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2015年9月の見聞録



9月5日

 高野和明『ジェノサイド』(角川書店、2011年)を読む。創薬化学を専攻する大学院生・古賀研人は、亡くなった父親からのメールに導かれ、アパートの一室に設けられた父親の私設実験室にたどり着き、そこで実験の引き継ぎを託される。一方、アメリカでは政府中枢部が極秘に進めていたプロジェクトに選ばれた傭兵であるジョナサン・イエーガーが、難病に冒された息子の医療費を稼ぐために、同じように雇われた他の者たちと一緒にコンゴのジャングル地帯へと侵入し、未知の生物の抹殺と病原体の処理を命じられる。その未知の生物こそが、研人の実験の鍵を握る存在だった…。
 サスペンスアクションとして十分に面白いのだが、ときどき挟まれる学問的なまとめや歴史的な実話が、流れを切ってしまっているような気がする。別に大きく間違ったことを書いているわけではないと思うのだが、道徳的に正しいことが深みのあることになるわけではない。あくまでもフィクションの物語の凄みだけで現実の道徳観を問うたり揺さぶったりするだけでいいと思うし、その方が深みも出ると思うのだが。ちなみに、作中の賢者めいた人物が「歴史学だけは学ぶな。支配欲に取り憑かれた愚か者による殺戮を、英雄譚にすり替えて美化するからな」(415頁)と語る箇所があるのだが、上流階級ではなく一般人の生活や心性に目を向ける社会史が出てきた時代に、むしろ政治的な大量虐殺が格段に増えたのは皮肉なことだな、とふと思った。


9月15日

 三浦瑠麗『シビリアンの戦争 デモクラシーが攻撃的になるとき』(岩波書店、2012年)を読む。デモクラシーによる文民統制が成熟した19世紀以後の近代社会において、軍人が戦争に対して消極的であるのに対して、むしろ文民政府が戦争へ積極的である傾向を、いくつかのケーススタディと共に確認していく。題材として詳しめに取り上げられているのは、イギリスのクリミア戦争、イスラエルの第1次・第二次レバノン戦争、イギリスのフォークランド戦争、アメリカのイラク戦争である。
 近代国家において戦争に際して、国民・政府・軍の三者が相互の影響力を持つ。その関係性を左右する因子は、民主化度、統治の安定性、国民の動員度または政治参加度、軍のプロフェッショナリズムの度合いである。それらの因子が高度に発展していても、アメリカによる湾岸戦争や対イラク戦争のように、シビリアンが積極的に戦争の実行を指示し、反対派を排除した事例もある。政権担当者が、戦争の成功によって支持率を獲得しようとする場合は、決して珍しくない。むしろ、19世紀末の戦争を見ていけば、軍が文民政府を戦争に追い込んだ例は見られない。つまり、「今日の安定したデモクラシーでは、シビリアンと軍の分断が進むことは、軍の独走などの危険性を生むのではなく、むしろ軍の孤独を深め、リスクを回避させる方向へと働く」(218〜219頁)。「シビリアン・コントロールが強い国では、軍はシビリアンの求める戦争に応じない選択肢はなく、シビリアンがやりたがらない戦争をする自由もない」(219頁)わけである。
 そもそも、近年の戦争が実は経済的に儲かっているわけではない点は、ポール=ポースト『戦争の経済学』にてすでに示されている。ただし、あちらでも書いたように、もしかしたらトップに立つ政治家はこれによって何らかの儲けを得ることができるのかもしれないので、その点で何らかのメリットを考えて戦争を決定している政治家もいるのかもしれない。その点で戦争を推進する軍人は軍需産業とつながっているのかもしれない。ということを書いていて思ったのだが、本書は経済の観点が少ないように思えたので、そこへの言及があればさらに多面的な考察になったのかもしれない。
 本書の事例を読む限り、冒頭に挙げた主題は間違っていないであろう。なお具体的事例については非常に詳細に書かれており、それに関する説得力は十分にあると思う。ただし、少数の事例を詳細に述べるのではなく、むしろ特に20世紀の先進諸国の戦争のごく簡単な概略を示しつつデータをすべてまとめて、シビリアンによって主導された戦争がどの程度になるのかを示した方が説得力はあったのではなかろうか。もちろん明確には分けにくいかもしれないが、曖昧なものは曖昧なままでデータとして示すだけでも説得力は十分にあったであろう。そうでないと、本書で挙げた事例は特殊事例にすぎないのではないか、という批判も上がると思うので。
 ちなみに個人的には、さらに途上国での戦争のデータとの比較をして見るともっと面白いかもしれない、と感じた。根拠のない単なる推測にすぎないが、途上国では軍人によるクーデターが多いものの、対外戦争よりは内乱の方が多いイメージなので(対外的な攻撃は戦争よりもテロになっているような気もする)。
 ところで、戦争の原因を軍にではなく文民政府に求めるといった本が岩波書店から出るのか、と不思議に感じた。ただし、岩波書店の立場からすれば、文民政府が戦争決定を行うという点から、本書を利用して日本の現在の政権を批判出来るという判断があったのかもしれない。おそらくだが、そうした論者が現れるような気がする(すでにAmazonのレビュワーにはそうした人もいるようだ)。
 以下メモ的に。戦後日本の自衛隊は、制服組は体外膨張を図るどころか、しばしばPKOなどの海外派遣に消極的なことも多かった(2頁、なおこの記述は『毎日新聞』1991年4月6日朝刊・同年6月27日朝刊、『朝日新聞』1991年7月26日朝刊・2003年12月10日朝刊、『読売新聞』2005年2月4日朝刊を参照したそうである(注11頁(5))。
 イスラエルでは1973年のヨム・キプール戦争までは兵役参加率は高かった。しかし、レバノン占領地の過酷な任務や90年代の一時的な平和と経済成長を経て低下していき、1988年の90%から1999年には約55%へと低下した(105頁)。
 アメリカ軍では、不文律によって現役将校が公に政治的発言をすることは禁じられていた。軍内部でも直接の上官にしか意見は言えず、軍人同士でも相手を公に批判することもタブーとされている。だからこそイラク戦争に関係した将校たちも、退役するまで声を上げなかった。なお、これに対して、軍に責任はないのか、と一部のメディアは批判的な論調を見せたという(194頁)。


