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2018年11月の見聞録



11月9日

 広岡正久『ロシアを読み解く』(講談社(講談社現代新書)、1995年)を読む。池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』と同じく、仕事の必要性から読んだもの。ソ連崩壊後に書かれた本であるため、現代史の本としては古めになるのだが、ソ連をロシアという観点から読み解くものであるので、文化論としてはいまでも知識を得られる本になっていると思う。広いテーマを扱っているだけ、専門外の人間としてはこちらの方が楽しめた。たとえば、ロシアでは16世紀末から17世紀初頭にかけて帝位の空白が生じた際に動乱や戦争によって無秩序状態に陥った。スムータと呼ばれるこの時代の再来をロシア人は恐れているとして、だからこそツァーリやスターリン体制の独裁にも耐えられたのだとしている(46頁)。さらにいえば、ソヴィエト体制下でも指導者に対する個人崇拝はしばしば行われており、レーニンはミイラとして保存されていたのはその一例である(114頁)。細かい部分では、こうまとめてしまうと齟齬が出るのかもしれないが、全体的な方向性が間違っていないのであれば、わかりやすいまとめである。実際に現在もプーチン体制が続いているのだから説得力もある気はする。
 以下メモ的に。マルクス主義を信奉したインテリゲンツィアにとって、ロシア農民は宗教的・精神的土壌を受け継ぐ反動勢力に映った。だからこそソヴィエト体制下で農民が弾圧の標的となった(83頁)。ロシア人にとってのキリスト教解釈は、むしろ神秘主義的であった。教会も、制度ではなく信仰の共同性に基づく有機的結合体と見なす。救済は個々人の罪の許しではなく信仰の共同体を通して与えられる。これは、「人間や動物、そして植物も含む全宇宙の変容にいたる、霊の癒しと神聖化の過程を意味するものであった」(91頁)。なお、マルクスは「宗教は人民のアヘンである」と言ったが、レーニンはそれをもじって「宗教は精神的な下等なウオツカである」と述べる(105頁)。個人的には、共産主義はキリスト教の最後の審判と同じような方向性にあると考えており、そうだとすれば共産主義とキリスト教は近親憎悪に近い気がする。そのあたりについて書いてある本があれば読んでみたい。なお本書によれば、ベルジャーエフ『ロシア共産主義の歴史と意味』(白水社、1970年(原著は)、未読)では、宗教弾圧を招いた疑似宗教的性格が指摘されているようであり、「ロシア的な"神への叛逆"の思想的系譜に立つレーニンの"戦闘的"無神論の狭義は、「天国の楽園」と「地上の楽園」とをめぐる、宗教と共産主義との血みどろの戦争を、そして宗教の殺戮を予見するものであった」(107頁)と本書でも述べられている。


