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2019年12月の見聞録



12月4日

 三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』(岩波書店(岩波新書)、2017年)を読む。19世紀末にウォルター・バジェットが『自然学と政治学』にて提示した、「近代は議論による統治を中心概念とし、貿易と植民地化が変革要因となる」という理論を元に近代の日本について、 なぜ日本に政党政治が成立したのか、なぜ日本に資本主義が形成されたのか、日本はなぜ、いかにして植民地帝国となったのか、日本の近代にとって天皇制とは何であったか、の4つのテーマを述べていく。後で挙げていくように、個々の論点には興味深いものはいくつもあるのだが、西洋近代を中心とするかのようなバジェットの論に基づく必要はあったのか、という気はする。別にバジェットを批判したいのではなくて、バジェットも時代の枠組にとらわれているのであり、その枠組にあてはめるよりも、そこからこぼれ落ちるような見方の方がいまは必要なように感じる。
 以下メモ的に。福沢諭吉は、1890年12月10日から23日にかけて発表した「国会の前途」(『時事新報』社説)において、幕藩体制で制度化されていた権力の分散が明治の立憲主義につながる要素であると指摘している。「「権力平均の一事は百年来日本国人の脳中に徹し又遺伝に存し」、つまり権力を平均化するメカニズムは日本人の一種のDNAになっており、「政治社会に円満の得意なきを知らざる者なし」というのが福沢の理解」だった(45〜48頁、引用は48頁)。
 伊藤博文は、天皇を代行する覇者の拠点である覇府を幕府的存在とみなしており、その排斥を訴えていた。その対象は議会だけに限らず、軍も当然含まれていた。従って、覇府の排斥による統帥権の独立は、軍部独裁を正当化するイデオロギーたり得るはずがなかった(68〜69頁)。
 明治期には天皇を代行する藩閥集団が形成されたが、反藩閥を掲げる衆議院を掌握できなかった。しかし明治憲法下では、衆議院の多数は権力の獲得を保証しなかった。こうしたなかで、藩閥と政党の結び付きが日清戦争後あたりから始まる。これに伴って藩閥が担ってきた体制統合の役割が政党へと移行していき、政党が幕府的存在化していくことになる(73〜75頁)。
 大久保利通は、殖産工業政策に関連して貿易と海運政策にも力を入れた。貿易に関しては、主要産品である生糸や茶などの輸出を試みて、市場調査を行っている。海運政策に関しては、三菱会社を徹底的に保護した。たとえば、内務省駅逓寮に属していた汽船13隻を三菱に与え、補助金25万円を14年にわたって給付した。廃藩置県後に諸藩所有の汽船を収めて組織させた郵便蒸気船会社が危機に瀕した際に、所有船18隻を政府が購入して三菱に付与してもいる。それによって三菱は沿海航路から外国海運業者を駆逐して、極東海域全域を掌握した(94〜95頁)。
 良妻賢母という言葉を初めて使ったとされる中村敬宇がその言葉に込めた意味は、女性の修身的鋳型としての意味ではなく、自ら独立した市民として時代の独立した市民を育てる能力を持つ女性を意味していた。だからこそ、女性の高等普通教育の必要を唱えた(104頁)。
 最大の植民地帝国であるイギリスは、同時に不平等条約を通じた政治的経済的優位を、日本や中国に対して繰り広げた。植民地の獲得や経営のためのコストを有しない自由貿易帝国主義(非公式帝国)の拡大を目指していたと言える。明治以後の日本は、外債依存度を極小化しようとしたのは、これに抗する一種の経済的ナショナリズムから発した対抗戦略であった(149頁)。なお、当時の日本が欧米のように非公式帝国の形態をとれなかったのは、先進国の植民地帝国のメンバーではなかったことと、日本が植民地による経済的利益関心よりも軍事的安全保障への関心が強かったためである(150頁)。