9月25日

 宮部みゆき『ソロモンの偽証』(新潮社、2012年)TUVを読む。クリスマス、中学2年生が自分の通う中学校から転落死した。自殺と断定されたが、他殺だとの告発状が現れ、すれ違いと悪意の連鎖が生徒と保護者の疑心暗鬼を招き、学校は窮地に陥る。その数ヶ月後の夏休み、翻弄された同級生たちは、自分たちで学校内裁判を開廷して真実を明らかにしようと決意し、告発された生徒に対して検事側と弁護側に分かれた裁判を行うべく、証拠と証人を集めていく。しかし、裁判の結末は思わぬ方向へと向かっていく…。
 各巻700頁以上で全3巻とかなりのボリュームである。宮部みゆきの横綱相撲といった感じで、第1巻では登場人物のディテールが語られつつ、学校による生徒への対応の難しさとまずさとがじっくりと描かれていく。この第1巻はかなり重苦しい雰囲気だ。このあたりは同じような大作である『模倣犯』を意識しつつ読んでいた。だが第2巻に入ると、中学生が日常的に抱いている心情に寄り添いながらの青春劇といった趣になる。第3巻は法廷ミステリっぽくなる。ただし、宮部みゆきの他の作品と同様に、ミステリとしては怪しい人物が途中で分かってしまうので、意外性やどんでん返しには特に期待できない。また、本作の舞台設定は1990年だが、作中も発表の年度も同じ1990年代後半である『模倣犯』のように、同時代の思想性を読み取れるような作品でもない。したがって、ミステリや社会派っぽい作品を期待した人には肩すかしになる可能性がある。その意味で初めて宮部みゆきを読む「大人」にはあまり勧められない。ただし初めて読むとしても、「中高生」には大丈夫かもしれない。おそらくだが、自分自身の心情を投影できそうな人物が誰かいると思うので、本作を読むことで自分自身の悩みに対する導きを何か得られる気がするからだ。本作を読んだ中高生がどのような感想を持つのかを知りたいなと思う。ただし中高生が読むには第1巻がやや重すぎて、さら全体の分量が多すぎるのがちょっとネックなので、そのあたりが痛し痒しといったところではあるのだが。


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