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2016年3月の見聞録



3月3日

 芦辺拓『奇譚を売る店』(光文社、2013年)を読む。「また買ってしまった」。古本屋で珍奇な本をつい購入してしまった作家たちは、同じこの台詞をつぶやく。そして、それぞれの本にまつわる怪しげな世界にとらわれていく…。
 それぞれの物語が独立している描かれている短編集の趣だが、最後にそのすべてがつながる構成を取っている。店主が小説家をある意味収集していたといった感のあるオチは何となくよめるし、それぞれの短編も劇的に面白いというわけではないのだが、古本屋を見ると、何か掘り出し物はないか、とつい考えてしまうような同じような本好きの人間には、身につまされるような共感を覚えるところになんだか惹きつけられた。加えて、「どうしようもない駄作しか書けないと知りつつ、才能の欠如を自覚しつつ、なお人生を投じずにはいられない意志」(64頁)というのも、まさにこんな弱小サイトを続けている自分に悲しいながらあてはまってしまう。書物に対する「残酷なまでの忘却」(190頁)は、アーカイヴが残るネット上の記事であっても免れないであろう。
 あと、これは自分にあてはまることではないのだが、古本屋に関して「世の中に商売もいろいろあるが、客に露骨に舌打ちしたり、小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたりして許される稼業というのも、そうはなかろう」(181頁)、「客が買った本をちらと見て、「ふん、ゴミだな」とつぶやいた店主がいたそう」(同上)というのも、ものすごくよく分かる。まあ、こうした古いタイプの古本屋は、大手古書店の出店と、さらにはネットの発展によっておそらくだんだんとなくなっていく気もするが。
 それでも本に惹きつけられるものがあるのは、オカルトに関心のあった子供が、K.セリグマン(平田寛訳)『魔法 その歴史と正体(世界教養全集20)』(平凡社、1961年(リンクは1991年版))を買ったものの、買ってはならないものを買ってしまったような後悔にかられたという箇所から窺えるように、現代であっても書物や文字には何らかの呪術性があるように感じてしまうからなのかもしれない。インターネットに合わせた怪談が語られているのもそうした呪術性ゆえな気がする。
 ちなみに、今から20年から30年前の小説が読みづらくなっている場合についての指摘があるのだが、たぶんこれは正しい。「文章や風俗流行の世ではなく、ものの考え方の違いが原因だったりする。たとえば、いわゆるモーレツ・サラリーマンの論理が支配的だった時代に書かれたものは、それよりもはるかに古い時代の作品よりも異様に映るらしい−特に女性や少数者に対する見方とかが」(48頁)。赤木かん子『子どもに本を買ってあげる前に読む本 現代子どもの本事情』(ポプラ社、2008年)は、大人に解決策を示してもらうこともある『ハリーポッター』を読む現代の若者は、『ゲド戦記』の主人公が自分自身で苦しみながら努力して困難を乗り越えていく様を読み進めるのは難しいのではないか、と指摘していることに重なる。


