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2015年10月の見聞録



10月5日

 アビジット・V・バナジー、エスター・デュフロ(山形浩生訳)『貧乏人の経済学 もういちど貧困問題を根っこから考える』(みすず書房、2012年)を読む。貧困者への援助そのものについて反対する者はいないが、どのように援助すべきかについては意見が分かれる。本書はその点に関して、援助を受けている諸国のデータをもとに、「貧困」の経済学ではなく、「貧乏人」の経済学から見ていく。
 貧困に関して、貧困の罠が主張される場合は珍しくない。つまり、一定の所得を得られるようになるまで、今日の所得が将来の所得よりも小さく、その一定の所得を超えると将来の所得は急激に増えてその後に横ばいへといたるとする、今日の所得と将来の所得が釣り合う点を中心点としたS字曲線を描くというモデルである。しかし実際には、所得が少ない方が将来の所得は増加させやすい逆L字曲線のモデルになると、多くの経済学者は主張している。となると、貧困から抜け出られないという問題は、貧困そのものの問題というよりは貧困者の側の問題ということになる。
 たとえば、18カ国の極貧層は、全消費額のうち36〜79%しか食べ物に使わない(42頁)。1983年のインドのマハラシュトラ州の最貧層は、出費総額が1%増加しても食費総額は0.67%しか増えなかった(43頁)。さらにその食費もカロリー摂取の増加だけでなく、砂糖のようなもっと高価なカロリーを買う(同)。つまり、カロリー摂取よりも、もう少し美味しいものを食べることを優先した。カロリー摂取量と収入もまたL字曲線のモデルを取る。さらに、退屈な生活から救ってくれるテレビやラジオ、または祝祭への消費を優先している。
 健康に関しても同じようなことが言える。たとえばケニアでは、成人の平均年収は590米ドルなのだが、蚊帳は14米価ドルにすぎず、それがあればマラリアのリスクをかなり減少させうる。だが、蚊帳はほとんど普及していない。ザンビアでは油の週間消費額は1.1米ドルで、1ヶ月分の水の消毒のための塩素漂白剤は0.18米ドルにすぎないのだが、使っているのは人工の10%にすぎない(75〜76頁)。つまり、貧困者に援助を行ったり、貧困者の収入が増加したりしたとしても、健康への気を配る人は少ないわけである。
 教育についても同様である。インドにて導入された、教室の子供たちに地元の若い大学生を派遣して教えるシステムによって、字の読めなかった児童の全員が字を読めるようになった地域のプロジェクトが、各国でも採り入れられた。しかし、学校制度の中では実現できず、親たちも学校にそれを要求しないどころか、学校へ子供を通わせない親も多い。実際の推計によれば、教育を受けることで増える収入は年数に比例するにもかかわらずである。
 他のものをメモ的に挙げる。ペンシルバニア大学にて慈善団体への寄付を使った実験が行われた。1つのちらしには簡単なデータと共にアフリカへの食糧援助のための寄付を募っており、もう1つのちらしでは女の子の写真と共に援助を募っている。前者には平均1.16ドルの寄付があったが、後者には平均2.83ドルの寄付があった。さらに、別の実験を行い、人は一般的な情報を提示されたときよりも同情できる被害者の方にお金を寄付しやすいのだ、と説明した後で、同じチラシを見せて寄付を募ったところ、前者には1.26ドルとほぼ同額の寄付があったが、後者には1.36ドルの寄付しかなかった(15〜17頁)。
 世界の貧困者向けのプログラムのほとんどは、その国自身のリソースで賄われている。たとえばインドは基本的に援助を受けていない。アフリカも2003年には援助が政府予算に占める比率は5.7%でしかなく、ほとんど援助を受けていないナイジェリアと南アフリカを除いても12%である(10頁)。
 ケニアの子供たちに対する寄生虫除去の長期的な影響調査では、1年ではなく2年間駆虫を受けた子供は、栄養状態が改善された結果として、生涯所得が購買力平価で3269米ドルも多いという結果が出ている(64頁)。
 家庭用の塩素に100ドル使うだけで32件の下痢を予防できる(67頁)。
 WHOとユニセフの概算によれば、世界の全人口の13%が改良水源を確保できておらず、約1/4が飲用可能な水を手に入れられない。加えて世界の全人口の42%がトイレのない家に住んでいる。なお、ある研究によれば、1900年から1946年までの幼児の死亡率低下の3/4、同時期の総死亡率低下のほぼ半分が、浄水設備や優れた下水設備、水源の塩素消毒のおかげだそうである(71〜72頁)。
 デリー都市部で行われた調査では、100人中上位20人の医師でさえ問診すべきことの半分以下しか尋ねていなかった。さらに、症状を過小に診断して薬を与えすぎる傾向があった(81頁)。2002〜2003年に世界銀行がバングラデシュ・エクアドル・インド・インドネシア・ペルー・ウガンダで行った調査によれば、医師と看護師の欠勤率は35%であった(81頁)。
 上記の世界銀行による調査では無断欠勤の調査も行われたが、教師は平均して5日に1日は欠勤していた。さらにインドの公立学校の教師の50%が、本来なら教室にいるべき時間に留守だった(108〜109頁)。
 1990年代のインドの教育に関する報告書『インドの基礎教育に関する公的報告書』では、教師が下層民に対しては期待値を下げる結果が判明している。子供の属するカーストが分かっているときには、分かっていないときに比べて低カーストの子供には明らかに低い評価が付いた。しかもカーストが低い教師の方がその傾向は強かった(131〜132頁)。なお、アメリカでの調査でも、アフリカ系アメリカ人は、解答用紙の最初にアフリカ系であることを書くように求められると、テストの成績が悪くなった(133頁)。
 1998年のインドネシア危機で、インドネシア・ルピアは価値を75%失い、食糧価格は250%上昇し、GDPは12%下がったが、最貧層が多い米農家の購買力は上がっていた(186頁)。
 メキシコでは1日99セント以下でクラス人々の15%は、2002年には事業を持っていた。3年後、営業が持続している事業は41%だった。2002年に従業員ゼロだった事業のうち、2005年には従業員がいたのは20%だった(280頁)。
 貧困問題については、湯浅誠『反貧困』を取り上げたことがあるが、より包括的に論じていると言える。個別事例を色々と挙げているが、これらはごく一部にすぎず、他にもまだまだ興味深い事例が紹介されている。そして、こうした実地でのデータこそが本書の価値を高めている。本書でも述べられているが、援助には何か特定の理論に基づいていけば上手くいくというのではなく、試行錯誤しながら状況に応じて変えていく地道な柔軟性が必要なのであろう。そして、失敗したとしてもそれで全否定したりせずに改良していく粘り強さも必要になるのだろう。いずれにせよ本書は、貧困救済を考えるにあたって必須の文献と言える。
 ところで、第4章の末尾における教育に関する提言は、個人的に一番興味深かった。基礎能力に焦点を絞れば教育効果は上がるし、低学年教育についての補修教師になるためには、は訓練はあまり必要ない。さらに、子供たちの能力に応じたクラス編成にすれば学習効果はより上がる。そのうえで教育を受けることへの期待感を高めるとよい。たとえば、マダガスカルでは1年間学校に通うと平均でどれだけ収入が増えるのかを親に告げると、テストの点数に好影響を与えた。ケニアでは、上位15%以内の成績を上げた女児に20米ドルの奨学金を与えると、女児の成績を上げるだけでなく教師も熱心に教えるようになり結果として男子の成績も上昇した(141〜142頁)。青砥恭『ドキュメント高校中退』にて、低学力層を減らすために高校の無償化を訴えているのに対して、「クラスに補助の教員をもう1人付けてあげて対応すれば、最低限の学力すら身につけられない児童はかなり減少するはず」と述べたが、これをまさに証明しているような気がする。ただし、無駄にプライドの高い教員の間では、こうすることへの反発が高くて導入は難しいとも思うのだが(そのあたりは山内太地『大学のウソ』で述べたことにも近い)。ちなみに、「苛立つ神学者のご託宣」での内田樹『下流指向』批判において、アフリカの子供たちは喜んで授業を受けているのに日本の生徒はそうではない、という言い方に対して、それをひっくり返して発展途上国に比べて教師になりやすいのに最近の教師は文句が多いという、へりくつを返したことがあるが、本書を読めば、発展途上国の教員にはやる気のない者も多いことが分かる。