11月19日

 西山隆行『移民大国アメリカ』(筑摩書房(ちくま新書)、2016年)を読む。移民の国としてのアイデンティティをもっているアメリカ合衆国について、データに基づきながら現在の状況について述べていく。興味を引かれた点については以下にメモ的に挙げていくのだが、気になったのは、特に日本のことを述べる際には具体的なデータが不足している点。
 著者は、日本も移民の受け入れを行うべきという方向性で述べたいのだろうが、アメリカの事例を述べるときとは異なり、その際には具体的なデータがない場合が見受けられた。たとえば、「日本に定住する意志を示している人々については、犯罪に関与すれば国外退去となる可能性もあることもあった、その犯罪率は一般の日本人と比べても低い」(126頁)とあるが、アメリカについては出身国別で行っているのであれば(同頁)、日本においてもそのように行うべきであろう。
 なお、「メキシコからの移民の犯罪率が取り立てて高いわけではない」(76頁)という記述に対しても具体的なデータはなかった。もしかすると実際にはデータがあって、他の国からの移民と差はないのかもしれないが、それならばそれで、データの提示はいると思う。ちなみに、人口10万人あたりの収監者数(126頁)によれば、黒人が2285人、中南米系が979人、白人が400人となっている。そのうえで、移民法関連で追訴された人が多いというデータを示しているが(130頁)、私の理解が悪いのか、中南米系は移民法関連で追訴された人が多いという関係性があるのかよく分からなかった。もしそうならば、中南米系は収監者数における移民法関連で追訴された場合が多いので、それ以外の犯罪によって収監された比率は低めとなり、中南米系の移民が犯罪を犯す比率は低い、となると思う。ただし、そのように具体的に書いてあるようには読み取れなかったので、本当にそう言えるのかよく分からなかった。
 私自身は移民について何か意見を言えるほどの知識はないのだが、データの裏付けと比較を綿密に行っていなければ、日本での移民否定派を説得するのは難しいと思う。
 以下メモ的に。20世紀初頭には風刺漫画にてアイルランド系やイタリア系の人々が有色人種として顔に色が付けられていることが多かった。プロテスタントでなければ、ヨーロッパからの移民といえどもWASPとは異なる人種と見なされたためである(35〜36頁)。
 ビュー・リサーチセンターの調査によれば、1960年には総人口の85%を占めていた白人(中南米系を除く)の割合は、2011年には63%に低下しており、2050年には47%にまで低下すると推測されている。各人種における1960年から2011年への変化は、中南米系は3.5%から17%、黒人は11%から12%、アジア系は0.6%から5.0%となっている(50〜51頁)。
 中南米系は大統領選挙において一貫して民主党を支持している。ただし、共和党への投票比率がある程度高めの場合には共和党候補が勝利している(53頁)。
 アメリカには日本におけるに日本語のような国語が存在しない。アメリカ連邦法では、基礎教育を英語で行わなければならないとは規定されていないので、基礎教育をスペイン語で行うことも可能である。なお、基礎教育を児童に与える義務はあるものの、学校へ通わせることは義務づけられていないので、最低限の要件を満たしていれば、家庭での教育も可能である(101頁)。
 エスニック・ロビイングによる政治活動の活発さについても触れられているが、国家レベルの場合には本会議での投票に掛けられない場合がほとんどであるのは、小尾敏夫『ロビイスト アメリカ政治を動かすもの』で具体的に述べられている通りであり、州や地方レベルでの活発な活動と下院委員会などを通じた公の場での決議表明などについては、対日本のために中国・韓国系が行っている活動からもよく分かる。なお、中国の場合は若手の外交官を長期にわたって派遣して、長期的な観点からの人脈作りに励むのに対して、日本の場合は、引退に近いヒトが大使として任命される場合が多いそうである(189頁)。


