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2019年10月の見聞録



10月5日

 田尻祐一郎『江戸の思想史 人物・方法・連環』(中央公論新社(中公新書)、2011年)を読む。江戸成立期から幕末に至るまでの思想について、著作家とその原文を挙げつつ、テーマ別に論じていく。江戸の思想史の研究については、同時代の文献学的な考証から明治以降の歴史をいかに準備したのかという観点へと関心がシフトした、という流れがあると勝手に感じていた。だが、江戸の思想史について私が勉強不足で知らなかっただけで、それを踏まえた上で、江戸の人々がどのように考えていたのかの面白さを読み取るという方向性が新たに始まっていたようだ。本書は、最後の章である民衆宗教を除けば、あくまでも江戸期の思想として論じている。私自身の知識不足のせいで、本書の面白さを十分に味わいきれたわけではないのだが、それでも江戸時代の人々がその時代のなかで生きながらいかにして自分の思想を打ち立てようとしたのか、という流れをそれなりの興味を持って読むことができた。巻末に索引があれば、入門書としてより良かったかもしれない。
 以下、メモ的に。中世までの人々は、恐ろしい物の怪やおどろおどろしい霊力、人知を圧倒する怪異・霊威に包まれて生きており、恐怖と畏怖の念が浸透していた。だからこそ死もまた近しいものであった。けれども、内乱の時代が終わった近世に入り、家屋にて家族に看取られて死を迎えることが普通になると、餓死はあってはならない異常なことと意識されるので、飢饉の際には、年貢の軽減を求めて農民が立ち上がった(7頁)。
 近世日本では、血縁的な連続にない者を家の保持のために後継者に選ぶことが一般的に行われた。これは、父祖から子孫への「気」を連続させる男系のタテのつながりが家である、と考える中国や朝鮮とは大きく異なる。隠居もまた日本独自のものである。寛文年間(1661〜1673年)に家を単位とした寺檀制が全国的に確立されたころに、家が庶民のレベルで確立されたと考えられている(11頁)。
 本居宣長(『くず花』)は『古事記』や『日本書紀』が伝える神々の物語は、日本の誕生にもならず天地(世界)の生成と秩序を明らかにしているとした。日本には「文字というもののさかしら」がなく「妙なる言霊の伝え」として受け継がれたからこそ残ったのであり、逆に文明の優越を誇った中国は、観念や説明の過剰によって、本来なら伝えられたであろう「上古の伝え事」が逆に分からなくなった、とした(146頁)。
 晩年の杉田玄白は、蘭学が瞬く間に広がったのは、漢学とは違って蘭学が実学だったからなのか、それとも漢学によって培われてきた知見があったからこそなのか、と問うた。おそらく玄白は、双方の契機が働きあったからこそ蘭学が発展したと言いたかった。実際に、『解体新書』も漢文で記されている(155〜156頁)。
 幕末の民衆宗教は、来世に希望を託すよりも、世俗生活をおおらかに肯定して、心の持ち方の改めによって、差別のない人々のつながりを実現しようという指向が感じられる。こうした傾向はナショナリズムを下支えする傾向を持っていると言える。現実の家や村で味わう差別や理不尽な苦労を越える世界として、外側の単位である国が空想されたのであろう(227〜229頁)。


