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2018年7月の見聞録



7月2日

 小林登志子『文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ』中央公論新社(中公新書)、2015年)を読む。メソポタミア文明の事例を中心に据えながら、日本やさらにはそれ以外の文明との比較しつつ、道路、都市などの建造物、カレンダーや貨幣、法律にはじまる制度、そして宗教や文学などについて紹介していく。著者の本は『シュメル 人類最古の文明』>や『シュメル神話の世界 粘土板に刻まれた最古のロマン』をこれまでに読んだことがあるのだが、同じテーマでありつつも内容を変えているのは素直にすごいなと思う。タイトルからも分かるとおり、本書は一番広いテーマを扱っているが、直接的なつながりがあるとは言えない事例も見られるようにも感じた。とはいえ、そうしたことをあまり意識しなければ、様々なテーマについて面白く読み進められると思う。
 正し気になったのが「はじめに」の末尾。「文明誕生時の社会を紹介することが、現代の日本社会を見つめる縁になると思う」(iv頁)とあるが、本当に大きな意味でそのように活用できるならば、実際に積極的に行うべきであろう。人文学は役に立たないという反論に対して、近頃はこうした言説が用いられることが多いような気がする。しかし、実際に役立たせるのは難しいのだから、結局のところ人文学に対する評価をさらに低くするだけにすぎないのではなかろうか。時には役立つこともあるような面白い読み物を提供するという人文学の本来の役割を十分に本書はこなしているのだから、こうしたことを無理に書かなくてもよい気がする
 以下メモ的に。『ハンムラビ法典』第188・189条には、職人が養子に仕事を教え込まないと養子縁組を破棄しても仕方がなかったと記されている。第274条には第九や印章彫師などの1日あたりの労賃が明記されている。それ以前のシュメル法第20条が書かれた文書(前2050〜前1800年ごろ)の断片からは医者の治療医費が定められていたと判明している(38頁)。
 エミで出土した前2350年ごろから前2335年ごろまでの行政経済文書には、「クルを定められた人」と称される者たちが現れる。クルとは一定の耕地を支給された人々で、賦役と軍役の義務を負う家産体制下における王宮隷属民であった。ただし得る第3王朝時代には、大麦でも支給されるようになり、耕地を持たない隷属民もいた。これは、私的経済の発展によって、家産体制の維持が困難になったことを意味する(43〜44頁)。
 前2400年ごろのラガシュ市のエンメテナ王は神殿完成時に奴隷解放を行っている。ギリシア・ローマのような大規模な奴隷市場はなかったものの、奴隷そのものは存在していたことは現時点で最古の法典である『ウルナンム法典』からも確認できる。シュメル社会では負債によって自由人が債務奴隷に落ちることが多く、自由人と奴隷との間が流動的であった(46頁)。なお、同じラガシュ市のウルイニムギナ王は市民たちを助けた事例について明記した後に、ニンギルス神と契約を結んだ、と記している。神と人の契約思想は『旧約聖書』以前にすでに存在していたと分かる(48頁)。
 シュメルでは7日目ごとに月を祀っており、これが7日ごとに区切る1週間の起源である。これが七曜制となるのは、ユダヤ教の安息日と世界創造の物語に加えて、カルディアの占星術などが結びついたためである(67頁)。なお、ウル第3王朝は統一国家であったが暦の統一はできなかった。たとえば、「収穫の月」はラガシュでは第11月、ウンマとウルでは第1月であった。「播種の月」はラガシュでは第4月、ウンマでは第6月、ウルでは第7月であった。これは1年の始まりが都市ごとに異なるためである(69〜69頁)。
 アラム語は皮革やパピルスに書かれたので、アラム語を記す書記は「皮に書く書記」と呼ばれた(141頁)。
 『クルアーン』においてやられたらやり返せという記述は「食卓の章」第45節にある。ただしその後には「これを自ら棄権するものには、それは贖罪となる。神が下したもうたものによって裁かない者どもこそ不義の徒である」と記されており、報復しないことが善行とされている(166頁)。
 『エンキ神とニンマー女神』には、ビールをしたたかに飲んだニンマー女神が障碍者を創造した際に、エンキ神が彼らにも生計を立てられるように従者や演奏者の仕事を与えた、とある。ウルのスタンダードにも王の側に障碍者と思しき小さな人物が描かれているが、王家に仕えたこうした障碍者の存在理由を説明するためにこうした神話が書かれたのであろう(196〜197頁)。
 定礎は西洋の習慣であり、ビル建設の技術とともに日本へと伝わった。定礎埋蔵物は7000年前のウバイド文化時代にもすでに見られる(252〜253頁)。
 ラガシュ市のウルイニムギナ王は自都市を守りきれなかったときに、敵であるウンマ市のルガルザゲシ王と王の個人神ニサバ女神に責任がある、との碑文を残している(265〜266頁)。これはこの当時に個人神が存在していたことを示してもいる。なお、偶像崇拝を否定したヘブライ人も「創世記」に「ラケルは父の家の守り神の像を盗んだ」(第31章第19節)とあるように、家に守護神を祀っていた(270頁)。
 前2000年紀初頭においてウマに牽引させる戦車はまだ本格化していなかった。むしろウマは威信財として贈り物外交に用いられていた(282〜283頁)。


