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2016年5月の見聞録



5月1日

 米澤穂信『満願』(新潮社、2014年)を読む。死なせてしまった部下の死ぬ間際の言葉の真意を探る交番勤務の警官、自殺者を出す宿で働く別れた妻の謎かけ、父を母から奪おうとする美しき中学生姉妹、バングラデシュでプロジェクトを成功させようとして道を踏み外した在外ビジネスマン、オカルト話の調査をしているうちに事件に取り込まれていくフリーライター、夫を殺めて刑期を終えた妻の本当の動機、といった6つの短編からなる。
 『遠まわりする雛』を読んだときにも感じたが(あちらはシリーズものという点では異なるが)、この著者は短編を描くのが上手いな、と。いずれの作品も短い中できちんと読ませる作品に仕上がっていると思う。ただ、ミステリ三冠をとったというと何か違和感を感じる。ホームランというよりは渋いヒットの連発といった感じなので、この年は他にホームラン級の作品がなかったのかなという気がする。


5月11日

 川崎謙『神と自然の科学史』(講談社選書メチエ、2005年)を読む。日本語の「自然」と欧米の言語でいうところの「nature」の相違から、両者の捉え方の違いを浮き彫りにしていく。前半では「nature」とその背後にある思想に関する説明で、後半ではその捉え方をもってして日本の「自然」を把握する危険性を指摘する。
 西欧自然科学は、普遍的な誰もが学ぶものと見なされてきた。普遍的であるということは、それが歴史的な変遷を遂げた存在であると認識できないことにつながる。そもそも一般的に言って、技術によって何らかの認識が成り立つ場合は珍しくないが、西欧自然科学は、認識の技術化によって、認識を基礎づけている特定の直感を共有しなくても、その認識の受容が可能となった。その西欧自然科学の認識の考え方は、法則という言葉に表れている。英語で言うlawは置かれたものという意味である。これは、法則とは創造主によって置かれたものという意味で、だからこそ合理的でないはずはないという認識となる。合理的な理性=Logosによってこそ、創造主のイデア=Logosを認識できるわけである。その創造主の心の内を問うことは、なぜそのような法則なのかを問うことでもあり、キリスト教にもつながる。だが、創造主を信じていれば、なぜ(why)ではなくどのように(how)を問うことにもなる。そのうえで、西欧自然科学はhowに対する解答のみにすぎないと理解することで、キリスト教信仰から切り離して、普遍的に誰でも学ぶべきものと思い込むことに成功した。ただし、whyを捨てたのではなく、howを問いかけ続けることでwhyの答えを探そうとしているのである。
 ここから日本において西欧自然科学の認識がどのように考えられていったのかの記述が続くのだが、実はそちらはあまりピンとこなかった。ただし、西欧科学の思想的な基礎を知るにあたっては、非常に便利だと思う。なお、本来の内容はもっと高度なのだが、かなり簡略化してまとめている。ちなみに、山本義隆『世界の見方の転換』にて、コペルニクスが太陽を中心に置こうとしたのは新プラトン主義の影響だとする見解に対して否定的に述べているのに対して、村上陽一郎の諸著作を読むかぎりはキリスト教的な思想の影響はあったのではないかと書いたが、本書を読んでその思いはより強くなった。
 以下メモ的に。古代ギリシアにおける定冠詞の発明は、その名詞が示すここの具体物ではなく、同類と見なしうるすべてに共通する類的特性の表現が可能となった。たとえば、水という名詞に定冠詞を組み合わせることで、琵琶湖の水やコップの水ではない、類的特性としての水を表現しうるようになった。同じように動詞や形容詞さえも類的表現を獲得した。これによって理性によって認識されるイデアな存在を表しえるようになった(64〜66頁)。


5月21日

 宮部みゆき『ペテロの葬列』(集英社、2013年)を読む。杉村三郎シリーズである『誰か』『名もなき毒』の続編。今多コンツェルン会長室直属・グループ広報室に勤める杉村三郎は、元重役への取材帰りに拳銃を持った老人によるバスジャックに遭ってしまう。その老人の要求は3人の人間をここへ連れてくるというよく分からないものであった。しかし、その要求が果たされる前に、警察の突入が起こり老人は自殺してしまった。しかも、事件後しばらくして人質となった乗客のもとには、老人の約束通り謝金が送られてきたのである。杉村はこの事件を探っているうちに、高度成長期の様々な会社で導入されていてやがてネズミ講へと移っていったマインド・コントロールの指導者に行き当たる。だがこの事件の調査は、杉村自身にも思いもかけぬ余波を及ぼしてしまうことになる…。
 いままでのシリーズの中では、本書が最もミステリっぽいように感じた。その一方でラストの杉村に降りかかった不幸は、本シリーズを読んできた者ならば、かなりの衝撃であり、杉村を案じつつもあからさまに自分の行いを告白する様には、たいていの人が嫌悪感を覚えるだろう。個人的にはあまりにも身勝手なものだと思うのだが、それはともかく本書の他の人物もそうした身勝手さを感じることが多い。改めて思ったのだが、この著者は、ふとしたきっかけであらわになってしまう人間の悪感情を描写するのが実に上手いのだな、と。
 ちなみに、杉村は1985年ごろの豊田商事事件を知らないと答えている場面がある。杉村はこのとき16、7歳だったらしいので、私は杉村よりも数歳年下ということになるのだが、この事件は何となくテレビで見ていたように覚えている。義父は関西の事件だったからしらないのかも、と推測しているのだが、東西で重大だったニュースの認識度に差がある、ということがこの時代には遭ったのかな、と不思議に感じた。


5月31日

 増田寛也編著『東京消滅 介護破綻と地方移住』(中公新書、2015年)<>を読む。前著『地方消滅 東京一極集中が招く人口急減』の続編にあたると思われる。前著では、東京が地方の若者を吸収しすぎて、なおかつ経済状況がよくないために出生率が増えず、地方都市が消滅する危険性がある、との指摘を行った。そのなかで、高齢者のための医療と介護は地方での雇用を支えるであろうが、それも大都市圏での高齢者人口が増えればそちらへ吸収される可能性が高い、とも述べていたのだが、それについて新たに1冊にまとめたもの。簡単に言ってしまえば、東京圏での高齢介護が間に合わなくなるので、介護費用が東京よりも低い地方都市への移住政策を進めるべき、という提言を行っている。言っていることは分かるのだが、それを行おうにも上手くいかないから困っているだという気がする。とりあえず、危ない状況にあるのだという基本データは抑えられるだろう。


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