10月15日

 石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社(講談社現代新書)、2015年)を読む。表題通り、ヒトラーが台頭して、ナチスが権力を握ってホロコーストへ突き進み、第2次世界大戦に敗れて崩壊するまでを描く。このテーマに関しては、巻末にかなりの文献が挙がっていることからの膨大な蓄積があると分かるが、それを踏まえた上で全体像を知りうる入門書であろう。
 以下メモ的に。ミュンヘン一揆での逮捕後に、ヒトラーには5年の要塞刑が言い渡されたものの、この刑は受刑者の名誉を奪うことなく執行される禁固刑であった。ヒトラーがこのような幸運な立場になり得たのは、ライプツィヒの国事裁判所ではなく、バイエルン州で裁判に掛けられたことと関わる。共和国防衛法が厳密に適用されると、事件に関わったバイエルン保守派に追及の手がおよぶ可能性があるので、バイエルンの面目を保とうとした州政府の意志がヒトラーに有利に働いた(65〜66頁)。
 1930年の国会選挙では、ナチ党は国会第2党へと躍進した。国民の各層に対する主張を展開するなかで、いずれにおいてもユダヤ人へ不満を向ける扇動が行われた。さらに、民族の栄誉を訴えて、たとえば戦没兵士の追悼式典を行った。ヴァイマル共和国政府はこの点で、積極的ではなく戦争賛美につながる行事を避けていた(101〜102頁)。
 1933年にヒトラーを首相に任命したヒンデンブルク大統領と保守派は、用が済めばヒトラーを放り出せばよいと考えていた。その用とは、ヴァイマル憲法が定める議会制民主主義に終止符を打つこと、伸長著しい共産党など急進左翼勢力を抑えつけること、強いドイツを内外に印象づけて再軍備に道を付けること、であった。これらが済めば、同じように大統領大権を使って、ヒトラーを失脚させればよいと考えていた(131〜132頁)。
 1951年に西ドイツで実施された住民意識調査によると、20世紀のドイツが最も上手くいっていたのはいつと思うかを気持ちに従って問うたところ、40%がナチ時代の前半をあげた。これは45%の帝政期に次ぐ高さで、ヴァイマル期は7%、ナチ時代の後半は2%、1945年以降は2%であった(190〜191頁)。
 ヒトラーは初期には閣議をまめに開催していたが、やがてほとんど開かれず、自身によって多くの法案を成立させていった。閣議は1933年には70回開催されたがであったが、1938年に1度開かれたのを最後に開かれなくなった。閣議を開かずに、省庁間の意思疎通を阻害しながら、最終決定者としての自らの威信を高めた(195〜196頁)。そのうえで、各部署はヒトラーから評価されて信頼を得ることを切望した(202頁)。
 ヒトラーは、公共事業による雇用の創出と、企業減税による活動の振興を図ったが、これはすでにおこなわれていたものであった。ヒトラー政府独自の特徴として、若年労働力の供給を減らすために、様々な形の勤労奉仕制度を導入して、若年労働者を市場から減らしたこと、女子労働者をできるかぎり家庭に戻す政策をとったことが挙げられる(210〜212頁)。
 ヒトラーは障碍者の安楽死殺害政策の停止を命じたが、その時点ですでに約7万人が殺されていた。さらに、子供や新生障碍児の殺害は続行させた。そのための殺人の専門家集団をホロコーストの専門要員として活用した(308〜309頁)。ポーランド編入時に、東欧に住んでいたドイツ人は帝国へ帰ろうの掛け声と共に、ドイツへと帰国していった。もともとの移住先で豊かな生活が約束されていたため、政府は編入地域での十分な生活・就労環境を提供せねばならなかったため、移住者1名に対して現地住民を2〜3名立ち退かせた(313頁)。ユダヤ人はマダガスカル島へ移住する計画があったものの、イギリスとの講話の実現を前提としており、計画を断念せざるを得なかった(318頁)。なお、 植村和秀『ナショナリズム入門』によれば、1937年に出版された『ドイツ歴史地図帳』の表紙裏には、国内に6500万人のドイツ人が暮らし、国境の外に3000万人のドイツ人が15か国に別れて暮らしている、と(おそらく誇張ではあるが)記されているそうである。
 ヒトラーは、対米開戦当日の国会演説で、アメリカがユダヤ人に牛耳られており、ロシア革命の背後にもユダヤ人がいて、同じようなことをドイツでユダヤ人は実行しようとしている、と訴えた(325頁)。


