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2018年10月の見聞録



10月10日

 ジャック・ル=ゴフ(菅沼潤訳)『時代区分は本当に必要か? 連続性と不連続性を再考する』(藤原書店、2016年)を読む。古代が正式にそう呼ばれるようになったのは1580年のモンテーニュにおいてであったが、ヨーロッパはそれ以前からの連続性と更に変容の準備がなされていた、とする。個人的には、時代区分という考え方はキリスト教における天地創造から最後の審判に至る時代区分の設定に影響を受けて生まれたのではないか、キリスト教の聖職者が説く最後の審判が来ないためにそうした時代区分を用いてキリスト教を批判したのではないか、という推測について確認したかったのだが、そのあたりについてはっきり分からなかった気がする。
 以下メモ的に。ダニエルもアウグスティヌスも時代区分について自然のサイクルから着想を得ている。ダニエルの4つの王国は、4つの季節に対応している。アウグスティヌスの6つの時代は、幼年期、少年期、思春期、青年期、壮年期、老年期という人生の6つの年代を指し示している(21頁)。
 11世紀から弁証法教師は文法ではなく論理学を主に教えるようになる。ささやかながら、これは科学が文芸に勝利する前触れとなる(111頁)。
 似姿をつくることを意図した肖像画の発明は中世末期の発明である。「浮き彫りとなったのは顔であるが、顔は身体の一部だ。これ以後、身体は歴史的記憶を獲得するのである」(124頁)。
 13世紀に、ヨーロッパ人に羅針盤、船尾舵、角帆がもたらされる。これ以後には、北欧と地中海沿岸が商品だけではなく人も乗せた大型ガレー船によって定期的に結ばれる(135頁)。ただし、交通集団としてはまだまだ未熟であった。フランスにおいて主要街道が整備されて所要時間が短縮されるのは18世紀である(135〜136頁)。
 11・12世紀における農業の飛躍的発展からフランス革命に至るまで、常に飢饉の危機があった。例外的に恵まれたフランスでさえ、国中を襲う危機は10世紀に10回、11世紀に26回、12世紀に2回、14世紀に4回、15世紀に7回、16世紀に13回、17世紀に11回、18世紀に16回起きている。この点からは15・16世紀における時代の切断は生じていないと言える(140頁)。
 中世における北欧の漁業と魚を保存する新技術によって、ニシンはヨーロッパの食べ物となる。1350年ごろには、ニシンのはらわたを船の上で取って塩漬けにして樽詰めにする手法をあるオランダ人が発見すると、ニシンはヨーロッパ中に輸出された(142頁)。
 大航海時代の後にも、ヨーロッパ人の食生活の基本は穀物、パン、粥、肉であった。オランダやフランスの東インド会社が設立されて、商品の国際取引が集中化されて発展したが、13世紀の終わりに北ヨーロッパとイタリアの港の間の定期的な航海によって商取引が開始されたことの方が重要であった(166〜167頁)。