7月12日

 下田淳『「棲み分け」の世界史 欧米はなぜ覇権を握ったのか』NHK出版(NHKブックス)、2014年)を読む。前著である下田淳『ヨーロッパ文明の正体 何が資本主義を駆動させたか』のメインテーマである「諸分野での棲み分けが近代ヨーロッパの勃興につながった」とする説を補強するための続編。なのだが、基本的には前著を読めば良いように感じた。前著に対する批判に応えようとしたと思うのだが、個人的には前著以上のものが得られるようには感じなかった。むしろ棲み分け理論にあてはまらないようなものがかえって浮き彫りになったようにも感じた。たとえば、能動的な棲み分けに対して理由や原因を追及できない自主的棲み分けがあるというのは、説明から逃げたととれなくもない。ただし、説明できないようなものがあっても仕方がないとは思う。むしろ何か特定の理論が主要な要因であっても、それだけですべての事象を説明できるわけではない、というだけのことであろう。著者が不満を述べるジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』は、地理的な要因を重視しているが、それだけで説明できるとはこの本の作者も考えてはいまい。著者ももちろんそれは分かっているのだろうが、自説に対する批判にやっきになって応えようとすべく、自説のみを主張してしまったように感じた。
 ちなみに、「現在の大人、特にエリート・権力者と言われる政治家、官僚、起業家、科学者、ジャーナリスト、マスコミなどにはあまり期待できないと伝えたい」(253頁)とあるが、自分自身もそちらに属するのではなかろうか。それとも自分は国立大学というエリートのシステムに乗っているが、そうではないことをしているという事例が、エリート社会の批判をしている以外に具体的に何かあるのだろうか。もしあれば、いやみではなく是非とも教えていただきたい。
 以下、メモ的に。近世フランスの官職は社会的地位の称号のようなものであり、売買・譲渡・相続の対象となった。これを手に入れれば貴族にも成り上がれた。フランス王権は財政難のため官職をブルジョワに売りつけて、1789年までにその対象となった官職数は七万に達したという(60頁、なおこの部分は、福井憲彦編『フランス史』(山川出版社(新版世界各国史)、2001年)ロジャー・プライス(河野肇訳)『フランスの歴史』創土社(ケンブリッジ版世界各国史)、2008年)を出典としているそうである)。イギリスでもジェントリの収入は地代が主であり、官僚は名誉職であった。このように近世ヨーロッパでは、官僚制がシステム化されていたわけではなかった(60頁)。