10月15日

 栗山緑・馬越嘉彦・東堂いづみ『おジャ魔女どれみ16』(講談社ラノベ文庫、2011年)『おジャ魔女どれみ16 Naive』(講談社ラノベ文庫、2012年)『おジャ魔女どれみ16 TURNING POINT』(講談社ラノベ文庫、2012年)を読む。
 ネットでしばしばネタになっていた、どれみたちが高校生になったら、という展開が本当に小説になった。ハナちゃんがマジョリカを後見人から外してMAHO堂が復活したなかで、どれみたちが再び魔女見習いになるという展開。アニメと同様、どれみたちやクラスメイトの悩みが各話のテーマとなる。ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』を読んだときにも少し書いたように、アニメを見ていたときは、小学生の等身大の悩みをファンタジーに上手くくるんでいるな、と思いつつ見ていたのだが、高校生は大人に近づいた分だけ現実に近づくと、大きな夢とリアリティとの乖離のバランスをとるのが難しいな、という印象を受けた。アニメを見ていた者からすれば決して面白くないわけではないのだが、新規の読者には受けるのかどうかはわからない。
 ちなみに、ハナちゃんに双子の姉妹にいると分かって、女王の双子の姉妹といまは一緒にいるけれどもどこにいるかは分からない、という話だが、女王の双子の姉妹は、アニメの第4期に出てきた魔法を使わない魔女だろうな、と。


