前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2015年2月の見聞録



2月2日

 ジョゼフ・ギース、フランシス・ギース(栗原泉訳)『大聖堂・製鉄・水車 中世ヨーロッパのテクノロジー』(講談社学術文庫、2012年)を読む。中世ヨーロッパでは、東方の文化を吸収しつつ技術革新が緩やかに進行していた時代であった、というのが全体の論旨と言える。その上で、タイトル通り中世に発展した様々なテクノロジーの実例について眺めていく。
 いまさら「暗黒の中世」を信じている人はいないであろうが、さらに中世を技術進展の時代と積極的に評価しているところに特徴がある。加えて、教会や修道院は技術革新の推進力となる場合もあったとしている。そもそも技術的に進んでいたアジアは、他からの技術の借り入れには熱心ではなかった。これに比べて、ヨーロッパは技術的には遅れていたものの、積極的に借り入れを行った。さらに重要なのが、進歩の思想であるとする。そもそも奴隷がいた古代の階層社会は、技術を通してもたらされた進歩を評価できなかった。だからこそ、過去に黄金時代を見出そうとした。これに対してキリスト教は、技術的な貢献をする場合があっただけではなく、歴史を周期的過程ではなく直線的に捉え、進歩の概念が誕生する余地を生み出したとする。結果として、神に仕えながら知的好奇心や工夫を好む傾向へとつながったとする。岡崎勝世『世界史とヨーロッパ ヘロドトスからウォーラーステインまで』を読む限り、キリスト教的な時代観念は直線的であっても進歩的ではないとは思うが、やってくるはずの終末が訪れなかった結果として、進歩へとつながったといえるのかもしれない。山本義隆『一六世紀文化革命』で示された、16世紀における技術者の経験の優位性は、キリスト教的な終末観が失われていくなかで、それまでに蓄えられた技術が爆発した時代なのかもしれない。なお、下田淳『ヨーロッパ文明の正体 何が資本主義を駆動させたか』でも職人の地位の上昇をヨーロッパ文明の台頭の一因と見なしている(この中で本書に触れていたかどうか、失念してしまった)。
 以下メモ的に。アリストテレスは実用的な技能は賃金を得るための仕事であり、精神を退化させるので、自由人に相応しくないと考えた。キケロも、技術によって環境を変えることができると称えつつも、作業場には何ら自由なものはないと述べており、ギリシア・ローマの哲学者や思想家の大半は同じ偏見を持っていた(23頁、ただし具体的な出典は明記されていない)。
 初期教会の教父たちは、こうした考え方を受け継いでいる。アウグスティヌスは、人間の技術が様々な成果を生んだとするものの、こうした人間の死安濃は不適切で危険で有害でさえある目的に使われることが多いとした。さらに、最も必要なものは神の恩寵を受けながら徳のうちに生きる力であるとしている(23〜24頁、これについても具体的な出典は明記されていない)。
 ローマ人は工学技術に優れていたが、馬のハーネスと水車の利用は失敗を犯している。ハーネスについては、青銅器時代から変わらぬものを使い続けた。中国では遅くとも前2世紀には馬の喉を詰まらせない胸帯式が使われていたし、その100年後には胸当て式ハーネスの使用が絵画から確認できる。水車に関しては全く使っていなかったわけではないが、積極的に採用されていたわけではない。さらに、水車の下部が流水に浸って動く下射式水車を使い続けた。下射式水車の機械効率は15〜30%にすぎず、穀物をひくには充分であったが、それ以上の大きな仕事をするには、機械効率が50〜70%ととなる上射式水車が必要だった(52〜56頁)。前者は、奴隷や家畜にひかせた挽き臼とさほど変わらず1/2馬力にすぎなかったが、後者は40〜60馬力であったという(156頁)。
 中世の地中海世界は、東西に分かれていたが、そのなかでも豊かな南と貧しい北に分断されていた。ただし、北部は自然資源に恵まれてており、氷結しない流れの速い川があったため、エネルギー源として価値が高かった(62〜63頁)。
 12世紀の農学書は、生産の増加よりも、収穫高を維持し、家畜を守り、無駄を省くことに重点を置いていた。領主たちは設備改良には関心がなかったのであり、基本的には生産者ではなく消費者だったと言える(222頁)。これは現在の一般人の関心と態度に近い気がする。


