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2018年6月の見聞録



6月2日

 矢田部英正『日本人の坐り方』(集英社(集英社新書)、2011年)を読む。江戸以前に、いわゆる正座は決して正式な座り方ではなかった。古代や中世の地位の高い人間は、可能な限り膝を床に広げて、自分の存在をより大きく見せることを好んでおり、だからこそ正座を好まなかった。江戸時代になると、幕藩体制を守るべく分をわきまえる端坐が浸透していく。それでも正座のみが正式な座り方ではなかった。たとえば将軍家の茶道指南をしていた片桐石州『石州三百箇条』には、茶の湯の正式な座り方が、右の足首を尻の下に畳んで左の膝を立てて座る、と記されている(28〜29頁)。実際に、貴人であっても正座をしている図は少ない。有名な千利休の肖像も、着物の裾から足の先がわずかにのぞいている。女性も立て膝で座っている。たとえば、鈴木春信『青楼美人合』では文机に膝をつき右膝を横に立てた姿で描かれている(51〜52頁)。さらに明治以後の写真をみても、立て膝の姿勢で畳や板の間で仕事をしている。加えて、目上の前の人の前にに控える際にヤンキー座りをしている幕末の写真も残っている(64〜66頁)。これが明治以後には多きく変わる。明治期の礼法教科書はいずれも正座以外の座り方を教えていない(103頁)。やがて大正期になると、それまでにはそもそもなかった「正座」という言葉が教科書でも用いられるようになる。こうして学校で習った正しい座り方が正座として浸透していくことになった。
 歴史学の書物の楽しみの1つとして、昔からの伝統と思われているものが実は新しいものであり、古くはまったく違った価値観があった事実に気付かされる、というのがあると思うが、本書は正座を通じてその醍醐味を味合わせてくれる。一般的に英雄が活躍するような歴史読み物の方が人気はあるだろうが、そうした登場人物をもっと使えば、さらにより関心を持たれる書物になったのではなかろうか。とはいえ、そうした余計なお世話とは関係なく、社会史の文献として十分に面白いので、興味があれば読んで損はない。
 以下メモ的に。端座が江戸時代に広まっていったことを示す物証として、着物の身幅の減少が挙げられる。江戸初期よりも前の着物は丈が短く、身幅が広く、袖幅が狭い。これが、身幅が狭くなっていき、足を横に広げにくくなっていく(86〜88頁)。
 夏目漱石の小説にさえ、「正座」という言葉は出てこない。『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』では、「かしこまって」や「端座」という言葉が使われている(111〜112頁)。


6月12日

 森本あんり『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮社(新潮選書) 2015年を読む。反知性主義とは、学問や知性を軽蔑して、知性による客観的な検証や公共の場での対話を拒否し、感情を煽るような言動で評価を得ようとする否定的な態度と見なされがちである。ただし、もともとの言葉の発祥の地であるアメリカでの意味はやや異なる。この言葉が提唱されたのはホフスタッター『アメリカの反知性主義』(みすず書房、2003年(原著は1963年)(未読))においてであるが、そもそもは学者のような権威を安易に信じるのではなく、自分自身で考えたことを拠り所にしようという積極的な意味合いで使われている。本書は、その思想の背後にアメリカのキリスト教があることを歴史的に説明していく。アメリカはプロテスタントの移住者が多かったが、プロテスタントは自ら聖書を読解することが求められたので、必然的に学問的な教養を身に付けている者が多かった。牧師も読解した上でそこから得た考えを聴き手に分かるようなメッセージに組み立てる必要があったので、高度な学問的知識が必要とされた。ただし、その話は難解な場合も珍しくなかった。こうしたなかで登場したのが巡回説教師である。一般の牧師は毎週同じ相手に語るために内容を変えねばならない。これに対して巡回説教師は同じ内容を話すためにどんどんと洗練されていき、人気を得るようになっていく。既存の牧師たちはこれを批判したが、逆に牧師たちはイエスが批判した学者パリサイ人の類であり、自分たち巡回説教師こそが福音の心理を説いていると応酬した。これが反知性主義の発端である。いかなる権威をも恐れずに自分で判断するという精神は、アメリカ独立と民主主義の発展を促した。
 これ以後にも歴史的な様々な事例が挙がっているが、アメリカにおけるTVエヴァンジェリストは、こうした流れから見れば当然だと分かる。さらにいえば経済的な実用主義もアメリカンドリームも、ポジティヴな考え方をしようという意味での反知性主義の延長線上に位置づけられると分かる。アメリカ社会の精神史の一端がよくわかると言えるのではなかろうか。ちなみに、日本においては強力な知性主義がなかったからこそ反知性主義も生まれなかった、としているが(272頁)、これは喜ばしいことなのであろうか。反知性主義を踏まえて知性主義のあり方を説くことは、私自身も含めた研究者に必要とされているような気もする。その点について自分自身が傍観者であるかのようにいうべきではないように思う、と自戒を込めて考えた。
 以下メモ的に。もともとキリスト教において契約は、神の一方的で無条件の恵みを強調するものであった。しかしピューリタンを通じてアメリカに伝播した契約神学は、神と人間がお互いに履行すべき義務を負うという側面を強調するようになった。いわば対等なギブアンドテイクの互恵関係である(23頁)。とあるのだが、加藤隆『一神教の誕生 ユダヤ教からキリスト教へ』講談社(講談社現代新書)、2002年)には、ユダヤ教もギブアンドテイクの契約関係と書かれていた気がする。
 ハーバード、イェール、プリンストンの3つの大学はもともと牧師養成を第一の目的として設立された。ハーバードは特に早い設立であり、プリマスへの入植から16年後の1636年である。これは、現在の牧師が亡くなったときのために新たな牧師を養成するという目的のためだった(34〜35頁)。ただしハーバードは神学に関する授業がさほどあったわけではない。むしろリベラルアーツの方がメインであった。万人司祭説に基づき、人文主義的な聖書解釈をジェントルマンとして身に付けるべきと見なされていたためである(40〜43頁)。
 建国前のアメリカでは礼拝は最低でも三時間は続いた。祈りは独自の言葉で行われることもあるため一時間ほど続くことも珍しくなかった。さらに説教も二時間ほど続くのが当たり前であった。ただし、ラテン語やギリシア語の多用や教父からの引用は推奨されず、聖書の内容を平明かつ実践的に語ることが重んじられた。家に帰れば家長から説教の内容に問われるのが常であった(50〜51頁)。


