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2019年9月の見聞録



9月5日

 猪木武徳『戦後世界経済史 自由と平等の視点から』(中央公論新社 2009年)を読む。タイトル通りの内容なのだが、このあたりについて少し知りたくて読んでみた。本書の最初にある著者の着目点のまとめは以下になる。第1に、主要な国々における市場化の動きと公共部門の拡大、あるいは経済の政治化と脱政治化のせめぎ合いである。これは市場化される分野の拡大と公共部門の肥大化を示す。第2にグローバリゼーションの進展である。第3に所得や富の分配の偏りである。大富豪への富の集中が生じていたとしても、一人あたりの所得について国家間の格差が拡大しているとは結論できない。第4に世界的な経済問題を裁定する機構が十分に機能を果たし得てはいない点である。第5に市場デザインの形成の成否である。
 最後の点については特に、戦後経済の大きな対立軸としての資本主義的な市場経済と社会主義に関わると思う。この点について、市場経済では政府が資源の利用についての条件は定めても、その利用法については干渉しないのに対して、社会主義では特定の集団や個人の判断によって計画がなされる。結果として個々の利害調整が必要となり、経済問題が政治問題となってしまうという欠陥を有しているとしている(189〜190頁)。第三世界の貧困と悲惨の原因も、経済の政治化と悪しき政治ゆえに、経済的進歩を阻んでいることにあるとしている。なお、現在の第三世界は、専制政治・抑圧的な伝統文化・富の不平等が存在した18世紀のヨーロッパに通じるとも見なしている(216頁)。ごく当たり前すぎる感想であるものの、市場経済が勝利したというよりは社会主義の方により大きな問題があったために崩壊したという気がする。
 以下メモ的に。第2に世界大戦中にアメリカ経済はかなり高い成長率を示した。実質GNPについて、1938年時点を100とすれば1948年は165である。イギリスは106、フランスは100、ベルギーは115、イタリアは92、日本は63であることからもその高さが見て取れる。なお、全世界に占める総生産は大戦終結時は50%だったが、20世紀末は25%となる(101頁)。
 アメリカが鉄工業において日本に遅れをとった理由として、新技術導入の問題がある。1950年代に開発された酸素上吹転炉法と連続鋳造法に関して、アメリカでは従来の旧技術を使い続けた。すでに旧技術に基づく平炉建設のために巨額の投資をしてしまっており、技術転換が出来なかったのである。日本はこの転換をすでに行っており、1977年の段階で日本は年間200万トンの生産能力を持つ溶鉱炉を25基保持していたが、アメリカはゼロであった(103〜104頁)。
 大躍進時の中国では鉄鋼生産を進展させるために、中国全土に小さな溶鉱炉が建てられた。結果として受容のない劣悪な品質の工業製品を山のごとく生み出した。農業から2割の労働力が非農業へと転出した結果、1959〜61年には1600〜2700万人が餓死した(159〜160頁)。
 一人あたりの食糧生産に関して、アフリカは1960年代以降マイナスの成長率を示した。これには技術の後れや環境の悪化も理由としてあったが、何よりも急激な人口増加が要因となった。加えて、工業化に熱心なあまり、農業への投資を怠ったという事情もある。実際に、途上国と先進国の生産性格差は1960年には13倍、1980年では26倍、2000年には40倍近くへと達している(242〜244頁)。平野克己『経済大陸アフリカ 資源、食糧問題から開発政策まで』をみると21世紀に入り成長を遂げているようだが、農業部門では伸び悩んでいることが安定性を欠く原因になってしまっているのかもしれない。
 アジアの農業は狭い土地に多くの労働力が投入されたがゆえに、収穫の逓減という問題を抱えていた。これは人口の多い中国でもインドでも同様である。結果として農民は所得レベルが低下し、金融業者からの借り入れを経て、借金返済のために土地を手放さざるを得なくなる。最終的には多くが大都市のスラムへと移動するようになる(236頁)。