2月7日

 桜坂洋『All you need is kill』(集英社スーパーダッシュ文庫、2004年)を読む。謎の生物であるギタイの進撃を受けてるなかで、訓練校を出て兵士として戦うことになったキリヤ・ケイジは、敵の攻撃によって死亡した。しかし、目が覚めると死ぬ前の時間へと戻っていた。戻っては死ぬのを繰り返し続けるなかで、精鋭の女性兵士リタ・ヴラタスキから「何週目なんだ」と聞かれる。2人で、ギタイを撃退しつつこのループを抜け出る作戦をたてる…。
 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』で、ゲーム的なループを持つ小説の例として紹介されていたので、読んでみた(…と思ったら映画化されてびっくりした)。いまから思うと、ループの設定のある小説はゲームの流行以前から存在していなかったのだろうか、と思うのだが、この小説を読んでああした考察ができるのはすごいな、と。それはともかく、小説としては十分に面白い。ちなにみ、最後はかなり切ないラストなのだが、ゲームではあまりそういうのはない気がする(ないとは言わないが)。ゲームではハッピーエンドを感じさせない終わり方をすると、ゲームをクリアしたという意識を持たせにくいので難しいのかもしれない。となると、物語の表現形式としてゲームは制限があるのかもしれないし、それゆえにスティーブン=ジョンソン『ダメなものは、タメになる テレビやゲームは頭を良くしている』が言うように、まだ洗練されていないのかもしれない。


