前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2018年8月の見聞録



8月1日

 小林泰三『誤解だらけの日本美術 デジタル復元が解き明かす「わびさび」』(光文社(光文社新書)、2015年)を読む。俵屋宗達「風神雷神図屏風」、キトラ古墳壁画、銀閣寺、興福寺阿修羅像(本来は赤くて髭も生えていた)をデジタル復元によって当時の姿で甦らせていき、わびさびと見なされている特徴が当初から備わっていたのではないと指摘しつつ、その鑑賞法を示していく。確かにいずれも本来は色鮮やかで、屏風を折り曲げたり、銀閣寺をもとの配置から全体的に捉えてみたりすると、明らかに制作者の意図が浮かび上がっていると思う。やや事例が少なすぎて、その本質を示す以外のノンフィクション的な部分は個人的には不要だと思うのだが、そうすると題材が少なくて大変だったのかもしれない。
 以下メモ的に。尾形光琳の「風神雷神図」は風神と雷神がともに横睨みをしている。これに対して、宗達の屏風は平面のままでは視線が合わない。視線を合わせるためには、屏風を折り曲げて建てて鑑賞のための良い位置を探らねばならない(17頁)。なお著者は、前著『日本の国宝、最初はこんな色だった』(光文社(光文社新書)、2008年(未読))にて、その作業が必要なのが日本美術の特徴であると述べているらしい。光琳のぎらぎらした屏風は夕日の光のなかで立ててみないと本来の意図は伝わってこない、とも述べている(61頁)。ゆえに展覧会のような非日常の形式では、作品の本質には迫れないとも述べている(62頁)。
 光琳の雷神は太鼓を連ねた大きな輪がすべて画面に入っているのに対して、宗達の雷神は太鼓がはみ出している。これによって上にある広がりを想像して、画面の上から舞い降りたかのように視線を動かす。このような上下の動きを見るものに想像させる(23〜24頁)。著者はこれを映像作家のようだとしているが、マンガのコマ割りのようにも感じて、伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』を思い出した。
 もともと宗達は鮮やかな緑を使っていたが、劣化が激しくて古色となった。これに対して光琳の緑は比較的保存が良く、独自の明るさと鮮やかさを保ち得た(30頁。)
 銀閣の屋根の庇の下はもともと派手な彩色がなされていた。そうしたもともとの銀閣をCGで再現する限り、月明かりのなかで柔らかく光を反射しつつ、なおかつ池からの反射で庇の下まで鮮やかな色彩が揺らめいて輝いていたと考えられる(148頁)。なお、こうしたことから、日本美術は太陽から月へと変わる時の移ろいのなかで鑑賞することこそが必要だと述べている(153頁)。


8月11日

 岡崎勝世『科学vs.キリスト教 世界史の転換』(講談社(講談社現代新書)、2013年)を読む。聖書に基づいた「天地創造は6千年前」という考え方に対して、地質学や動物学の観点から齟齬が意識されるようになり、世界認識が転換していく様子を説明していく。
 同じようなテーマを扱った著者の前著である『世界史とヨーロッパ ヘロドトスからウォーラーステインまで』に比べるとテーマがやや専門的で、科学思想史というやや狭いテーマに絞られている観があり、全体としての魅力はやや下がっているようにも感じたが、個々のトピックにはいろいろと興味深いものもあった。以下メモ的に。
 リンネにとって、自然の物体のあらゆる種は神によって創造されたものであった。したがって種の数は増えも減りもしないのであり、博物学とはそうした自然の物体の分類と名称の付与に他ならなかった(81頁)。
 リンネの時代の人間の位置づけ方は、中世以来の「存在の連鎖」の観念に基づいていた。人間は「理性的で死すべき動物である」と定義づけられるが、これに対して鉱物は生命を持っていない。植物は生命を持っているが、感覚を有していない。馬は感覚を有しているが、理性は持っていない。ただし人間を天使と比べると、お互いに実体だが人間は死すべき存在である。このように天使、人間、動物、植物、鉱物の相互の関係は部分的に重なりつつ相違がある連鎖の関係にある、とされていた(84頁、この部分はアーサー・O.ラヴジョイ(内藤健二訳)『存在の大いなる連鎖』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2013年(未読))による)。
 リンネは人の定義に『汝自身をしれ』という格言を選んでいる。これは、文明批判者のリンネが人間の歴史的な堕落に対して、人間が自然界に降格したと見なしていたためである(88頁)。
 リンネの著作には、近世に入っても信じられていた古代以来の怪物が記載されていない(98頁)。
 19世紀初頭のブルーメンバッハの著作では、コーカサスあたりで創造されたアダムは神の作品であり完全なので、そこからの人類の変化は退化でしかないとされている。退化は時間的な経過の中で変化を主張する点で進化と同じだが、キリスト教的な発想に基づいている(140頁)。確かにキリスト教的ではあると思うが、古代ギリシアにも黄金の時代から鉄の時代へと退化したという考え方があるのは興味深い。
 ガッテラー『世界史試論』(1792年)では、ペリクレスが完成させた民主政を賤民政治としか評価していない。ドイツ啓蒙主義者たちは市民的自由の実現を上からの改革に期待していたが、同じ立場に立っていたと言える(211頁)。