9月15日

 神田千里『土一揆の時代』(吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)、2004年)を読む。室町・戦国時代に頻発した土一揆は、搾取されていた村民の抵抗運動ではなく、略奪を伴った要求を求める行為であった。たとえば京都に来襲した土一揆の多くは、村ごとに起こしたものよりも、様々な村か個々に土一揆の大将のもとに集まっていると窺わせる事例の方が多い。幕府の取り締まり命令も、村の中で土一揆の一味を糾明している。村住民の結束は土一揆の蜂起よりも、取り締まりに力を発揮している。加えて、武家の被官が土一揆に味方して略奪行為を行う場合も珍しくなかった。土一揆は幕府に対する訴訟を旗印に行動しており、訴訟を掲げて寺院を占拠する行為もしばしば見られ、寺院の持つ権威の利用も一般的であった。さらには、土一揆の参加者が戦国期の足軽に加わることがしばしばあったとする。その延長線上として、16世紀になると武士を動員するために徳政の利益を与える戦国大名が珍しくなかった。敵方に付いた債権者に対する味方の者の債務を帳消しにする場合もあった。やがて16世紀後期になると、一揆など侍のすることなどではないという観念が広まり、さらには戦国大名の出現により大多数の武士が大名家中に組織されると、戦争のたびに一揆を結成する必要がなくなり、村民や雑兵のみに限定されるようになったとする。こうしたなかで、いずれかの大名について利を得ようとする村民が村ぐるみでの蜂起が、徳政を求める土一揆よりも盛んに起こるようになっていく。
 必要があって読んだのだが、土一揆を戦国時代につなげる見方についてコンパクトにまとまっていてわかりやすい。
 以下メモ的に。島原の乱は土一揆としての性格が強い。指導者が侍身分の浪人たちであり、彼らが百姓身分の村民を動員して起こしているからである(186頁)。さらに、幕府への訴訟を求めるという点でも土一揆に近い(190頁)。
 百姓一揆では、棒・鎌・斧を獲物として用いたが、これは殺傷目的と言うよりは、村民たちの社会的立場を象徴するものであった。ここには中世の土一揆や一揆とは異なる行動様式が見られ、中世との決別が窺える(204頁)。


9月25日

 森下章司『古墳の古代史 東アジアのなかの日本』(筑摩書房(ちくま新書)、2016年)を読む。前方後円墳の出現は、近年では3世紀中頃から後半と見なされている。これには、中国の動向が関わっている可能性がある。前1世紀に前漢の拡大とともに中国文化が東アジア世界に大きな影響を与えていくが、大きな墳丘を備えた墳墓を築く風習も伝わる。なお、このころの銅鏡は、楽浪郡を通じて中国から入手しており、中国に近い墳墓ほどその埋葬数は多い。
 だが中国では、後漢の滅亡後の三国時代の分裂時期以後には、大きな墳墓は造られなくなる。逆に、この当時に朝鮮半島と日本列島とでそれぞれ成立した王権は、日本の前方後円墳など中国とは異なる巨大な墳丘と多くの副葬品を持つ王墓をつくっていく。中国王朝と同じような巨大な墳墓は王朝の権威を慮って建造できなかったが、中国王朝の秩序が緩むと巨大墓が建造された、とする。
 ただし、朝鮮半島と日本では性格が異なっていた。朝鮮半島では、中国と同じく社会や一族の維持のために祖先を祀り続けるという役割が重視される。墓の周囲を周壁や濠で囲んで建築物を設けて、祖霊が暮らすと邸宅という意識のもとで墓を造った。ここにあるのは、古代中国における思想である。中国では、人を構成する気を陰の「魄(肉体)」陽の「魂(精神)」にわけ、それぞれ地下と地上・天に分かれるとしていたので、遺体は地下に埋める。「魂(精神)」は地上の施設で生活すると共に、廟に現れて、子孫の儀礼を受けて、彼らを見守る役割を果たすした。これに対して日本列島では、墳墓は聖域として辟邪や清めなど独自の信仰や身体感覚が重んじられた。なお、3世紀に入ると副葬品の器物を多く副葬するのは畿内となるが、これは畿内を中心とした政権が地方勢力に与えて秩序の確認を行うという性格に由来する。それまでのような、入手先との距離の近さよりも現地の権力との近さによって数量が決まっていくようになる。
 必要があって読んだのだが、古墳に関してコンパクトにまとまっており、なおかつ東アジアという視点から読み解く説明は十分な説得力を持っていると思う。なお、前方後円墳の形は、弥生時代の円丘墓に設けられた陸橋が起源であり、それが外と切り離されて橋の機能を失う中で大型化して前方部になった、との説が有力である(216頁)、とされているが、寺沢薫『王権誕生(日本の歴史 第2巻)』(講談社、2000年(リンクは講談社学術文庫版))によれば、『晋書』武帝紀に266年に倭人が来たとの記録があり、同じときに円丘方丘を南北部に併せ、冬至と夏至の祭りを二郊に合わす、と記されている点から、この円丘と方丘での儀式が前方後円墳に影響を与えた可能性がある、とされている(同書、266頁)。中国との関わりを重んじる本書の立場からすれば、この『晋書』における言及はかなり重要であり、陸橋が起源という説が有力とも言い切れない気がする。ちなみに、ごく素朴でおそらくありきたりな感想なのだが、死者の生活空間を設けるという点で、中国の墓は古代エジプトに似ていると感じた。
 以下メモ的に。楽浪郡に近い朝鮮半島中部よりも、南東部や日本の九州北部で間の器物が副葬品に多用されたのは、離れた地域ほど器物の特殊な意義が増したためであろう(103頁)。
 畿内は、瀬戸内海から淀川・大和川へ通じる水路、近江を経由して北陸や丹後・山陰地方や東山道などの交易の結節点であった。だからこそそこに大きな権力が生まれていった(122-23頁)。
 曹操は遺例で薄葬を命じ、葬式や副葬、副葬品は簡素にせよと言い残し、曹丕も陵園などの建造を禁じている(148頁)。


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