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2016年2月の見聞録



2月2日

 池内恵『イスラーム国の衝撃』(文春新書秋、2015年)を読む。2014年にイスラーム国は広域支配を成し遂げて、なおかつ指導者はすでにいなくなって久しい正統な指導者の地位であるカリフへの就任を宣言した。これには思想的な要因と政治的な要因が挙げられる。
 思想的な要因はジハード思想と運動の拡大と発展が、グローバル化や情報通信革命に適合した組織と合わさった結果である。そもそもイスラーム国の前に、アル・カーイダによって分権的で非集権的なネットワークが形成されており、ある意味フランチャイズ化という表現が似合う状況となった。さらに、すでに2006年の段階で、イスラーム国の後の指導者はクライシュ族の血を引くことを示す名前を名乗っていた点も重要である。そして、イスラーム国が発する声明や文書は、イスラームの思想にある程度馴染みがあれば単純な論理で読みやすいものになっている。その意味で政治家の演説に誓いプロパガンダ的な要素が強い。
 政治的な要因とは、アラブの春という政治変動を背景にした、中央政府が揺らぎによる地方統治の弛緩である。しかもアラブの春ではイスラーム主義の穏健派が急激に台頭したものの失墜してしまったため、そこに生まれた政治的空白に過激派が台頭した。イラクにおいては、フセイン政権時代には支配勢力であったスンナ派は、もともとは20%の少数派であったたため、その後は劣勢となったが、スンナ派の勢力範囲がまさにイスラーム国の勢力と重なる。さらにシリアにおいては、アサド政権がイスラーム国を政府に代わって反政府勢力を相当してくれる好都合な存在と受け止めていた可能性がある。
 ちなみに、資金源についてはそれほど明確な指摘があるわけではない。著者の専門ではないためであろう。ただし、「略奪でまかなえる程度の組織である」(132頁)という事実は重要かもしれない。加えて、兵士たちは貧困やドロップアウトが原因ではなく、志願兵として目的に関与することに魅力を感じているという。このあたりは、ポール=ポースト(山形浩生訳)『戦争の経済学』の指摘に近いと思われる。とはいえ、こうした様相ならば、世界各地でテロを起こして混乱させることはできても、領域支配の拡大はこれ以上の難しいのかもしれない。拡大したイスラーム国は、グローバル・ジハードという抽象的な目標でそれぞれの国での政権打倒の闘争を指導するようになると、内部での対立が生じてもいるようである(134〜135頁)。ただし、テロによって世界経済が落ち込む危険性は否定できないので、これ以上の活動は望ましくないとは思うのだが。
 ところで、著者はイスラームにおいても、「宗教テキストの人間主義的な立場からの批判的検討を許し、諸宗教間の平等や、宗教規範の相対化といった観念を採り入れた、宗教改革が求められる時期なのではないだろうか」と述べている(203頁)。素人的な考えにすぎないのだが、マリーズ・リズン(菊地達也訳)『イスラーム(1冊でわかる)』を読んだときと同じように、それは本当に可能なのだろうか、と個人的には感じてしまった。
 以下メモ的に。アメリカは、アフガニスタンで捕獲した適性戦闘員の多くを、超法規的な手段で国外に移送し、秘密施設に長期間拘束して、拷問を伴う尋問を行った。これに協力した国を54カ国におよび、サウジアラビアやエジプト、ポーランドやリトアニアやグルジア、ボスニア・ヘルツェゴビナなどは積極的に拘束場所を提供した。なお、ドイツやギリシアやイタリアなどの西欧諸国も、超法規的措置の経由地でありながら、これを黙認していた(43〜44頁)。
 イスラーム法学上にて、ジハードへの参加はイスラーム教と一般に課された義務である。ただし、誰かが実践していれば、他のものは実践を免除されるという「集団義務」のカテゴリーに含まれる。その一方で、資金や人員の世話をしている者たちは、アッラーから兄弟たちに課された義務を率先して果たしている崇高な人物ということになる(143〜144頁)。
 イスラームの暦であるヒジュラ暦は、ムハンマドが生まれた年や予言の啓示が始まった年ではなく、メッカからメディナへの移住の年が元年とされている。これは、イスラームにとって軍事力で異教徒を制圧して、政治権力を掌握して広大な領域を支配して統治する側に立ったことが極めて重要だからである。これに対してキリスト教では、イエスが「カエサルのものはカエサルへ」といったように政治と宗教の分離を定めており、ユダヤ教では異教徒に支配されている状態を正常と捉え、終末の日に正義がなされることを待望している(148〜149頁)。
 同じ著者の『書物の運命』にて、「日本の論壇は、政治的・思想的にも遠い世界であるイスラームを、近代や西洋を越える新しい幻想として受容する節が窺える」との指摘があるが、本書でも同じ指摘があり、これを左翼イデオロギーと同一視している(166〜167頁)。