12月14日

 岡本隆司『世界史序説−アジア史から一望する』(筑摩書房(ちくま新書)、2018年)を読む。たとえグローバル・ヒストリーであっても、アジアの歴史をヨーロッパの概念で捉えていると批判し、新たな見方の提示を試みる。ユーラシア大陸はパミール高原を交差する山脈が内部を分かつ境界となっている。そして、その東と南と西のアジアのそれぞれのエリア内で、湿潤気候の農耕ゾーンと乾燥地帯の遊牧ゾーンの複合世界となっている。なお、日本とヨーロッパはこのような複合世界ではない異境となっている。中央の山脈地域を横断して農耕ゾーンと遊牧ゾーンの境界を通っているのがシルクロードであった。農耕社会と遊牧社会は異なる生活様式であったが、その境界で取引交易の契機が生じて、商業が発達していった(41〜45頁)。何らかの理由で農耕・遊牧・商業のバランスが崩れると、混乱が生じる。たとえば寒冷化が生じると、遊牧世界では生活の危機へと至り、農耕世界では生産の現象が生じ、乏しい物質をめぐって紛争が多発する。ただし、両者が機能的に結合すると、「一方の軍事権力と他方の民間経済は、前者が後者に与える保護と後者が前者に供する物資により」(146頁)強大化をなしえた。その最大の例がモンゴルであった。
 モンゴルを倒した明は、モンゴルが造り上げた草原遊牧と農耕定住の共存システムに基づく広域の流通商業を否定した。ただし、中国社会全体の商業化・流動化に伴い、貿易の欲求は高まった。したがって、体制に抗する形で密輸が行われていた。それに伴う混乱の中で清朝が誕生を生んだ。清朝の君主はモンゴルの大カーンと中華王朝の皇帝を兼ねて、なおかつチベット仏教の大施主であり官人に対しては儒教の擁護者という、インドやイスラームにおける正当性と普遍性を兼ね合わせた統治法を取った。やがて、アメリカ大陸の銀を収奪して海洋貿易を行ったヨーロッパ社会がグローバル化していく世界を支配していくことになる。
 海を支配したヨーロッパに飲み込まれていく過程を特にイギリスを中心にヨーロッパの歴史をおさえつつ述べていくのだが、そのあたりについては省略する。ヨーロッパ中心史観に対する批判は当然あるべきだが、ヨーロッパの暴力を伴う普遍性が世界を飲み込んでいったのは事実である。だからこそ、その尺度で非ヨーロッパ世界を見ていく視点は重要なのだが、結局はそれが失われたのであれば、現代人にとってそういった視点そのものは古いものにすぎないと顧みられない可能性があるのかもしれない。ユーラシア的な多元性に回帰していく動きが、いまの世界に対する揺り戻して生じる可能性もあるのだろうか。
 なお、アレクサンドロスやローマをオリエントやペルシアの後継者と見なしており、「オリエントの一部としてとらえるのが正当である」(56頁)としているが、これは間違っていないと思う。ただし、「地中海文明・ローマ帝国をヨーロッパの祖先ととらえるのも誤解である」(同頁)というのは少し違うと思う。これに続けて「もっともそうした誤解が、ヨーロッパのアイデンティティとなり、以後の歴史を動かし、現代世界の礎になっている事実は、当時の客観的な史実とは別に認めなくてはならない」(同頁)とあるが、そうではなくて、「ヨーロッパ文明の基盤の1つとなったローマと地中海文明はオリエント文明の辺境に生まれた後続文明であった、という事実をローマの時代から近代に至るまで認めてこなかった」という方がより正しいと思う。
 以下メモ的に。唐は東ユーラシア規模の区域を統合する体制としては、西のイスラームよりも脆弱で永続性を欠いていた。イスラームのような普遍的な価値観を提示できず、それに基づく社会組織や秩序体系を構築できなかったためである。仏教はそうした価値観として利用されたものの、普遍化は達成できなかった(93〜95頁)。
 オスマン・トルコはイスラームの二大聖地であるメッカとメディナを管理下に置いて、イスラームの中心地という地位と権威を獲得した。さらに、コンスタンティノープルの占領によって、キリスト教徒を支配する正当性も得た。加えて、モンゴル系の諸勢力と対抗すべく、正当なチンギス裔のクリム・ハーン国を取り込んで、チンギス家との血縁関係を標榜した。アジアとアフリカとヨーロッパにまたがる一大勢力となったオスマンは、ローマとイスラームとモンゴルを一身に継承する存在だったと言える(169頁)。
 乾燥地帯のオリエントや西アジアでは、森林は最も早く枯渇した。イスラームが十字軍を迎撃できても反抗できなかったのは、船を造る材木が不足していたためである。続いて東アジアの中原の森林が枯渇した。東アジアでは、党争変革のころ、世界に先駆けて石炭やコークスの使用が普及していた。さらに、江南の開発によって豊かな山林を用いることが出来た。これによってアジアの勢力比重は10世紀を境いに逆転した。むしろ森林は、地中海世界で先に枯渇したのであり、イタリアの海洋諸都市がやがて他のヨーロッパ地域の後塵を拝したのはこのためである(212頁)。


