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2015年8月の見聞録



8月6日

 岡田温司『黙示録 イメージの源泉』(岩波新書、2014年)を読む。『マグダラのマリア エロスとアガペーの聖女』『キリストの身体 血と肉と愛の傷』と同じ系統のタイプのもの聖書にて終末を語る黙示論が、現在に至るまでどのようなイメージで用いられてきたのかを見ていく。とりあえず印象に残っているのは、黙示録は曖昧な箇所も多いので、それだけ比喩的にイメージ化しやすく、さらに自分の敵対者への悪しきレッテル貼りに使われやすいのだな、ということ。なお、ユダヤ教と異なりキリスト教では、メシアは一度は到来したがまだ最後の審判は訪れていないと見なされていた点で、「「すでに」と「いまだ」の間の緊張」(62頁)が、様々なイメージを生んだとも考えられるだろう。ただし全体としては、すっきりとまとまったものというよりは、個別のテーマごとの評論集のように感じた。
 以下メモ的に。黙示録ではしばしば7という数字と結びつけられているが、大淫婦について「七つの頭とは、この女が座っている七つの丘のことである。そして、ここに七人の王がいる」(17:9)とあるのは、都市ローマの七丘を指しており、ローマに対する抵抗のメッセージが込められている(8頁)。
 新約外典「バルナバの手紙」(80〜120年ごろ)では、主にとっての1日は千年を意味するので、世界が6日間で完成したあるのは6千年を意味する、と書かれている(15:4)。7日目の安息日は、神の子が来て不法の者の時代を滅ぼす、とある(15:5)。終末に続くキリストの再臨と審判・救済を指す点で黙示録に近い(13〜14頁)。
 「使徒言行録」にて、預言者は使徒とともに各地を布教して回っている(11:27、13:1)。しかし、そもそも「偽預言者を警戒しなさい」(マタイ7:15)というイエスの言葉にあるように、危うい存在でもあった。そのためか、2世紀ごろに教会組織の編成が本格化すると、預言者はその序列から除外されていく(34頁)。なお、悪霊をはらう祓魔師は、教会の序列に含まれていた。
 10世紀のモンティエ=アン=デールの修道院長アゾが記した『アンチキリストの誕生と時代についての論考』では、アンチキリストの登場に対して複数の予防線が張られている。フランク族の王たちが防波堤の役を果たしていると記した後に、神に派遣された2人の預言者が現れる。後者は「黙示録」では、話の途中に挿入されていたが、配置転換させて終末の直前に置かれている。危機感を煽りつつ引き延ばしも行うという「黙示録」そのものが持つ両義性が、ここにも使われている(103〜104頁)。フィオーレのヨアキム(1135頃〜1202)は、父の時代、子の時代、聖霊の時代という3つの時代推移を設定したが(それぞれの間に移行期を置く)、この3つの区分が世俗化されて拡大解釈されたのが、古代・中世・近代という時代区分であるという説がある(108頁)。さらに、ヨアキムの終末論は、古代・中世という先史を超えて何か決定的なことをもたらすことが始まっているという考え方につながり、マルクスやヒトラーへの影響も考えられる(111〜112頁)。
 2009年にコペンハーゲンで開催された国連気候変動枠組条約締約国会議(COP15)に際して、グリーンピースのメンバーは黙示録の4人の騎士に扮装して登場するパフォーマンスを行った。これは西洋人の想像力のなかで黙示録のイメージがいまも生き続けていることを物語っている(238〜239頁)。


8月16日

 鯨統一郎『九つの殺人メルヘン 連作推理小説』(光文社文庫、2004年(原著は2001年))を読む。日本酒バーでマスターと共に、昔の懐かしいネタやうんちくを語り合う常連客の犯罪心理学者・山内と刑事・工藤。このバーへ金曜の夜のみに現れるお嬢様然とした桜川東子。工藤が未解決の事件を語るとき、東子は自分が専攻しているメルヘンの童話に基づいて鮮やかな推理を語り出す…。
 『邪馬台国はどこですか』『新・世界の七不思議』のミステリバージョンといったところ。ただし、最初は意外な犯人が明らかになるというパターンだったのだが、中盤からは犯人と思しき人物のアリバイを崩すというパターン一辺倒になったので、個人的にはちょっと飽きてしまった。あと、最後には何か意外な事実が明らかになるのだろうなと思っていたら、東子に関してではなく山内と工藤に関することだったので、そちらなのか、と勝手ながらちょっと残念に感じてしまった。


