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2015年1月の見聞録



1月3日

 門倉貴史『日本の地下経済 脱税・賄路・売春・麻薬』(講談社+α新書、2002年)を読む。タイトル通り、税制その他の政府の規制から逃れて、GDPの公式統計に報告されない経済活動の実態を、できるかぎり資料に基づいて明らかにしようと試みる。地下経済には、道徳的または法律的な善悪論を脇におけば、地下経済で稼いだ者が地上経済での消費を活性化させる、失職者に対する受け皿となる、長期的なシステム効率化の可能性などのメリットもある。とはいえ、地下経済の存在は普通に働いて納税をしている者からすれば、非常に不公正であるのはまちがいないし、地下経済によって生じる政府収入のロスや社会的なコストを考えれば、決して望ましくないといえる。
 こうした地下経済の多くは脱税によって生まれるのだが、現金の流れがつかみにくいサービス業に属する中小・個人企業が多い。たとえば、一人あたりの脱税額が多かったのは1999年度は貸金業の3884万円、風俗業の2601万円、病院の1786万円であった(40〜41頁)。暴力団は1960年代後半より取り締まりが厳しくなり、バブル期の追い風はあったものの、暴力団対策法の施行により大規模な組織の寡占状態が続いている。なお1998年の警察庁による推計によれば、暴力団が1年に稼ぎ出す金額は1兆3019億円に及ぶ(51頁)。現在はフロント企業をたてて稼ぐケースが2割程度になっているようである。外国人犯罪は90年の2719件から2000年の1万9952件へと急増している(63頁)。ソープランドは、警察庁の資料によれば1984年の1707件から2000年の1270件へと減少している(70〜71頁)。
 こうした様々な推計から類推すると、地下経済の規模は91年度の12.4〜22.3兆円で名目GDP費2.6〜6.4%とピークに達したが、その後は減少していく(143頁)。その中で最も多いのは個人による脱税で69.8%を占める。なお法人の脱税は10.8%、暴力団は11.3%、売春は7.3%、残りは車の窃盗と違法賭博と推測している(144頁)。ちなみに、OECDいおける地下経済の規模は1990〜93年平均で名目GDP比で13.5%だったが、94〜95年には16.0%、96〜97年には16.9%と上昇傾向にある。その要因は重い税負担と低い納税モラル、経済活動に対する規制である(158頁)。日本はこれに比べれば低めであるが、サービス業への参入規制の厳しさに反するその規模の拡大、高齢化、グローバル化、IT化などの影響受けて、日本でも地下経済が拡大する公算が大きいとしている。
 地下経済のデータをまとめた本はそれほどないようであり、データ的なものとして価値があるのだろう。そうした性格ゆえに、データを見てなるほどと思うことはあっても、ものすごく面白いという本ではない。興味があれば決して読んで損はしない本だと思う。


1月8日

 菅浩江『プリズムの瞳』(東京創元社、2007年)を読む。様々な専門的な仕事を行わせる人型ロボットとして期待された「ピイ・シリーズ」。しかし望まれた成果を上げられず、現在は絵を描く仕事だけを与えられて各地を放浪するだけの存在となっていた。様々な者たちが感情を持たないピイと接するなかで自分自身を振り返っていくのだが、もはや存在しないはずのプロトタイプとされる「フィーシリーズ」の姿が垣間見えるようになる…。
 個々の人間とピイについての連作短編集。短編と短編の間にモノローグが挟まれているのだが、途中までは「年老いた」少女のものと思わせておいて、実は…というちょっとしたどんでん返しがある(気づく人もいるかと思うが)。ピイ・シリーズが人々の期待の答えられなかったのは、能力がなかったからではなく、心がないからこそ無心に使命を遂行するがゆえに人間を超えうることがあったがゆえに、そのピイを見た者の心の迷いや歪みが反映してしまう、というのは技術が発展した後の人間の未来図を見ているようでもある。


1月13日

 ポール・シーブライト(山形浩生・森本正史共訳)『殺人ザルはいかにして経済に目覚めたか? ヒトの進化からみた経済学』(みすず書房、2014年)を読む。人類は種として分化してからかなりの時間が経って、つまりいまから約20万年前までのどこかで、抽象的な表象を使った思考とコミュニケーションを可能にした変化を経験した。そうしたなかで、人間が互いを信頼して協同制度を維持できるのかについて諸処の観点から考察する。先史時代の人類は、骨への障害や武具・城塞などの存在から、暴力的な存在であったのは間違いない。だが、心理学的に言えば親切には親切で、裏切りには復讐で報いようとする意志が、打算とのバランスを取っていると言える。多岐にわたる分野をまとめているのだから広範な知識を著者が持っているのはわかるのだが、やや散漫とした印象を受けた。面白くないわけではないのだが、個人的には読み流して終わってしまった感じだった。
 以下メモ的に。
 ネアンデルタール人への武器による障害の痕跡(ナイフや剣による損傷跡や、遺体に食い込んだ矢尻の跡など)を集計した結果、ローレンス・キーリーは暴力的な死因比率は、共同体ごとに5%以下から40%以上と様々であると主張した。これと同じようなデータは、赤澤威編著『ネアンデルタール人の正体』でも提示されている。
 国家間の戦争頻度は、16・17世紀まではほぼ横ばいで18・19世紀に急激に減少するという(80頁)。これはJack S. Levy, War in the Modern Great Power System, 1495-1975, Lexingon, 1983に依拠しているようだが、戦争数は減少しても、その被害は増大している気がするので、本書の主張するような打算がうまくいっているとは言い難いような気もする。