3月13日

 荒木飛呂彦『荒木飛呂彦の漫画術』(集英社、2015年)を読む。「漫画は最強の『総合芸術』」と語る著者が、書名通り自身のマンガの描き方を述べていく。「キャラクター」「ストーリー」「世界観」「テーマ」が基本となる四大構造であり、これらの要素を増補して統轄しているのが「絵」であり、さらに台詞という「言葉」でそれを補う、とする。4つのうちのどれか1つだけでもマンガを描くことは可能だが、何かしらの限界にぶつかるので、それを克服するためには他の要素が必要となる、と述べる。そのうえで、それぞれの要素ごとに説明していく。
 ちなみに、「キャラクター」「ストーリー」そして「絵」について50ページ前後を費やしている。キャラクターについて、新たに創り出すにあたって60近くの項目からなる身上調査票を作成するというのは分かりやすく、マンガだけに限らず他の分野でも応用できそうだ。長所だけではなく、短所も考える、というのも同様だ(すでに、言われているようなことなのかもしれないが)。「世界観」は20ページほど、「テーマ」は10ページほどしかない。ジョジョのテーマは人間賛歌であるというのはしばしば取り上げられるが、本書ではこのテーマは偶然の産物であると述べている。となれば、著者が大事にしているのは、「キャラクター」と「ストーリー」であることになるのだが、そこからは、個人的に感じていたマンガ表現の弱みも垣間見えた気がする。それは、全体としての完成度の問題である。
 マンガは1ページ目が大事でそこで読者をつかまなければならない、と自身の投稿時代および初期のマンガのころの体験をもとに述べている。確かにそうしたところがあるのは分かる。あくまでも個人的な考えだが、小説の場合は静かな立ち上がりを踏まえてある程度読んでいけば面白くなる、ということが個人的には珍しくないし、我慢もできる。だが、マンガの場合にはつかみがものすごく大事であるように感じているからだ。ただそうなると、最初の勢いだけで読ませていって、短編だと物語の進むペース遅いマンガでは、充分な展開をせずに単発のちょっとしたアイディア勝負に終わってしまいかねない。長編になると、以前から述べているように(たとえば、久保帯人・成田良悟 『BLEACH Spirits Are Forever With You』の記事を参照)、最初の頃の設定との整合性がとれず矛盾が生じてしまう場合が少なからず見られる。そうなったときに、マンガの魅力を最大限に引き立たせるのかはいかにキャラを立てるのか、なのだろう。そう思うと、本書にてキャラクターについて語るページ数に多くが割かれ、ストーリーの項目でもキャラクターと絡めているのは当然かもしれない。とはいえ、キャラクターが中心のマンガは、時が経てば時代遅れになる、と述べている(105頁)あたりは、キャラだけではダメだという意識も感じることはできるのだが。
 ちなみに著者によれば、ジョジョは王道マンガであるという。そして、それと関係していると思うのだが、キャラクターの動機は読者の共感を得るようなものであるべきで、卑怯な場合は嫌われる、としている。さらに、主人公はプラスに成長していくのがよい、ともしている。マンガ以外ならば、卑怯な人間が主人公であっても魅力的な作品はある。マンガでもそうした作品はあるのかもしれないが、これも導入部分で読者を惹きつけねばならない、というマンガの手法に由来するものである気がするし、物語の幅を狭めてしまうものになってしまうように思える。本書でも触れられているのだが(117頁)、プラスの成長という意味では、マンガにてトーナメント戦がしばしば描かれるのは当然であるとも言える。なお、ジョナサン・ジョースターの死はマイナスへのベクトルだが、新しい子孫のプラスがそうしたマイナスをプラスへと転じることを可能にした、と述べている(132頁)。
 なお、著者がデビューした頃(1980年代前半)の原稿料は1枚3500円くらいだったそうである(96頁)。竹熊健太郎『マンガ原稿料はなぜ安いのか?』だと、1ページ1万2千円とされているので、20年で一応はあがっていることになる。


3月23日

 雫井脩介『検察側の罪人』(文藝春秋、2013年)を読む。東京地検へ新たに配属した沖野は、かつて自分の教官であったベテラン検事の最上と共に働くことになった。共に老夫婦の刺殺事件を担当することになったのだが、その容疑者のなかに学生時代の最上が直面したすでに時効となった殺人事件の重要容疑者がいたことに気づく。今度こそ法の裁きを受けさせてやるとの思いから密かに暴走した最上に、沖野は疑いの目を向け始める…。
 こうした流れへは向かって欲しくないな、という悲劇的な展開へと突き進んでしまい、しかも絶対に破綻するんだろうなという考えがやっぱり本当にそうなってしまうのか、というやるせない思いが残る作品だった。後味の悪い作品が好きな人は十分に楽しめるだろう。


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