2月12日

 深緑野分『オーブランの少女』(東京創元社ミステリ・フロンティア、2013年)を読む。19世紀・20世紀前半・現代ヨーロッパや戦前の日本、架空の北欧っぽい王国などを舞台にした短編集。どの作品も一応ミステリ仕立てになっており、特に凝ったトリックがあるというわけではないのだが、舞台設定は短編にもかかわらず的確にまとめてあって、取っ付きにくさを感じさせないし、物語の筋立てもきちんと読ませるものになっている。表題作は、少女たちのサナトリウムに関連した話で、戦前の悲劇の基づく狂気が展開されていく。途中まではそれなりに面白かったのだが、オチでの犯人の狂気の理由がいまひとつ強引な気がしてしまった。個人的に面白かったのは、戦前の女学校を舞台にした「片想い」と架空の王国を舞台にした「氷の皇国」だった。「片想い」は、日常の謎系に近いと思うが、うまく張られた伏線を明かしていく最後の解決部分で爽やかな印象をもたらしている。牧野修『大正二十九年の乙女たち』の短編版といったところか。「氷の皇国」は本作でいちばん長い作品だが、歴史物語を絡めつつ宮廷内の陰惨な雰囲気を描いた上で、王女と王妃の法廷対決のような場面へ至るという意外性がなかなか楽しめた。ちなみに、表題作と「氷の皇国」は、いずれも登場人物の口を借りて過去を語るという体裁を取っている。それに関して、いずれの劇中の人物も、だから本当かどうか分からない、といったようなことを述べているのだが、それが絡んだひとひねりが物語のなかでさらにあれば、なおいっそう面白かったかもしれない。