10月25日

 岡本隆司『日中関係史 「政冷経熱」の千五百年』(PHP研究所(PHP新書)、2015年)を読む。現在の日本と中国の政治関係は良好とは言えないが、多くの中国人が来日して買い物をしている。けれどもこのような関係は、古代から変わらずに続いている、とする。そもそも中国(さらにいえば東アジア)からすれば、日本は周辺国のどうでもよい知る価値のない存在にすぎず、ほぼ関心がなかった。日本も、中国を中心とした東アジアのスタンダードから外れた制度を維持し続けており(たとえば、天皇と将軍の二重政府の体制)、中国の考え方を理解しきれていないところがあった。たとえば、『宋書』を読む限り、日本は朝貢を行って朝鮮半島の勢力に対抗するような称号を得ようとしたものの、中国は必ずしも十分な称号を与えていない。これは中国側に日本の態度が不遜かつ不快に感じられるものだったためであろう。遣隋使における「天子」という呼称にまつわる有名な問題も、同様である。元寇においても、その当初に元からの使節を殺害するなど、当時の東アジア世界の常識とはかけ離れた行動を取った。
 明治に入ると、日本は欧米に基づく近代化を進めたが、当時の清も日本に倣って近代化を進めようとする。たとえば、日本で欧米の言語から翻訳された「社会」「自由」「階級」「主義」「領土」「立憲」「憲法」などの言葉は、そのまま中国に導入された。ところが、日本は中国の勢力範囲へ進出し、関係はやはり良好とは言えない状態に陥ってしまった。特にはじめに問題となったのは、朝鮮半島をめぐる対応である。日清修好条規において、両国の所属封土は侵越あるべからず、と定められている。清にとって、これは朝貢国である朝鮮を指していた。けれども日本は、近代西欧的な見方で、清が朝鮮を実際に支配しているわけではないので、そこに朝鮮は含まれていないと捉えた(181〜182頁)。清が「自主」と見なした琉球に対しても、同様の考え方の相違が見られる。
 日本と中国の間の密なように見えて疎遠であり互いを理解していない関係が、古代から続いていたものであることを踏まえて、なおかつそれを軸に日中の経済発展についてもコンパクトにまとめていて、分かりやすいのではなかろうか。内容が浅めである部分もあるとは思うが、参考文献の冒頭に「あくまでも忙しい方々のための実用向き」(256頁)ならば、十分であろう。個人的には、日本が海洋を通じて海外とも交易・交流を行っていたことを論じた網野善彦『「日本」とは何か』や岩下哲典『江戸の海外情報ネットワーク』、江戸時代の地域産業の交流に触れた大石慎三郎『将軍と側用人の政治(新書・江戸時代1)』あたりは、挙げておいてもよかった気がする。倭寇(特に後期倭寇)の主体が中国人であったことを論じた、石原道博『倭寇 新装版』(吉川弘文館、1996年)はやや専門的すぎるので挙げられないだろうが、これについての適切な初学者向けの本もあるはずなのに、知識不足でよく分からない。
 以下、メモ的に。日本から遣唐使は送られたものの遣宋使は送られていない。けれども、唐からの文物は骨董として残っているだけで生活や実用からは遠い。これに対して宋から伝来したものは、朱子学や禅宗など以後の日本人に大きな影響を与えたし、「挨拶」や「道徳」といった単語など、現在にも残っている。なお、宋代の中国は、火薬や羅針盤、印刷などの技術が発明されており、石炭の使用、鉄や銅の生産の急増とそれに伴う貨幣の増産、農業改革と土地の再開発、めざましい経済発展を遂げた。これを唐宋変革という(40〜42頁)。
 内藤湖南は、応仁の乱の特徴として下克上を挙げたが、単に部下が上司を蹴落としてのし上がったと時代と見なしたのではなく、最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する時代と見なした。言い換えれば、下層の平民による上層の破壊であり、それを通じた上層と下層の一体化であった(108頁)。呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』にもこの話は出ていたが、そこでは社会のことよりも平民は成り上がるチャンスを得たというポジティヴな見方として触れられていたように感じた。
 第一次大戦で金本位国の列強が混乱に巻き込まれたため、金が値下がりして銀が高騰する。中国では都市で流通して外貨の役割を果たしていた銀が値上がりしたため、民間に流通していた銭が安価になってしまった。その結果、外国から綿花を輸入するよりも、中国内で綿花を調達して機械制綿糸を作る方が有利となる。こうして、中国の都市部では紡績業が発達した。日本の紡績業も、安価な中国製に対抗するために、日本からの輸出から、中国での生産へとシフトする。けれども、大戦が終わると銀は再び下落して、逆の市場環境となる。そのため、両国の紡績業は、原材料の産地に近い農村部で展開してコストを下げるか、都市部にて付加価値を上げて高級化をするか、という棲み分けがなされていく(230〜232頁)。
 李鴻章は、日本について「明代の倭寇にほかならない」と警戒した(179頁)。
 中国では、代わらないのが至上という通念があったため、「変法」はネガティヴな言葉であった。だからこそ、改革は成立しにくく、改革者も評価が低い。北宋の王安石や、清の李鴻章などがその例である(204頁)。


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