8月21日

 ウィリアム・バーンスタイン(徳川家広訳)『「豊かさ」の誕生 成長と発展の文明史』(日本経済新聞社、2006年)を読む。欧米が現代において最も豊かになった条件として、私有財産権、科学的合理主義、近代的資本市場の形成、通信手段と輸送手段の高度化の4つを挙げ、欧米でそれらが達成された過程と、他の文明には何が足りなかったのかという観点から述べていく。この4つが、現代の先進国が享受している物質的な充足に必要なものであることは確かにその通りだと思う。ただし、それがなぜ可能であったのかという点において、思想的なものと土台となる条件についてはあまり読み取れなかった。前者についてはキリスト教的な進歩の思想や技術に対する価値観の上昇が必要であると思われる。後者については、岩崎育夫『世界史の図式』でも書いたとおり、成長を促すフロンティアの存在が不可欠であり、ヨーロッパはそれをアメリカ大陸に求め得たという点が大きいと思われる。欧米が中心となって築きあげた現在の繁栄が最終的なゴールであり、これ以上のものはないという観点から、そこに当て嵌まらないものを不正解と見なしているようにも見えて、それはキリスト教的な最後の審判の考え方にも近い気がした。なお、著者自身も書いているとおり、絶対的な貧困は少しずつなくし得ても総体的な貧困の解決は難しいというのは(399頁)、現在の欧米の文化に基づく限り少数の勝利者がどうしても生まれるために難しいであろう。
 以下メモ的に。ローマは3世紀になって帝国拡大の果実が流入しなくなったために,衰弱した農業や商業からの税収だけでは政府支出が賄えなくなった(89頁)。この指摘については、ローマの拡大は実質的に前1世紀末で止まっているという事実に反しているだろう。
 導円と周転円のモデルに基づくコペルニクスやプトレマイオスの惑星の運動についての説明は、反証可能でなければならず、そのモデルと矛盾するような観察例を想像しがたいという点で落第であった(129頁)。この指摘は、ニュートンのモデルもそのパラダイムが主流であった時代には反証が難しかったという点を忘れているように思える。
 物々交換における取引の不便さは、10種類の商品が取引されるにあたって、45通りの交換比率を想定せねばならない点でよくわかる。貨幣ならば商品の数である10通りだけでよい(172頁)。
 資本市場を政府が監視しなければ、起業の経営陣は株主を食い物にしようとするため、株式投資をしようという投資家はいなくなる(193頁)。
 蒸気船が発達すると、イギリスとアメリカの価格差は解消されていく。たとえば、1870年にはロンドンの牛肉はアメリカのシンシナティよりも93%も高かったが、1913年には18%にまで縮まった(218頁)。
 アダム・スミスは、ビンの製造に必要な18工程を分業にすれば、10人の労働者でも1日に4万8千個のビンを生産できると説いた。これは10人がバラバラに製造を進めた場合に240倍の生産性になる。こうした分業は、その部分における技術改良も容易にしていく(264〜265頁)。
 徳川幕府は農業を重視し、商人を軽視していた、というのは(317頁)、かなり古い歴史観に縛られているのは、網野善彦『「日本」とは何か』を見れば明らかであろう。本書を見ていて歴史に関する考察が、実はかなり古いものに基づいているのではないのか、というのは日本に関する記述がかなり古くさいという点も理由だったりする。日本は優れていたなどとうぬぼれたいのではなく、前近代を悪しきものとする観点からしか眺められなかった時代の歴史学に引きずられている気がするにすぎない。
 個人が行動を起こす際に、どれくらい隔たった人までの言葉を信じるかという尺度である「信頼半径」は、その国の豊かさと相関関係にある。生活水準が上昇するほど、人は見知らぬ他人を受け入れて信用するようになる(377頁)。
 自分の富を比較する対象は、だいたいにおいて近隣の人物となる。同じ年収を稼ぐにしても、経済の沈滞した農村に住むのと、高級住宅地に住むのとでは、前者の方が幸福に感じるという「隣人効果」である(394頁)。