2月22日

 中村圭志『教養としての宗教入門 基礎から学べる信仰と文化』(中公新書、2014年)を読む。宗教には濃いレベルの信仰と薄いレベルの知識や習慣としての文化があるという立場から、宗教の特質を浅く広くまとめた後に、各宗教の特徴の概観を述べる。第1に、キリスト教、イスラム教、仏教、儒教(本書は儒教も宗教に含めている)は開祖がはっきりしているが、他の宗教は定かではなく、多くが民衆の伝統として太古から伝わっている。第2に、大半の宗教は多神教(的)であるが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は親戚関係にあり、いずれも一神教である。なお、一神教は神を探求し続ける宗教であり、仏教は悟りを探求し続ける宗教でもある。第3に、民族へのこだわりを持つ宗教がある一方で、キリスト教、イスラム教、仏教に典型的なように、地域や民族を超えて普遍的に布教したいという意向を持った宗教もある。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に関して信仰形態を図式的に比べれば、ユダヤ教は戒律と儀式の遵守、キリスト教はそうした戒律の遵守をあきらめイエスをキリストという生き神として崇めている。「ユダヤ教徒は戒律をどこまで守れるかという修行に挑戦しているのであり、キリスト教徒はキリストにどこまで自分を委ねられるかという修行に挑戦している」(34〜35頁)と言える。イスラム教徒は儀式を重んじてはいるものの無理をせずともよいという条件付きであり、神の言葉やクルアーンを崇めるという点で、ユダヤ教とキリスト教とにそれぞれ近い。
 仏教は悟りを開く宗教である点で、「神頼みをするのが「宗教」だとすると、出発点の仏教には「反宗教的」な性格があったと言える」(43頁)。ただし、時代が下るにつれて釈迦が神格化されていき、さらに大乗仏教においては釈迦以外にも悟った人がいると考えられるようになり、様々な神話的な仏陀を拝むようになった。
 なお、宗教が交代していった理由として、宗教の有り様が具体的に比較できるようになった、社会の個人主義化、自由や人権の思想が宗教的ライフスタイルに厳しい目を向けるようになった、という点が挙げられる。
 各宗教の概観についても、分かりやすく書いてはあるが、ここでは省略する。「宗教を考えるうえで、意外に大事なのは、深い信仰ではなく、浅い文化的習慣だ」(15頁)という指摘は、大半の日本人が何となく考えている感覚に近いため、本書の内容も理解しやすくなっており、宗教の特質をコンパクトかつ分かりやすく理解するにあたっては便利な書だろう。深い信仰のせいで犯罪や暴走といった失敗も犯す場合もあるのであり、文化としての宗教の持つ失敗のアーカイヴとしての役割は重要である(63〜64頁)、という指摘も歴史学に携わる者としては分かりやすい。なお、幸福な人生を歩んでいる人は希望や心の支えを意識しないで済むので薄い文化としての宗教に触れるだけで充分であるが、厳しい人生に陥った人は希望と心の支えを希求せずに入られずに深い信仰を必要とする(56頁)、という著者の言葉に従えば、今の日本はやはりそれなりに幸せなのだろう。
 ところで「宗教学というのは、宗教に思い入れるための学問ではなく、宗教をマクロに比較するための学問である。そこには当然、宗教に対する批判の視点が入っている」(iv頁)とあるのが正しいことだと思うのだが、信者は自分の信仰に対して完全に批判的な立場に立ちうるものなのだろうか、という素人めいた疑問を感じてしまった。このあたりは、藤原聖子『教科書の中の宗教 この奇妙な実態』を読んだときにも、宗教の叙述において中立に立つことができるのか、という逆の意味で感じたことではあるのだが(ちなみにこの著者が、ユダヤ教とキリスト教とイスラームの違いに関する本書での記述について読んだときに、どう感じるかは少し気になるところである)。ただし著者は、人生の不幸に対する安易な因果論の批判にて、自己責任論と宗教的な脅し文句(神仏を信じていない、前世が祟っている)という論理に対して、安直なものとして同列に置いて批判しており(61頁)、こうした批判の仕方もあるのだな、と感じた。
 ただし、現代社会の欲望の原理が社会をむしばむんでいるので、人間の欲望を制するような宗教的な戒律の原理が何かのよき働きを持つのではないか、と述べるのは(94〜95頁)、あまり好ましくないように思える。現在の文化を全肯定するつもりはないが、それによって果たされた豊かさもあるのは、日本の状況を見れば明らかだ。重要なのはその方向性を維持しつつも、過去の教えを生かしてさらによい方向に進む改革案を提示することであって、たとえ「生活習慣をスリムにする」(95頁)という物言いを行っているにしても、否定的な方向性のみでは、結局のところ深い信仰の過ちにはまるだけではないだろうか。これは歴史学に携わっている私自身に対する自戒でもあるのだが。
 以下メモ的に。伝承によれば、釈迦は瞑想を通じて神々も知らない知恵を得て、彼らを感服させてしまった。したがって仏教においては、「目覚めた人」を意味する仏陀は神々よりも格上である。ヨーロッパ人は、釈迦が一種の救世主となったという伝承がイエスを彷彿させるところがあるため、こうした仏教の思想を一応は尊重している(8〜9頁)。日本においては、もともと神は土着の信仰対象であり、威圧的な恐ろしい力を意味するものであった。だが次第に神の側が仏に近づいていき、神は救済者的な性格を持つようになった(このあたりは、佐藤弘夫『神国日本』が詳しい)。実際に、江戸末期に出現した天理教や金光教の神は優しい救いの神である(5頁)。
 一神教においては、社会のルールを神が定めるが、ルールや源泉を神や天に求める思考そのものは、決して珍しいものではない。福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の舌に人を造らず」という言葉も平等性の源泉を「天」に置いている(31〜32頁)。このあたりは、フランス革命の「人権宣言」においても、自由や平等が思考の存在によって認められていることと似通っているといえよう(一応は文献を挙げておけば、松浦義弘『フランス革命の社会史』(山川出版社(世界史リブレット)、1997年)が簡便にまとめている)。
 『新約聖書』の逸話からも窺えるように、イエスはもともと信仰治療師であった。仏教では釈迦がそうした信仰治療を施したとは伝えられていない。ただし釈迦の死後に呪術的な要素も発達していった。仏教の修行者にとって、病気治しは仏法そのものではないとしても、民衆に示す慈悲も仏法であった(69〜70頁)。


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