6月22日

 秋山聰『聖遺物崇敬の心性史 西洋中世の聖性と造形』(講談社(講談社選書メチエ)、2009年)を読む。中世から近世のヨーロッパで盛んに行われた聖遺物崇敬について、豊富な図像資料を用いながら述べていく。本書を読んだのは、聖遺物崇敬は多神教時代の名残ではないのかということを個人的に詳しく知りたかったためであった。残念ながらその点に関しては、そうしたことは広く認められているとさらりと述べられているに留まっていたのだが、図像資料とともに興味深い箇所がいくつもあった。やや専門的すぎるところもあるとは思うが、西洋史や美術に興味があれば私のようにつまみ食い的に読んでも十分に楽しめるだろう。
 以下メモ的に。聖遺物の聖性を保証するのは、聖人の体に生前から宿り、死後も遺体に残る特別な力であった。これはパワーやエネルギーを意味するギリシア語のdynamisやラテン語のvirtusにあたり、古代ギリシアの英雄崇拝にてすでに用いられていた(16〜17頁)。ただし、ただしあくまでも神の力に与って奇跡を起こすものと見なされていた。聖人や聖遺物は神が力を地上で行使するための媒体であった。神は高次の存在であるがゆえに、媒体たる聖人や聖遺物を解して、神とのコミュニケーションを図るとみなされた(17頁)。
 古代ギリシアにおいては英雄の遺体には何らかの霊力が備わっていると信じられ、その墓が礼拝の対象であった。英雄の墓はしばしば街の中心部にあり、外部からの移葬も試みられた。アテナイのキモンがテセウスの遺体を、スパルタがオレステスの遺骨を遷したことはそうした事例である(29頁)。
 聖書にも聖遺物崇敬の原型が見られる。たとえば『旧約聖書』では、預言者エリヤが水面にたたきつけて海面を左右に分けたという外套は、それを譲り受けた預言者エリシャも同じことをした。エリシャの遺体に触れて甦った人物もいる。『新約聖書』ではイエスの衣に触れた女性の病が快癒しており、ペテロの影やパウロの手ぬぐいと前掛けも病人を治している(30頁)。
 一人の聖人の遺体はしばしば分割されて多くの教会に分散したが、それらの断片は様々な場所で奇跡を起こし得た。これは、現代のATMがどこでも自分の口座の預金を下ろせるのと近いものがある(37頁)。
 中世半ばには聖遺物の過度な運用を批判する者も現れた。その一方で、聖遺物を収めるシュラインを豪奢に飾り立てるように主張する者もいた。無数の貴石や金銀は、意識を日常から解き放ち高位な観想へと導くというのがその根拠であった(96頁)。
 多くの寄進者は、シュラインに銘文を施して自分の記憶を後世に残そうとした。15世紀以降は、「作る」という動詞は制作者のみに用いられるが、それ以前には注文者について用いられた。このあたりは、山本義隆『一六世紀文化革命』に関わってくるのかもしれない。
 初期キリスト教時代の聖地には「エウロギア」と呼ばれる巡礼記念品が大量に生産・販売されていた。これには、聖遺物に接触させた水や油、聖人ゆかりの場所からの石や砂もあった(174頁)。これは、たとえばサンチャゴ・デ・コンポステラの巡礼記念品であるホタテ貝の貝殻のように中世に受け継がれていく(176頁)。


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