2月12日

 藤原聖子『教科書の中の宗教 この奇妙な実態』(岩波新書、2011年)を読む。2006年11月に教育基本法が改正されて、宗教に関して「宗教に関する一般的教養」の尊重という文言が加わった。旧基本法では、政教分離の原則に従っていたが、教科書を読む限り、実際にはその原則は踏み越えられており、中立性や客観性を欠いていたと指摘する。歴史教科書の場合ならば、記述の背後にある執筆者の思惑がわかりやすいが、宗教の関する記述では自覚がないままに価値判断が行われてきたとする。たとえば、一橋出版の『倫理』(2006年)では、仏陀の教えは大切な指針となるという価値判断を下している(4頁)。その一方でキリスト教については事実のみをあげている。イスラームに関しては、日本人にとっては馴染みがないが深く知ること異文化を理解できるという世俗的な価値が与えられている。これが実教出版の『高校倫理』だと「神の愛と一つになったわたしたちの隣人愛は、家族を超え、民族を超えて普遍的な人類愛を目指していくべきものである」とキリスト教を薦めるかのような文章がある(10頁)。第一学習社の『倫理』の教科書での、三大宗教の比較での「愛」の項目にも同じ傾向をうかがえる。そこでは、キリスト教の「アガペー」、イスラムの「隣人愛」に対して、仏教は「慈悲」となっている。だが、少なくとも日本の仏教では「縁」を重視している。これは「縁」の由来となる「縁起」の概念が、保守的・伝統的であるがゆえに戦後教育との親和性が低い思想であるからだろう。ここにもやはり価値判断が含まれている(47〜49頁)。
 こうしたスタイルとなっているのは、日本の教科書が先哲に学ぶスタイルを採り入れているためであろう。なぜ過去の思想を学ぶのかを納得させるために、それらは現在の社会にも影響を与えているから知っておくべきである、または生きる手掛かりとなるのだという説明をするわけである。となると、それらがいかに画期的であるかを示せても、その批判は(時代的限界に触れるくらいしか)行い得ない。宗教に関してもこれを適用してしまったため、すばらしい教えであるとする以外に書きようがなくなったわけである。
 無自覚だからか、ステレオタイプが差別的な表現となることさえある。東京書籍の『倫理』では、キリスト教は理屈を超えて信じて祈ることが中心なのに、仏教では知が中心であり哲学的としている。ここには非合理的なキリスト教徒合理的な仏教という考えが見出せ、いわば逆オリエンタリズムになってしまっている(59〜61頁)。さらには、ユダヤ教とヒンドゥー教という民族宗教が、キリスト教と仏教という世界宗教の準備段階であるかのごとく記述されてしまっている。
 日本の教科書では、イエスの教えとユダヤ教の違いのように宗教を対比的に教えることもこうした傾向を助長するのであろう。外国では一般的に、対比させるよりも「正しさ」や「善行」などの諸概念を各宗教でどう説いているかを並べていき、違いよりも共通性を強調する傾向がある。こうした偏向が見逃されてきたのは、教科書執筆のあり方も関係している。教科書は分担執筆だが監修者はいないので、執筆者である研究者へ意見を言うのに遠慮が働いている可能性がある。さらに、改訂の場合にはそれまで使われていた文章を基本として、それに上書きしていくスタイルを取るのが普通らしい。これを繰り返しているうちに文章の整合性もおかしくなるわけである。これを抜本的に変えようにも、現場の教員の意見と大学入試への対応ゆえにこれまでの「正解」が変わってしまうような改革は難しい。さらに「倫理」では教科書に沿って教えることが少ないという状況もある。さらに、宗教学者の専門分化が進んでいるため、教科書に記載されるような事柄への判断がうまくできるとは限らない。
 あくまでも教科書における宗教の扱い方の問題であるが、現代のものの考え方の基礎とも言える多文化主義の問題点が強く窺えるのが、非常に興味深い。たとえば、「キリスト教神学の中で、現在は全般的に、「ユダヤ教に問題があったので、それを乗り越えるためにキリスト教が生まれた」という歴史観は、独善的な「勝利主義」(triumphalism)だという自己批判が浸透している」(81頁)とあるが、歴史的には地中海世界にてキリスト教が圧倒的に支持されるに至るのは疑いようのない事実である。キリスト教には、それまでにない新たな価値観があったからこそであろう。乗り越えるという考え方は不適切だが、中立性を保ったままでは、キリスト教の本質や歴史も理解できないのではなかろうか。著者はもちろんそれを理解した上で中立性を保つべきだといいたいのであろうし、無自覚に優劣をつけて学生に教えてしまってはいけないという思いがあるのであろう。著者の言うように、教科書での説明に関して「誰もその説明が、宗教理解が一面的であるものだとは想像しないだろう」(46頁)から、気をつけなければならないのは間違いない。確かに倫理の教科書ではそれを求められるかもしれない。だが、倫理の教科書に出てくる宗教にはすでに長い歴史がある。そこに何らかの価値判断が含まれるのは仕方がないようにも感じる。もちろんそれは絶対ではないのは当然である。それでも、現実的にはそうはいかないであろう。本書にも出てくるのだが、学校へ特定の宗派が表現に対して注文をつけることは実際に起こっている。先にも述べたように、教科書のなかの宗教を扱うことで、多文化主義の難問があぶり出されているという点で、現代社会を考えるための重要な文献となっているので、読んで決して損はしないであろう。


2月17日

 北山猛邦『『アリス・ミラー城』殺人事件』(講談社文庫(原著は2003年)、2008年)を読む。孤島へ迎えられた探偵たちは、その島に建つアリス・ミラー城でアリス・ミラーをめぐる争奪戦を行うことになった。しかし探偵たちは、部屋に置かれたチェス盤のコマが暗示するかのように、次々と殺されていく。犯人は一体誰なのか…。
 クリスティ『そして誰もいなくなった』(ハヤカワ文庫)をモチーフにした作品だが、トリックにひねりを加えている…のだが、最後まで読んでそのトリックがまったく理解できずに「え?」となってしまい、ネットで検索して初めて分かった。これは余程のミステリマニアでないと面白みが伝わらない気がする。ミステリがちょっと好きで読んでいる程度の私はお呼びでない作品だった。というわけで、ミステリ初心者には全くお勧めできないが、ミステリ好きを自認する人ならば挑む価値はあるのかもしれない。