10月20日

 水野一晴『世界がわかる地理学入門 気候・地形・動植物と人間生活』(筑摩書房(ちくま新書)、2018年)を読む。世界各地の地理学からみた情報を、気候別に示していく。個人的に地理学にはあまり面白みを感じないので、何とか楽しめないかと思って本書を読んだのだが、やはりピンとこなかった。とはいえこれは本書のせいではまったくなく、私自身に地理を楽しむ素養が欠如しているためであろう。
 これはなぜなのかと考えていて、ふと思い当たったのが旅行が好きかどうか。私は旅行が嫌いなのだが、著者のプロフィールを見ると50カ国以上も訪れた経験があるという。もちろん調査や研究のためという理由が大きいのだが、そもそも旅行が嫌いならばこれほど多くの国に出かける気にはならないだろう。
 以下メモ的に。チンパンジーはオスがメスよりも優位であり、群れの中での暴力や殺害、子殺しも行われる。これに対してボノボの社会ではオスとメスの順位がはっきりせず、そうした暴力行為は観察されていない。両者の違いとして、チンパンジーは育児中のメスの単独性が強く、メス同士の相互交渉の頻度が低いのに対して、ボノボはメス同士が協力してオスの暴力に対抗する事例がよく見られる。暴力性の違いは、メス間の集合性の高さと関連しているのかもしれない。この違いの原因として、生息地域の1つであるコンゴ川流域にて、チンパンジーの生息地域にはゴリラも生息していて、食糧としての草木の髄をめぐって競合するのに対して、ボノボはボノボだけで暮らしていて、そうした競合が起こらないことと関わるのかもしれない。競合が起きにくいからこそ平和的に暮らせるのかもしれない(31〜34頁)。
 大気中では上昇気流が生じると雨が降って、下降気流が生じると乾燥する。上空は気圧が低いため、空気が膨張する。そのためのエネルギーを熱からもらうため、その空気の塊の温度は下がる。空気の飽和水蒸気量は気温に比例するため、気温が下がると含みうる水蒸気の量が減る。こうして含まれていた水蒸気の分だけ水粒として露出して、雨となる。下降気流では逆のことが起こる(41頁)。赤道付近は最も熱せられている分だけ上昇気流が起こり、そのあたりではサバナ気候となる。反対に亜熱帯高圧帯のあたりでは、下降気流が生じるため乾燥感想が強くなる(36〜37頁)。なお、砂漠が夜に寒いのも大気中の水分の少なさに由来する。地面や空気に水分があれば昼に太陽熱をゆっくり吸収して、夜間にその熱をゆっくり放出するため、気温差は小さくなる。砂漠は水分が少ないため日中は太陽光があたって高気温となるものの、夜には寒くなってしまう(141頁)。
 欧米の言語における気候はギリシア語の「傾く(klima)」に由来する。地球上の気候は地球の地軸が23.4度「傾く」ことから生じているためである(40頁)。
 アフリカのナミビア南部から南アフリカ共和国にかけての大西洋岸には多肉植物地帯がある。この地域は光合成が活発になるはずの夏の高温期に雨が殆ど降らず、光合成が出来ない冬の低温期に年間の大部分の雨が降る。そのため、冬の降水を蓄えねば夏に光合成が出来ないので、自然に水分を蓄えて太った多肉植物が生育する(132〜133頁)。
 ヨーロッパには4回以上の氷河期があったが、氷河時代には樹木が南下し、間氷期には北上した。しかし、アルプス山脈とピレネー山脈が障害となって多くの樹種が消滅し、ヨーロッパの樹種は激減した。そのためヨーロッパの高等植物は全部合わせても2000種ほどしかない。日本には約5000種があることから見れば、いかに少ないかがわかる(262頁)。


10月30日

 岡田温司『グランドツアー 18世紀イタリアへの旅』(岩波書店(岩波新書)、2010年)>を読む。ポンペイの遺跡が発見された18世紀のころ、ヨーロッパ中の知識人がイタリアへのツアーを行った。この当時のイタリアは古代とルネサンスという輝かしい過去の栄光に比べて、その栄光にすがるしかない体たらくの状態であると見なされていた。そうしたなかで、特にイギリス人は、繁栄に向かって邁進する自分たちだけが、失われた過去の救済者にして後継者たり得ると考えて、イタリアからの考古遺産の持ち帰りもためらいなく行った。
 個人的に、ルネサンス以後のイタリア美術はどのような位置にあるのか少し関心があって読んでみたのだが、美術作品もかなり紹介されていて、そのあたりについて間接的に知ることが出来てよかった。近世ヨーロッパ美術に興味があれば、楽しんで読めると思う。
 以下メモ的に。アルプス山脈は、当時のヨーロッパ人にとって不規則な光景の1つであり、だからこそ一種の心地よい恐怖で心を満たしてくれるピクチャレスクな場所であった。17世紀にローマとナポリで活躍したサルヴァトーレ・ローザのピクチャレスクな風景画は、グランドツアーへの旅心を刺激すると同時にイタリア的な自然への案内役ともなっていた(62〜63頁)。
 当時の風景画には、そっと異教やキリスト教の物語が忍び込まされている。たとえば森のニンフや牧神パーン、シレノスやバッコスがしばしば登場している(77〜78頁)。ただし、18世紀末にはそうした物語もなくなり、さらにピクチャレスクな崇高さも古代やルネサンスの繁栄の跡でもない絵画が描かれるようになる。ローマに滞在したフランスの画家ピエール=アンリ・ド・ヴァランシエンヌの描いた小さな風景画には、ありふれた光景が描かれているが、印象派の約100年も前のものである(86頁)。
 グランドツアーの客たちの肖像画に加えて、「ヴェドゥータ(都市風景画)」もお土産として人気を博していた。そうした絵は、代表的な名所旧跡を1枚の画面に組み合わせる「カプリッチョ(奇想画)」として描かれていた。たとえばパンニーにの作品には、パンテオンとコロセウムやオベリスクなどが一緒に描かれている(183〜184頁)。


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