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2018年5月の見聞録



5月3日

 村上由美子『武器としての人口減社会 国際比較統計でわかる日本の強さ』光文社(光文社新書)、2016年)を読む。OECDの統計資料に基づけば、日本人は労働生産性、睡眠時間、女性活躍推進、起業家精神などで良くない数値となっている。しかし日本は、OECDによる生徒の学習到達度調査で好成績を収めている点で、人材のストックはあるので、それを有効に活用していない点に問題があるとする。実際に、OECDによる「いま就いている仕事で必要と考えられる学歴よりも自分の最終学歴の方が高い」と感じている労働者の割合は日本が最も高く30%を超えている(56頁)。
 せっかくの高等教育での知識が日本における転職や起業の少なさによって活かされておらず、アメリカがその点で先をいっているのも間違いない。ただしアメリカには失敗してしまっている者も多いとは思う。何も、著者の主張を批判したいのではなくて、アメリカのメリットも日本のメリットもちょっとした状況の変化でデメリットに変わったり、または不利だった国が有利になるということにすぎない。本書では、中小企業に対する政府の借入保証が日本ではGDP費で5.68%であり、1%を切る他の国々(たとえばアメリカは0.14%)よりも高い点を、生産性の低い起業が市場から退出せず産業の再編成が遅れるとしている(166〜168頁)。しかしながら、ベンチャー企業以外の中小企業(たとえば町工場レベルの生産業)のなかにもイノベーションを行ってい事例が日本には少なからずあるのは、よく指摘されている。現在の事例としては、関満博『地域を豊かにする働き方 被災地復興から見えてきたこと』にも紹介されている。
 問題となるのは、そうした先を読むことが、個人の成功例に留めずに全体に及ぼすための具体的な方策を考えるのが難しいということなのであろう。吉川洋『人口と日本経済 長寿、イノベーション、経済成長』にも書いたが、具体案を出すのはやはり難しいものなのだと思う。


5月13日

 松尾豊『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』(KADOKAWA(角川EPUB選書)、2015年)を読む。これまでの人工知能の歴史をまとめた上で、現在の人工知能がそれまでにない画期的な進展をしている現状を説明する。これまでの人工知能は「世界からどの特徴に注目して情報を取り出すべきか」に関して、人間の手を借りねばならなかった。これに対して現在の人工知能はディープラーニングによって、注目すべき情報を自ら選べるようになっている。たとえばいかなる手書きの「3」であってもそれを「3」であると認識させるためには、ある手書きの「3」の画像を入力すると同時に正解としても同じものを示す。そうすると、正解である特徴を最小限で示せるように圧縮した特徴をまとめさせる。そして、同じような作業をその特徴に関して行うということを繰り返す。これによって、典型的な「3」の概念をつかませたうえで、それに概念の名前を与えれば少ないサンプル数での学習が可能となる。Googleはこれによって人工知能にネコの顔を認識させるにまで至った。ただし、これでもまだ教師役の人間が必要となる。これに対して、少しだけノイズを加えたデータを与えて同じ作業を行えば、絶対に間違いではない特徴を見つけられるようになっていく。これは、データをもとに何を特徴表現とすべきかを自動的に獲得できる可能性を示している。これが進めば言語理解と自動翻訳ができて、さらには知識の獲得すら自らできるようになりうる。
 ただし、人工知能は人間と同じような考え方をするわけではない。人間が特徴として捉える物とはまったく異なった特徴をつかむかもしれない。たとえば赤外線や紫外線、超音波などである。これを読んだときに思ったのは、やはり『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』(リンクはブルーレイディスク)のタチコマであった。AIがゴーストを獲得できるかというのが1つのテーマであったが、人間とはまったく違った道筋を通りつつも、ゴーストを獲得しうるというのは実際には難しいのだろうな、と思う。それはともかくとして、さらに終章を読めば、今後は人間の仕事の大部分に人工知能が活用されていくのは間違いないと思われる。それを活用するのが大事であるとは言え、これまでとは異なったレベルで仕事を奪われて収入がなくなる、という問題に対処する必要がある気がする。人工知能と機械に仕事を任せて、人間は楽に暮らせるようになったとすれば、それはまったく働く気がないというレベルのニートと実質的には変わらないようにも感じる。そうなったときどのように暮らすのかがこれからは問われるのかもしれない。
 以下メモ的に。著者は2002年の研究費の審査での面接にて、「人工知能研究者は、いつもそうやって嘘をつく」と言われたという。このころは人工知能の研究がやや下火になっていた時代だった(4頁)。ちなみに、この審査は具体的に何の審査か分からないのだが、東大の人間でもこのようなことを言われるのは少し驚きではある(もしかすると東大内の研究費かもしれないが)。
 アメリカのAP通信社は、企業の決算報告についての記事を書かせる人工知能を2014年に導入した。150〜300字ほどの記事のようだが、人間の記者が書いていたときは四半期あたり300本の配信だったが、同じ期間で4400本の記事を配信できるそうである(25頁)。
 1964年に開発されたELIZAという対話システムは、コンピュータと人がテキストデータをやりとりして対話しているかにように見えるシステムであった。その言葉は人間の言葉について聞き返したりする単純なものであったが、人間が「単純なルールで記述された言葉でも、そこに知性があると感じてしまうらしい」(86頁)。これを見て思い出したのは、ルイーズ・バレット『野性の知能 裸の脳から、身体・環境とのつながりへ』であった。あちらの項では触れていないが、先に述べたタチコマのことも、この本のテーマに関わる気がする。


5月23日

 岡田明子、小林登志子『シュメル神話の世界 粘土板に刻まれた最古のロマン』(中央公論新社(中公新書)、 2008年)を読む。様々なシュメル神話の物語を紹介しつつ、その解説や歴史的な背景について説明していく。神話そのものよりもそれを生んだ歴史的な背景により興味があるので、個人的には同じ著者による『シュメル 人類最古の文明』の方が楽しめたのだが、こちらもそれなりに楽しめた。
 以下メモ的に。シュメルという呼称はアッカド語の他称であり、自称は「キエンギ」である。「キ」は大地、「エン」は主人の意味で、「ギ」は「葦」の絵文字から発達した楔形文字である。葦が豊富であるとともに泥土が多かった。そのため、葦を割いて筵に編み、泥を固めて煉瓦を作り建築物の原材料とした(3〜4頁)。
 日本神話では人間創造に関する記述はない。これは、神話に必要とされたのがなぜ天皇が日本を支配するのかという問いかけに答えるためだったからである。これに対してシュメル神話では、神々の労苦を取り除き身代わりとして働くために創造されたのが人間であった。シュメル肥沃な土壌であっても農作業は楽ではない。農民たちは辛い作業に際して、神々の代わりに働いていると納得させたのだろう(36〜37頁)。なお、シュメル神話では人間は土から生まれたとされたが、『旧約聖書』でも同様である(38頁)。
 牧畜神であるドゥムジとその姉であるブドウの木の女神であるゲシュチンアンナは半年交替で冥界に留まらされた。これは牧畜とブドウの栽培の年間のサイクルに死と復活の物語を掛け合わせたとされる(175頁)。


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