8月26日

 山内太地『大学のウソ 偏差値60以上の大学はいらない』(角川oneテーマ21、2013年)を読む。日本の大学の上位校とアメリカの大学の上位校との授業を比較し、日本の大学教育を批判する。日本の大学は、上位校であっても語学は週2日で各回90分しかやっていない。さらに、10〜15以上の科目を週1回ずつ履修しているため、深く学ぶことが出来ない。これがアメリカの大学ならば、語学は集中できる時間である50分の授業を毎日行い、残りも5科目程度の授業を予習・復習も込めてみっちりと行う。さらに、アジアにも遅れをとっているとする。たとえば、フィリピンの大学ではアメリカの大学のような教育制度を取っている。
 ただし個人的には、日本の大学「教育」は日本の経済成長にとってたいした意味を持っていなかったように思われる。あくまでも「教育」であって「研究」は別である。著者は、日本の大学は何も手を打ってこなかった述べているが、そもそも経済成長に無関係だったからこそ手を打つ必要がなかったのだと思う。大学は受験を経て入るまでが大切だ、ということは遅くとも1970年代頃から言われてきたはずだろう。さらに言えば、大学への進学率が低かった時代でも日本は着実に成長を遂げてきた。にもかかわらず日本は経済成長を遂げてきたのだから、日本の強みは大学教育にはなかった、と言える。1990年代以後には経済成長は鈍ったが、それも大学教育のせいではあるまい。それでも日本が踏みとどまっているのも、大学教育のおかげではあるまい。
 私は何も大学は何もしなくてもよいといっているのではない。ただ、グローバル化に対応した人材を育成するのは、大学という制度を改革した程度ではおそらく無理なのではないか、というだけだ。なので、大学の授業数を減らして中身のある教育をという要請そのものものを、誰も進んでやりたがらないだろうな、という気がする。日本の大学は多様な科目によるリベラルアーツを担っているのだ、というお題目のままであっても日本の経済成長にはさして意味がないのだから放っておこう、ということになる気がする。ただし、日本に余裕がなくなってくれば、リベラルアーツではなく実学指向で、という流れがさらに強まっていくであろうが。なので、本書に反応するのは、私のような大学関係者だけであり、しかも組織の保全を願うべくネガティヴな反応をするのだろうな、と思う(私自身も偉そうには言えないのだが)。
 もしかしたらグローバル化が進むなかで、新たなタイプの人材が必要となっていくのかもしれない。ただしこれに関係して、疑問に思ったところもある。著者は、日本にもレベルの低い高校があるように、「世界の半分は勉強がキライだ」(19頁)と主張している。そうした若者の割合はともかくとして、主張そのものについては私も同意する。「そうした人が全員、グローバル競争だから勉強しろ、しないと仕事がないぞと言われているのです。これは、強制的に負け組を作り出す仕組みです」(20頁)と述べている。これについても特に異論があるわけではない。やがて給料の格差はさらに開いていくだろうが、「でもリーダーは、そうした「使えない」国民を何とか食わせるようにしなければいけません」(21頁)。これについても同じである。ただし、ここからが少しよく分からない。日本の市場は衰退していってもこれからはアジアは発展していくのだから、「日本だけが少子高齢化で落ちぶれていると考えず、北海道や九州に行く感覚で中国やインドネシアやシンガポールに行き、仕事をしたり交流をしたりして、どんどんアジア経済と繋がってしまえばいい。日本国内で働く人も、自分で考えて、そういう新しい市場を開拓していけば、高校生の20年後も暗くはありません」(26〜27頁)とある。アジアは発展し続けるのかは私には判断できない。そうではなくて、勉強が嫌いでつつがなく生きていければいいという人にとっては、大きな野望を持つことなくコツコツと働いて生きていける方が理想ではないのか、ということだ。エリートが、日本ではなくて海外の大学で資質を伸ばして、日本という国を引っ張れる人材へと成長するように促すのは、主張としてはありだと思う。しかしながら、エリートと勉強嫌いの一般人を対比させておきながら、その一般人にまでグローバル化した生き方を指南するのは、何か違う気がする。これでは、成功するためには結局のところエリート的なグローバルな勉強をせねばならないことになる。上手く噛み合っていないように感じる主張を読んでいると、下衆の勘ぐりだが、アジアの大学を薦める著者に何か旨みがあるのではないか、と考えてしまった。それとも、これからは一般人がつつがなく生きていくだけでもグローバル化した生き方を行わねばならない時代ということなのだろうか。こうしたなかで、地元志向について述べる文献(浅羽通明『昭和三十年代主義』・辻村深月『名前探しの放課後』)や、大都市圏への一極集中について述べる文献(増田寛也編著『地方消滅 東京一極集中が招く人口急減』)が散見されるのは興味深い。素人の根拠のない予想にすぎないが、これからはグローバル化・大都市圏への一極集中・地元志向のバランスの取り方が、日本の将来にとって意味を持つのかもしれない。


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