7月22日

 津野海太郎『読書と日本人』(岩波書店(岩波新書)、2016年)を読む。読書と日本人の関わりについて古代から現代までを論じたもの。読書について、色々な面白い状況が提示されているので、読書論に興味があれば一読して損はない。
 ただし、現代の若者の読書について、ややどっちつかずの態度が見えるような気がする。「<かたい本>がいま体験しているこうした状況の悲惨さは、そのむかし、この国で<軟らかい本>がなめさせられていた苦い思いを直ちに連想させます」(233頁)とある。その一方で著者も指摘するように(257頁)、毎日新聞による読書調査によれば、若者よりお年配の人間の方が本を読まなくなっている(こうした状況は永江朗『本の現場 本はどう生まれ、だれに読まれているか』でも指摘されている)。さらに、「インテリがインテリであることの古いしばりから、そして大衆が大衆であることの、おなじように古いしばりから、少しだけ自由になったのです」(264〜265頁)とも書いている。となれば、堅い本の中でどれがどんな風に面白いかを紹介できなかったインテリの怠慢ではなかろうか、と自戒を込めつつ考えてしまった。
 以下メモ的に。菅原孝標女『更級日記』には「誰にも邪魔されず、几帳の中にこもりっきりで、一冊一冊取り出して読んでゆく心地」といった内容の文章がある(24頁)。古い時代の読書は音読であり、明治以後に黙読へと変化していったというのが一般的な見方だと思うが(本書でも言及している前田愛「音読から黙読へ」『近代読者の成立』(岩波書店(岩波同時代文庫))、それを継承しつつも、古い時代から黙読も存在していたという証拠とも言える。黙読は個人という概念の誕生にもつながると思うが、高取正男『日本的思考の原型 民俗学の視角』(講談社現代新書、1975年)にて述べられた、個々人の箸と茶碗の存在から日本における個人の概念の存在を訴えたことともつながってくるように思える。ただし、西郷信綱『源氏物語を読むために』平凡社(平凡社ライブラリー)、2005年(原著は1983年)(未読))からは、ひとりで書く女たちの出現がひとりで読む女の出現をも促した、と読み取れるようでもある(8〜11頁)。著者も言うように、音読か黙読かではなく、黙読の中に音読が登場して併存していったのであろう。
 菅原道真「書斎記」には、父親から受け取った方一丈の小さな書斎での勉強法として、本を読みながら重要と思った部分を短冊状の詩編に書き留めていく、という方法を述べている。10世紀以前とその後の写本の装丁の多くは巻子本であったため参照がしにくかったためである(16頁)。さらに写本であるため数も少なく、借りる場合も多かったため、返却前に重要な部分だけを抜き書きしていた(18頁)。
 中山茂『パラダイムと科学革命の歴史』(講談社(講談社学術文庫)、2013年(未読))によれば、ヨーロッパの学問では論争が重んじられたが、中国では記録の集積が優先されたという。中国では他人を説得する弁論力ではなく、先行者の言動を音読して頭に叩き込み必要に応じて思い出す記憶力が重視されたのはそのためであった(20頁)。
 中世に入って、公私を問わずひらがなが文書で増えるにつれて、文字から品格が失われていき読みにくくなっていく。これは、文字に対する畏敬の念が薄れたためと考えられる(52〜53頁)。
 矢田部英正『日本人の坐り方』によれば、正座こそが正しい座り方という考えが生まれたのは、徳川幕府が制定した武家儀礼によってであり、一般にまで広まったのは江戸中期であった。それ以前の図像には、歌会や茶会ですら正座をしている人物は極めて少ないという。これを踏まえれば、『徒然草』の「のどやかなるさまして」机の上の本を見ているというのは、正座ではなかったであろう(70〜71頁)。
 普通の庶民は寺子屋以上の勉強は私塾に通わねばならず、時間と金の余裕が大帝はなかった。しかし渓百年という浪人儒者が『経典余師』という、上段にひらがなの読み下し文を、下段に漢字の本文を記した自主学習本を1786年に出版すると、天明から寛政に掛けて同様の自主学習本が続々と刊行された(76〜77頁)。
 前田愛「明治初年の読者層」『近代読者の成立』(岩波書店(岩波同時代文庫))によれば、新聞に掲載された連載読み物が庶民の間での「大量の活字を消化する習慣を体得する」きっかけとなった。さらに、その音読を周りで聴く人も当初は存在していた(94〜95頁)。おなじく指摘されているのが、二葉亭四迷が翻訳したツルゲーネフ「あひびき」の影響である。この作品は、作者の記した文字が声になって読者に語りかけてくるように、当時の読者は感じた。これは作者の声が自分だけに響いている感じであり、共同体の読書から個人の読書への変換を担った(102頁)。
 昭和初期の円本ブームは1930年を先に急速に勢いを失った。ただし、永嶺重敏「円本ブームと読者」『モダン都市の読書空間』(日本エディタースクール出版部、1999年(未読))によれば、売れ残った在庫が二次市場に流れてたたき売られることで、結果として経済的に余裕のない階層の人も容易に変えるようになった。こうしてブームの終焉が日常的に読書する習慣の大衆規模での始まりであった(134〜135頁)。
 柴野京子『書棚と平台 出版流通というメディア』(弘文堂、2009年(未読))によれば、背表紙を見せて蔵書を縦置きにする西洋式の本棚が一般家庭にまで普及したのは、電灯と同じ大正期だったという(149頁)。
 1950年に図書館法が定められるまで公共図書館は必ずしも無料だったわけではない。ただし東京には、戦前にも夜間に開かれ館外貸し出しを無料で行う図書館が開かれていた(162頁)。


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