8月31日

 長谷川英祐『働かないアリに意義がある』(メディアファクトリー(メディアファクトリー新書)、2010年)を読む。生物進化の大原則は、「生存の確率を高め、次の世代に伝わる遺伝子の総量を多くしたもののみが、将来残っていくことができる」といわれている。にもかかわらず、アリやハチなどの特殊な集団構成を持つ真社会性生物は、働きアリや兵隊アリのように生殖を行わないものがコロニーの中に数多くいる。さらに、すべてが働いているわけではない。シクワケアリを対象にした1ヶ月の調査では、2割くらいは働いていると見なせる行動をほとんどしない働きでアリと判明した。そうしたアリは、自分の体をなめたり、目的もなく歩いたり、ただぼーっと動かないでいたりしていた(27〜28頁)。こうしたアリは好んで働かないのではなく、働きたいのに鈍くて仕事にありつけない固体であると考えられる。そうしたアリも他のアリが疲れたときには代わりに働く。もしすべてがいっせいに働いてしまえば、誰も働けなくなる時間がやってきて、常に誰かの世話が必要な卵の世話などができなくなってしまうため、コロニーが壊滅しかねない。しがたって、働かないアリにも存在意義があると言える。
 アリについての地道な研究を専門家以外に面白く紹介していると思う。ただし、こうしたアリの世界のことを単純に現代文明への批判につなげるのはよくないな、と考えていたら本書にそれが出てきてしまった。グローバル化で皆が勝ち組を目指すのではなく、アリの世界のように余裕を持つべき、という指摘である(77頁)。著者自身も述べているようにアリの世界の考え方は、人間とは大きく異なるのだから、アリの世界での最適解が人間の世界で当てはまるわけはないのに、したり顔で現代文明の安易な批判をするのはやめた方がよいだろう。アリの研究のためにありを観察し続けるという地道な作業が必要だと著者は述べているが(63頁)、現代社会に対する研究だって本来はそうした地道な作業が必要であろう。「ヒトの社会をムシの論理で見たときに見えてくることもあるのでなないでしょうか」(169頁)というのは確かにそうだと思う。とはいうものの、それは実証に基づいた比較でなければ、良い社会にしようという単純な道徳的な指摘になり、建設的なものにはなり得ないだろう。それが無理ならば、ひとつの考え方だけが絶対に正しいわけではないという程度に持っていくだけに留めるべきだと思う。
 以下メモ的に。若いアリは主に育児と巣の維持に従事して、歳をとったアリは巣の外側での採餌のような危険な仕事に従事するようになる。これは種全体の効率を高めるための選択である(39頁)。
 アリは餌を見つける際にフェロモンを蒔いて道を作るので、他のアリはそのフェロモンをたどって餌に辿り着く。ただし、これを間違えるアリもいる。けれども、それによってより短い経路が発見される場合もあるため、むしろそうしたアリのいる方が効率はあがる(46頁)。
 餌をめぐって多種のアリとの争いになったとき、兵隊アリは真っ先に逃げてしまう。兵隊アリは育てるのにコストもかかっているので、多少の餌を掛けたにすぎない戦いで失うのは得策ではないと判断しているためである(47〜48頁)。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