2月22日

 小池寿子『死を見つめる美術史』(ちくま学芸文庫、2006年)(原著は1999年))を読む。死と哀悼の風景、腐敗死体像と墓碑彫刻、死者への鎮魂、霊魂のかたち、運命の寓意表現などの各テーマ別に、死に関する様々な美術を紹介していく。前近代のヨーロッパ圏が大半を占めている。エッセイめいた形式でもあるため、内容をまとめるのは難しいのだが、そのあたりに興味があれば楽しめるだろう。
 以下メモ的に。古代ギリシアでは犠牲獣の前髪を切り落とす習わしがあり、髪を切るのは死の神への犠牲と見なされていた。「キレスタイ(自分の髪を切る)」は「ペンテイン(喪に服する)」とほぼ同義に用いられた(35頁)。
 4世紀から12世紀のヨーロッパにおいては、古代文献の写本の挿絵をのぞき、神をかきむしり胸を打つといった、激しい喪の感情の表現は抑制されていた(36〜37頁)。メソポタミア神話では、ギルガメシュの親友であるエンキドゥが死んでから、七日七晩たつと、その顔から虫がこぼれ落ちた。ギルガメシュは、恐ろしい死を免れるにはどうしたらよいのかを、流浪の果てに辿り着いた海の見える酒場の女主人シドゥリに尋ねたという。エジプトでもピラミッド・テクストには「おお、王の肉よ。朽ちはてるな、腐るな、嫌な臭いを出すな」とある。ホメロス『イリアス』において、友人であるパトロクロスの死を知ったアキレウスは、髪をかきむしるなどの激しい動きで友の死を悼み、遺体が腐らないかを心配している(第18巻第23-34節、52〜53頁)。
 古代での来世の捉え方は主に3つに分かれる。現世の延長としての来世、現世との往還が可能でありながらも陰鬱で暗い世界、戻ることのできない悲観的な世界、である。メソポタミア文明圏では絶対的な悲観論が優勢を占めた。現世の延長と見なして、食物が豊富にあって住環境に恵まれるなど現世の良い側面が出ている死後の世界は、エジプトやエトルリアである。こうした来世観は気候風土に根ざしているのであろう(124頁)。ただし、ナイルの潤美があったエジプトに比べて、エトルリアの気候風土が良かったと言えるのかどうかは難しい気もする。
 ギリシア語では、魂を意味する「プシュケー」が「気息」の音に由来し、蝶の意味でもあったため、魂は空を舞う蝶として表現する場合もあった。蝶としての魂は、ローマ市内の石棺のいくつかと、彫玉や印象に刻まれていた(132〜135頁)。
 ペトロニウス『サテュリコン』では、どの方向にも曲がる骸骨の模型に様々な姿勢を取らせた後に、宴会の主催者であるトリマルキオが「地獄へ行けばわれらもまたなんじらといっしょになるのだ。されば幸福許されるあいだは生きよ」という場面がある。一緒になるのだという言い回しは、墓碑の銘文として定着していたし、ヘロドトス『歴史』第2巻第78節には、エジプト人の富裕階級が宴席で似たような趣向を楽しんだと伝えている。なおキリスト教ではパウロによって、こうした態度は死者の復活を否定するものとして厳しく戒められていく(136〜137頁)。ピサのカンポ・サント墓地回廊出土の2・3世紀の石棺には、2人の故人を黄道十二宮の円環が囲んでいる。その円環を青年として表された四季の擬人像が支え、さらにその足元には大地の女神テラと川の神オケアノスが横たわっている。四季の巡りと自然の恵みによって育まれた死者が、永遠の循環のなかに取り込まれていると解釈されている(155〜156頁)。


2月27日

 円城塔『Self-reference engine』(早川書房、2007年)を読む。ハードSFの連作短編集。それぞれにつながりがないように見えて、最後には事象改編の多重世界の設定であったことが分かる…のだが、や個人的には今ひとつよく分からないままに終わった。酉島伝法『皆勤の徒』でも書いたように、すべてを明らかにせずに読者の側で読み解かねばならないタイプのハードSFを読むだけの素養が私にはないな、と。ただし、これはあくまでも単なるうがった推測なのだが、SFの一般的な傾向がこうだとすると、読者への敷居が高すぎて、SFというジャンルそのものの衰退につながる気がする。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