1月18日

 酉島伝法『皆勤の徒』(東京創元社、2013年)を読む。異形な知性生命体が蠢く世界での、会社員や学生、探偵などを描くハードSF。個人的には、読んでいてあまり意味が分からず、解説を読んで初めて何が起こった世界なのかが分かった。私自身にSFの素養がなさすぎるので、こういった舞台設定がぼんやりとしたまま進む物語はついていけないな、と。いままでも、ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』のように割と評価の高いので読んでみたらよく分からなかったSFがあったが、そもそもハードSFを読むだけの資質がないのに、読もうとするべきではなかったな、と。


1月23日

 池内了『物理学と神』(集英社新書、2002年)を読む。近世までの科学とは神が定めた自然現象を読み取ることであったが、やがて科学の発展とともに、神によらなくても物質の運動を説明できるようになった。しかしながら、その法則の中に神によって定められたとしか思えないような法則性が見出されるなど、神の存在の陰がちらつく場合も珍しくなかった、とする。全体的にはこのようなテーマであるのだが、過去の雑誌連載をまとめたものであるため、これ以上は詳しく全体の概要はまとめにくい。一点だけ取り上げておくと、なぜ運動はそのようにあるのか、と問うてしまうと、アリストテレスによる運動の目的因の議論となるか、神の意志論に追い込まれるので、科学者はその点を避けてきたとあるが(170頁)、このあたりについては、P.C.デイヴィス『神と新しい物理学』(岩波同時代ライブラリー、1994年)が詳しいだろう。
 以下はメモ的に。
 アウグスティヌスは「球状の天が宇宙の中心にある地球を取り囲んでいようと、地球のどこかに引っかかっていようと、私にとっては何の関わりがあろうか」と語った(ただし本書には、二次文献の典拠はあってもアウグスティヌスの典拠はなし)。これに対してトマス・アクィナスは『神学大全』にて、アリストテレスによる月よりも上の天上の世界は不変のエーテルによって構成されているという学説を、聖書に書かれている神についての説明の根拠にしようとした(20〜21頁、トマス・アクィナスについても明確な典拠はなし)。
 ガリレオは神の理解は「神の作品である自然と、神の言葉である教えによって」おこなわれるとした。「自然についていえば、これは容赦なく不変なものであり」、「この点は文字通りの意味とはいくらか異なる解釈がありうる『聖書』とは違っている」として、自然研究が神の証明にとって重要であると説いた(27頁、このガリレオの言葉も二次文献の出典のみ挙げられている)。
 サイエンスscienceの語源は知識全般を指すラテン語のscientiaだが、19世紀中ごろから自然科学そのものに限定して使われるようになった。それまでは、自然の研究を行う者は自然哲学者natural philospherと呼ばれ、家の財産やパトロンからの援助によって研究を行っていた。ニュートンは家が貧しかったため、ケンブリッジ大学から支給される教授職の給与では研究できないとぼやいていたという(なお、彼は造幣局の長官になっている)。科学者が自立して研究できるようになったのは、科学が国家の重要な一部門となり、系統的な投資が行われるようになったためである(106〜107頁)。
 パチンコは玉の行き先を理論的に完全に計算するのが不可能な賭博であるにもかかわらず、ゲーム感覚で楽しむ人が多い。これはパチンコが、釘や水車の障害物はあるものの、玉の動ける範囲を制限していて、でたらめな結果にならないようにしているためと考えられる。理論的に計算するのは不可能でも、玉を打つ際の指の微妙な動きで一定の制御は可能である点で修練による上達が可能なスポーツに似ているし、単なる運で勝つ場合もある。ビリヤードがパチンコほど人気がないのは、場所を取るという理由もあるが、よほど上達しないとボールが思い通りにならない点もあるに違いない(134〜135頁)。溝口敦『パチンコ「30兆円の闇」 もうこれで騙されない』を読んだ際に、「パチンコは儲かるから面白いのか、儲からなくても面白いのか」との疑問を感じたのだが、まさか本書を読んでいてこのような見解が出てくるとは思わなかった。


1月28日

 原田マハ『楽園のカンヴァス』(新潮社、2012年)を読む。いまは美術館でひっそりと監視員として働く早川織絵。アンリ・ルソー展を開くことになったその美術館の元に、彼女にならばルソーの作品「夢」を貸し出してもよい、とのメッセージがニューヨーク近代美術館から伝えられたことを知る。若き日の彼女は、ルソーの絵の真贋判定をとある大富豪に迫られた経験を持っていた。その絵は『夢』とほぼ同じ構図とタッチであり、ルソーのルポのようなものが記された謎の古書が手渡された。はたしてこの絵と古書の正体は…。
 ルポめいた古書が出てくる小説と聞いて読んでみたのだが、個人的にはあまりピンとこなかった。現代美術について知識がなくて、興味がないからかもしれない。


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