11月29日

 呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』(中央公論新社(中公新書)、2016年)を読む。必要があって読んだのだが、石田晴男『応仁・文明の乱(戦争の日本史9)』に比べれば、歴史的事実に留まらない知見が得られる。ただしそれでも、こちらの知識の乏しさゆえによくわからないことが多い。とはいえ、多数の勢力が参加してお互いの利害がからんで長期化したらしいことと、近年の研究では応仁の乱によって戦国時代が始まったとするのではないという見解が主流であることは分かった。現在は、1441年の嘉吉の変による足利義教の暗殺が幕府政治の混迷の始まりであり、応仁の乱はその総決算であるとみなされている。加えて応仁の乱以後も幕府権力を維持しようと試みられている。むしろ1493年に生じた、将軍足利義植に対して細川政元らがクーデターを起こして足利清晃(義澄)を擁立した明応の政変の方が室町幕府の弱体化に決定的な意味をもったらしい。単なる推測だが、もし応仁の乱が決定的な意味をもちうるのであれば、当時の日本の中心地である京都をぼろぼろにしたという点にあるのかもしれない。
 以下メモ的に。内藤湖南は「応仁の乱に就て」(1921年)という講演において、「今日の日本を知る為に日本の歴史を研究するには、古代の歴史を研究する必要は殆どありませぬ、応仁の乱以後の歴史を知って居ったらそれで沢山です。それ以前の事は外国の歴史と同じ位にしか感ぜられませぬが、応仁の乱以後は我々の真の身体骨肉に直接触れた歴史であって、これを本当に知って居れば、それで日本の歴史は十分だと言っていいのであります」と述べた。それまでの史書は、源平合戦や承久の乱をより重視していた(ii〜iii頁)。そのうえで内藤は、足利時代は天才のいない時代であったとするものの、だからこそ「最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する」下克上が盛んになったと説く。これによって平民は成り上がるチャンスを得た歓迎すべきこととみなした。同じ評価は、民衆による革命を望んだ戦後のマルクス主義歴史学にも見られた。永原慶二『日本の歴史第10巻 下克上の時代』では、「この時代ほど無名の民衆的な英雄が、無数といってよいほど活躍した時代はないだろう」と記され、「「歴史は民衆がつくる」という古くして新しい歴史の格言を史実の中から実感できる」と熱弁をふるった。マルクス主義史観が批判されたのちも、その批判のために内藤の説は引用され続けた(iv頁)。
 応仁の乱時の1468年、足利義視は西軍の陣に入り、西軍諸将は義視を将軍と仰ぎ、幕府を模倣した政治機構を整えた。これにより事実上2人の将軍が併存した。これを西幕府という(103頁)。本郷和人『武士から王へ お上の物語』にて室町幕府が関東を切り離したと読んだが、おそらくこれも近年は主流の見解なのだろうし、それらしいことは本書にも書いてあったと思う。なお、これはのちの明応の政変において模倣された(247頁)。
 応仁の乱が長期化した背景には戦法の変化もある。戦場で敵陣を視察して防衛も行うことがあった施設である井楼が大規模化した。もともとは防衛施設であったが、応仁の乱では攻撃側も利用するようになる(105〜107頁)。なお、戦乱の進展につれて、京都のあちこちで要害が築かれて、邸宅の周りに堀を築くようになっていった。元来、市街戦は1日で決着がつく場合が多かったが、応仁の乱での京都市街戦は、実質的に攻城戦となった。第1次世界大戦にて塹壕によって長期化したというのと似ている(108〜109頁)。塹壕戦について木村靖二『第一次世界大戦』に書いてあったか忘れてしまった。
 こうしたなかで戦局を打開するために活用されたのが足軽であった。慢性的な飢饉のなかで、都市へ流入してくる下層民が足軽の最大の供給源となった。足軽は敵の補給路の遮断と補給施設の破壊を最も期待されていた。しかしこれによって略奪や放火が生じて、京都に大きな被害をもたらした(111〜112頁)。
 近年の見解では、守護が国人を家臣に編成するという見方よりも、国人の側が主体的に守護などの有力者と主従関係を取り結ぶという見解のほうが有力である。したがって主君が家臣を保護する義務を怠った場合、家臣が殊勲を見限ってもなんら非難されなかった(227頁)。
 応仁の乱以前に室町幕府を支えていたのは、複数国の守護を兼ねる在京大名たちであった。地方の大名たちを京都に集めて監視・統制する一方で、彼らに幕府の意思決定に参加することを認めた(254頁)。けれども応仁の乱以後には、諸大名の意見を吸い上げて幕政に反映させる回路は失われた。大名による分国支配を保証するものが幕府による守護職補任ではなく、大名の実力そのものになっていった。大名たちは次々と分国へと帰って行った。他家とのパイプ役でもあった在京家臣よりも地域に根ざした分国出身の家臣への権力の移行も生じている。その結果として、幕府では奉公衆と事務官である奉行衆の存在感が高まるものの、間もなく対立していく(230〜231頁)。
 応仁の乱以前の京都の人口は10万人程度でそのうち武家関係の人口は3〜4万人に達したらしい。彼らは京都で文化的な生活を身に着け、やがてそれを地方へと持ち帰る役割を果たした。ただし、武士が室町文化に果たした主要な貢献は、資金提供者としてのものであった(262頁)。


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