1995年))を読む。『姑獲鳥の夏』の続編。クラスのなかで孤独だった楠本頼子は、孤高の秀才の美少女である柚木加菜子との親交を深めていったのだが、2人だけの旅行に行く際にホームから転落して列車に轢かれてしまう。加菜子が手術後に入院することになったのは、巨大な匣型の建物をした研究所であった。同じ頃、箱に詰められた女性のバラバラ死体が次々と見つかるのだが、箱をもって穢れを取り去ると謳う新興宗教の存在が見え隠れする。そうしたなかで、加菜子は忽然と姿を消してしまった。文士の関口、編集者の鳥口、探偵の榎木津、刑事の木場は、それぞれがこの別々の事件に関わりを持ち、古本屋の京極堂こと中禅寺の元へとやってくる…。
 前作では、不確定性原理と共同幻想を巡る長い対話シーンがあったが、今回は超能力者と占い師と霊能者と宗教者の違いに関する対話が続く。ただし前作と異なり、トリックそのものに関わるわけではない感じ。そのトリックは当時の科学的な水準から考えて(というか現在で考えても)あり得ると言えるのどうか分からないが、「匣」そのものをつかったなかなか大胆なものだろう。ただし、前作ほど拒否感はないかもしれない。
 ちなみに、4つの能力者の違いだが、鳥口が簡単にまとめているんで、一応メモ(301頁)。超能力者はいかなるペテンも許されない。占い師は、占いの本文を守っているならば導入でのペテンは容認できるが、畑違いの祈檮や供養に言及するならば注意が必要である。霊能者はばれなければどんなペテンも許されるので、仕掛けを看破しただけでは糾弾できないが、人を救済できないヘボな者や無責任に予言する者、料金の高い者には注意が必要となる。宗教者の場合、信仰の姿勢や教義自体に問題がなければ、簡単に批判や糾弾を加えるべきではないが、信仰や教義と無関係な活動は分けるべきである。
 ところで、中禅寺が初対面の鳥口の故郷の風景を適切に述べてみせるシーンがあるのだが、行ったことのない場所でも出身地に関する本を読んだことで再現した、と種明かしをする場面がある。これは、柳田國男のエピソードを拝借したものだろう(佐藤健二『読書空間の近代 方法としての柳田国男』(弘文堂、1987年)で引用されているのを読んだことがある)。


