桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす 混血する古代、創発される中世』(筑摩書房(ちくま新書)、2018年)を読む。武士の起源については、地方の豪族が母体となったという教科書的な解釈と共に、京都の貴族こそが身分としての武士の始まりであるとする見解も現れている(たとえばその草分けとして本書でも言及されている高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』が挙げられるし、それに基づいて議論を展開させた川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』も含まれるだろう)。本書は両者のハイブリッド的な解釈をしている。
そもそも律令制下の地方行政は、行政の実務を担う地方豪族出身の郡司と、朝廷によって任命された貴族が任期制として就いて地方へ派遣された役職である国司によって、担われていた。国司のポストは数に限りがあるために、職にありつけない零落貴族も頻出した。こうしたなかで国司職を経た貴族のなかには、その後も地方に収まり現地での収奪を行う者も少なからずいた。こうした国司上がりの貴族は郡司に付いていた地方豪族の家に嫁いでいく者もいた。そして、そうしたなかでも最も身分の高い者が、特に桓武朝のころに爆発的に増えた王臣家の者たちである。王臣家の者は皇族出身者なのだが、あまりにも皇族が増えすぎた結果として、姓を与えて皇族から外す決断がなされた。こうした者は地方へと下っていき、国司と同じように収奪を繰り返して、地方の豪族と血縁関係に入っていく。こうして王臣家は、地方の豪族に血統とそれに伴う教育環境を与え、それに伴って武人としての資質が地方豪族の者にもたらされる。やがて、こうした武人に「武士」という名前を与えて招集されたのが「滝口の武士」であると考えられ、ここに武士という身分が誕生した。
このまとめでは武士に関する話よりもそれ以前の話の方が長いのだが、本書の構成もそうなっている。序章と終章を除いて前10章なのだが、古代の武士の定義に関して最初の2章を使い、最後の3章で武士の登場を扱うのだが、その間の5章は奈良から平安期にかけての朝廷・皇族・貴族と地方の実態を扱っており、本書のなかでも最も分量が多い。実は、本書を読んで個人的に一番インパクトがあったのは、地方の実態だったりする。もちろん武士の起源については地方と貴族のハイブリッドについて、推論も交えつつ手堅くまとまっていると思う。とはいえ既存の説のハイブリッドなので、面白くないというわけでは全くないのだが、一応は両方の説を目にしたことがあれば、斬新だとは感じないだろう。むしろ、地方における収奪のあまりの凄まじさの方がインパクトがある。もしかすると日本史では一般常識なのかもしれないが、高校日本史で習った「尾張国解文」(リンクはウィキペディア)にて平安時代の受領の悪事は習ったことがあるものの、ここまで凄まじいとは知らなかった。平安時代の貴族の暴力性は、繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』で読んだことがあるし、中世や戦国期の民衆が常に暴力に晒されていたことは、藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』で知っていたが、古代の民衆の方がはるかにひどそうに感じたほどである。マルクス史観でいうところの支配と被支配のステレオタイプはすでに否定されて久しいが、結局は民衆の置かれた状況からすれば、結果としてその捉え方そのものは間違っていなかったようにも見えてしまう。
以下メモ的に。武士は単なる武人ではない。そもそも武士という言葉は、奈良時代初期の721年に、元正天皇が「文人・武士は国家の重んずる所、医卜方術は古今に斯れ尊し」と述べたのが最古例である(34頁)。これは中国の礼思想に基づく。もともと中国では王などに仕えて俸禄を食む官僚のうち最下級の者を「士」といった。したがって、武「士」は単なる「民」ではあり得ない(38頁)。そして、この元正天皇の用例を、礼思想の復興を目指した宇多天皇が知ったのであろう。そして六位程度の武人集団に相応しい言葉に見えたので採用したと思われる(316頁)。その背後には文人の菅原道真の影響があったであろう(同頁)。
723年の墾田永年私財法は、「武士の誕生を準備する大事件だった。鎌倉時代以降も武士の重要な経済基盤だった、「開発私領」が存在する法的根拠が、ここに開かれたからである。」(65頁)
律令制では、8位以上の位階や勲位を持つ者、つまり廷臣のほぼ全員が、減刑の制度によって流刑以下の罪ならばほぼ確実に実刑を免れた。これは礼思想に基づき、そういった者たちは、民衆とは異なり、理性的に善悪を判断して悔い改められるので刑罰の恐怖で戒める必要はない、とされていたためである(71頁)。そうした状況の下、国司たちは、近隣の百姓を強制徴用して働かせ、その土地にまで侵略して収奪を図った(72頁)。
鎌倉・室町幕府の武士は昇進するか罷免されない限り、自分のポストに終身在職できたし、それを子に相続させ得た。その意味で貴族政的である。これに対して律令制の官職は期限制であり、息子に受け継がせることも出来ず、没落する可能性が少なからず存在した(82〜83頁)。
衛府のトップは代々武官の家系の者が就くが、その末端を担う実働部隊は舎人であり、その本質は警備員であり軍人ではない。だからこそ、当時はびこっていた群盗への対処は出来なかった。従って、衛府から武士が成立したという解釈は成り立ちがたい(119頁)。
仁明天皇は、礼思想の実践のために、たとえば宴の開催などにエネルギーと費用を注いだ。その結果として朝廷の国庫は圧迫された。結果として、徴税に対する圧迫を受けた郡司層は、年貢の護送車から強奪者へと転身して、弓馬術を身に付けて王臣家の走狗となるか群盗となった(126〜128頁)。
承平・天慶の乱以前の文徳朝から、すでに国司の殺害や国衙の襲撃はありふれた事件となっていた。どうせ天皇や朝廷は何も出来ないと高をくくっていたからである(141頁)。
将門よりも30〜40年前に、王臣家による地方政府の卵は存在していた。ただし、それらはマフィアやギャングの支配と同じである。勢力圏の裁判を取り仕切ったが、その権威を支えるのは暴力であり、紛争に介入する動機は欲であり、勢力圏を公正に治める責任感は微塵もない(196頁)。これを読んだ際に、本郷和人『武士から王へ お上の物語』における、王権とは自立しながら統治者として自らを律する存在であり、「王であろう」とすることはよりよく統治する意欲に他ならない、という指摘を思い出した。
中国の北魏の正史『魏書(後魏書)』の「南安王伝」に「武士をして弓を引き、文人をして筆を下さしむべし」とある。ただし、「文人武士」とひとまとめにする用法は中国の文献にはないようである(316頁)。