10月25日

 苅谷剛彦『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』(講談社+アルファ文庫、2002年)を読む。主に大学生を対象としたと思われる、多角的な見方と論理的な思考法のレクチャー本。大学生向けのレクチャー本として学術的な文章を作成するためのマナーについての書籍は色々と出版されているが、そうした書籍よりもどのように自分の頭で考えて主張を形成していくのかにじっくりと腰を据えて書かれている。たとえば、読書に関して言えば、著者と対等の立場に立ち著者の言い分を鵜呑みにしない態度で読み進めるべきで、重要なチェックポイントとして、著者を簡単に信用しないこと、著者の狙いをつかむこと、論理を丹念に追うこと、根拠を疑うこと、著者の前提を探りだし疑うこと、の4つを挙げている。論理を明確するためのコツとしては、まず結論を先に述べ、それからその理由を説明するスタイルを取る、理由が複数ある場合や説明をいくつかの側面から行う場合には、あらかじめそのことを述べておく、判断の根拠がどこにあるのかを明確に示す、その根拠に基づいて、推論をしているのか、自己の断定なのかを分かるようにする、別の論点に移る時には、それを示す言葉を入れる、分と分がどのような関係にあるのかを明確に示す、という6つを挙げている(ちなみに、シンプルかつ重要な作文技術としては、宇佐美寛『作文の教育』が述べている「句点を出来る限り挿入し、文を短く切れ」が一番有効だろう)。思考法のコツとしては、ひとりディベートを行う、そのとき自分で仮想の立場を複数設定して、それぞれの立場からの批判や反論を試みる、その結果として書き手が拠って立つ複数の前提を見いだす、文章にすることで第三者的に論理の甘さを見ようとする、という4つを挙げている。問いの建て方としては、「なぜ」を問う、その「なぜ」は結果よりも時間的に先行している、原因も結果も共に変化している、原因以外に重要と思われる他の要因が影響していない、という三原則のうち最後のものが重要となる、原因だと思われている要因が実はあまり重要でない疑似相関の場合に着目する、の3つを挙げている。個別事例と概念に関しては、2つ以上のケースを比較することで、両者に共通する特徴を概念としてつかみだし、概念のレベルで原因と結果の関係を表現し直したうえで、それを他のケースに当てはめてみる、といった手法を例示している。関係性に関しては、事象がどのような要因や要村の服語かを分解させて考えていく、それぞれがどのように関係しれいるのか考える、その複合が問題としている事柄全体のなかでどのような位置を占めているのかを考えるの3つを挙げている(なお、逆説的な関係性(「にもかかわらず」という関係性」)については煩雑になるので省略)。
 ポイントだけをつらつらと挙げてみたが、実際には具体例と共に解説している。非常に分かりやすく書かれていて、大学生には役立つだろうが、教える側にとってもネタとなるものが色々と拾ったり再確認できることがある。たとえば3年生のゼミでは、新年度の初めに前年度の3年生が行った発表調査用のレポートを批判的に読ませて、報告させる。そうすると批判的なコメントが多く出てくる。ただし、そうした批判は毎年同じようなものが繰り返される。批判の目を他者に向けることは出来ても、自分たちには向けられていないわけである。そもそも必要なことは他者の批判を超えて新たな代案を出すことにあり、そこまで出来て批判的な読み方になりうるわけである(124〜127頁)。私自身、実際に学生が作成した見解を用いて、他の学生たちに自己の見解を提示する方法を教えたりしているが、このようなやり方があるか、と気づかされて拝借させてもらう気になった。というわけで、初学者も教える側も読めば何か得るものがあると思う。
 以下メモ的に。授業で集めた解答用紙を翌週に赤ペンでAからDを付けて返して、学生に感想を聞いていったとする。Aが付いていた学生は「思っていたよりもよかった」「嬉しかった」などのコメントをする一方で、CやDの学生は「あまりうまくかけなかったので…」といった言い訳をする。学生はそれを一般的な常識に従って成績と考えていたのだが、実際には何の意味もなく書いたアルファベットにすぎず、特に意味はない。その常識に従ってAが付いていれば喜び、Dだったらがっかりするとい感情を持ってしまったわけである(30〜32頁)。なお、ここからスタートして、教師が生徒を評価するとはどういうことか、そうした評価の意味を考えていくそうである。
 有名進学校の人間は受験競争に汲々としていて、人間的に冷たくて友人を作るのが得意ではない、というステレオタイプがある。しかし、実際にはかなりの余裕を持っている人間も多い。経済的にも文化的にも豊かな家庭出身の人間関係の巧みさが見落とされているのかもしれない。さらにいえば、そうした虚像は、横並びが好まれる日本においてエリートを醜く描きだすことで、彼らに対する嫉妬のガス抜きの役割を果たしているのかもしれない(37〜40頁)。


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