12月19日

 アンドルー・ゴードン(大島かおり訳)『ミシンと日本の近代 消費者の創出』(みすず書房、2013年)を読む。明治後半以後には、ミシンは日本に浸透していく。当時の日本では、裁縫とミシンは必要があれば就職して稼げる良妻賢母の技術として重視されていた。ヨーロッパや北米では、服飾が専門の職人へと移っていくという家庭外で主として活用されていたのとは対照的である。そもそも和服はミシンでの裁縫に向いていなかった。
 そうしたなかで、アメリカのミシンメーカーであるシンガー社は、日本での販売網をつくっていこうとする。その際に用いられたのはシステム化された共通の販売システムであった。さらに、経済の近代性の象徴でもあるメイド・イン・アメリカの製品で洋服を作って着るという宣伝を行って顧客を獲得しようとした。その宣伝では、伝統的な和室に家族と一緒にいるなかで、ミシンを持ち込んで和服姿の母親がミシンを娘に教えている写真が使われたこともあったが、これはアメリカにてシンガー社が使っていた公告の挿絵を日本にそのまま持ち込んだにすぎず、まさにグローバルな近代性の象徴でもあった。近代的な家庭では婦人は家政上の義務に千円すべきと期待されていたものの、同時に内職による家計の補助も想定されていた。
 ただし、1930年代半ばになると、日本のメーカーがミシンの生産台数を明らかに伸ばしていく。1936年には日本国内での販売台数がシンガー社が3万4千台だったが、日本メーカーのものは4万台とついに逆転する。ただしそれらの国内ミシンは、明らかにシンガー社のコピーであり、セールスマンを使った販売網もシンガー社のそれと同じ手法を用いていた。太平洋戦争中のもんぺをきっかけとして、洋装へと本格的に移行し、家庭内での裁縫が長時間にわたって営まれるようになる。終戦後には、そうした状況を受け継ぎミシンが中流家庭の文化用品として広く普及していった。ミシンはこうして国内の需要という経済成長をも支える商品となった。
 本書のテーマとなっているのは近代日本におけるミシンであり、ミシンが日本の近代化とどのように関わっていたのかが大きなテーマとなっている。それと同時に、本書の冒頭で語られているように、その背後にあるテーゼは、グローバリゼーションが各地域のローカルな事情としていかに受容されたか、と言える。たとえば、マルクスとガンジーはともにミシンを批判的に語っているが、ガンジーにはインドの事情と絡めた視点が含まれている。マルクスは、ミシンという機械によって、職人の賃金が引き下げられ、ミシンのある狭苦しい部屋に押し込まれて働かされ続けているる、と批判した。これに対してガンジーは、機械に対する熱狂的流行は批判しつつも、家庭での妻の仕事の苦労を解消しうるものとしてミシンの価値を認めている(4〜5頁)。日本では、ミシンが中流家庭の統合に一役買ったとされているわけだが、こうした視点は非常に面白い。
 それと同時に、かつては日本製品がアメリカのコピーにすぎなかったという状況を、確認できる。今は日本が中国や韓国などのコピーを強く批判しているが、かつての日本も同じ立場だったということになる。それでは、中国や韓国は今の日本と同じ地位に昇ってくることはあるのだろうか。あくまでも個人的な予想にすぎないのだが、何となくそのようには感じられないというのは、日本びいきすぎる考え方なのかもしれない。
 以下メモ的に。労働相婦人少年局が1952年に行った、東京地域の都市労働者階級400世帯の時間利用状況の調査によれば、工場労働者と結婚して外で働いていない女性は毎日180分を裁縫に充てていた。これは三度の食事を用意する時間(181分)とほぼ等しい(3〜4頁)。
 一般的に、日本へ初めてミシンが持ち込まれたのは、1860年に通商条約の使節団員として派遣されたジョン万次郎によるとされているが、実際にはもう少し早かったと考えられる。1858年にハリスがミシンを献呈したことをうかがわせる史料がある。また1859年に日本へ住んで条約港に住んだ西洋人にもミシンを持ち込んだ者がいる。1860年6月9日のニューヨークの新聞の木版画にも、武士がミシンを使っている場面が描かれている(18〜19頁)。
 日本図書館協会が実施した職業婦人読書傾向調査では、6600人の調査対象のうち72%が解答したのだが(なお、回答者の5人中2人が高等女学校を卒業)、『婦人倶楽部』・『主婦之友』・『婦人公論』は読まれた全雑誌の73%を占めていたのに対して、一般向け座足で人気のあった『改造』や『中央公論』はそれぞれ34人と24人とごく少数であった(99頁)
 今和次郎が1937年5月に実施した各地での洋服の普及率の調査によれば(発表は同年6月の『婦人之友』)、最も高いのは台北の46.6%であり、それに京城の40.7%が続く。なお平均は26%だが、当時の日本本土では金沢の36%、静岡の33.4%、盛岡の31.3%などが高い数値の都市であり、東京は25%、神戸は21%とほぼ平均値、大阪は18.5%、名古屋は15%、京都は13.9%と低めであった(181〜182頁)。


12月24日

 貫井徳郎『愚行録』(創元推理文庫、2009年(原著は2006年))を読む。都内の住宅街で起きた一家惨殺事件。理想の一家に見えた被害者に関して、近所の人間や知人たちへのインタビューによって浮かび上がる人間像は事件と関わりがあるのか…。
 被害者の周りの人間から、むしろ間接的に事件を浮かび上がらせようとする形式の小説で、このサイトで取り上げたもので言えば有吉佐和子『悪女について』と同じ手法である(モノローグだけで構成するという手法で言えば、芥川竜之介『地獄変・邪宗門・好色・藪の中 他七篇』とも同じ)。ただし本作は、登場人物のインタビュー形式の叙述の間に、何者かのモノローグが挟まってくるところが少しミステリっぽくなっていると言える。このモノローグとインタビューという形式に、叙述トリックめいたちょっとした仕掛けがあるのだが、以前に読んだ同じ著者の『慟哭』と比べるとやや小粒に感じるのは、単にこちらがミステリをそこそこ読んで慣れてきたためだろうか。


12月29日

 永井するみ『枯れ蔵』(創元推理文庫、2008年(原著は1997年))を読む。富山県の水田で、既存の農薬の効かない変異型ウンカが異常発生した。米を扱う食品会社に勤める陶部映美は、米を供給する会社を運営する原田とともに、対処に追われる。農協で勤める、陶部の同級生の五本木や、農薬会社の若牧は新たな農薬の散布を農家へ説得して回るが、無農薬米を育る農家の中心的な存在である大下は頑強に反対する。そうしたなかで陶部は、ツアーコンダクターの友人の自殺が、なぜか大下と関わりがあることを知り、2つの出来事が関連しているのではないか、と疑い始める…。
 「社会派ミステリ」と銘打たれているが、と群像劇タイプのミステリで、何となく映像化に向いているように感じた。ただし、結末はあまりカタルシスはないので、その意味では映像化に向いていないかもしれない。加えて、五本木の家庭内の問題などが未解決で終わっているので、陶部と五本木のロマンスめいたエピソードは、余計に感じた。あと、農業従事者が見たら、大下の性格が悪すぎると思うかもしれない。


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