12月24日

 早島大祐『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社(講談社現代新書)、2018年)を読む。内容の概略を、最終章でのまとめを使って記していく。室町時代の政治体制は公武統一政権であり、幕府が優位であったものの、朝廷や寺社も祭祀や儀礼に関する国家的な役割を担った。そのため、後者の荘園も財源確保のために残されていた。一方で幕府による課税もなされた結果、荘園住人たちは重い負担に悩まされた。その結果、負担にあえぐ地域社会は経済的に立ちゆかなくなり、荘園住人や輸送業者の馬借は京都の金融業者である土倉に頼らざるを得なくなった。こうして地方と京都の経済格差が生じ、地方の住人が京都の土倉を襲撃するという室町期の徳政一揆が発生した。そもそも、これ以前には、様々な法律が併存している社会であり、借金の返済を定めた債権の法と、条件を満たせば返済せずともよいという債務の法も併存していた。しかし経済格差が生じると債権の法が優勢になり、その平衡を戻すために債務の破棄を訴える徳政を主張したわけである。ただし、徳政によって京都の土倉も経営不振に陥ると、経済格差は縮まり、地域金融の担い手として在地領主が復活すると徳政一揆に対して批判的な目を持つ。さらに、牢人も加わるなど構成員が多様化すると、要求も拡散していった。
 同じころ室町幕府は、債務破棄でも債権破棄でもいずれかを認定すれば、その額面の一部を徴する権利を得る分一徳政令を発令した。当時の室町幕府は、個人の才覚による政治ではなく、幕府に仕える官僚集団の整備も行っていた。それとともに現代の民事訴訟にあたる制度を整備しており、それをもとに分一徳政令を利用して財源を確保したのである。さらに応仁の乱の直前には動員された武士たちに兵糧料の代わりに徳政令が発令されるようになり、戦争と一体化した徳政令は忌み嫌われるようになっていく。加えて、徳政一揆の構成員の多様性は帰って身分や階層ごとの要求の不和や反発を招き、一体化から分断へと変質していくことになる。
 なぜ、最終章のダイジェストを使ったのかというと、本書は前から順番に読んでいくとやや全体像が分かりにくかったためである。したがって、実はこのまとめは、本書の書かれている順番通りではない(著者がまとめをこのようにしたのかが意図的かどうかは分からないのだが)。個々の論点には面白いものが多く、いつものように以下にメモ的に記していくものもある。それでも、こちらの知識のなさが一番の理由だとは思うのだが、なぜだか全体像が今ひとつ掴みにくかった。
 以下メモ的に。賃金の安さや人手不足に悩まされながらも、馬借たちは京都や奈良へ荷物を運んでいた。それらの荷物は、神社や仏閣、天皇家の献上品の名目で運び込まれた。そのお下がりが商品として市場に出回っていた。だからこそ、馬借の拠点は、大津、淀、山崎といった水路と陸路が接した交通の要衝であったし、それらはそれぞれ日吉社、石清水八幡宮、大山崎離宮八幡宮といった権門神社の所領でもあった(85頁)。京都の経済を寺社が担っていたというのは、京都の商人の多くがそれらに属していたという伊藤正敏『寺社勢力の中世 無縁・有縁・移民』の指摘に基づけば分かりやすい。なお、徳政一揆が広範に同時に発生したのは情報伝達のスピードゆえでもあったが、それを担ったのは海運業者であろう。南河内から播磨までは、陸路ならば結構かかかるが海路を使えばかなり縮まる(88頁)。このあたりは網野善彦『「日本」とは何か』を思い起こさせるし、黒嶋敏『海の武士団 水軍と海賊のあいだ』で扱われたような、海の勢力も武力という点では重要だったのかもしれない。
 嘉吉の徳政一揆において、幕府軍は劣勢に追いやられたが、このころの幕府は、軍勢の一部を将軍を暗殺した赤松満祐の鎮圧に派遣しており、京都を手薄にしていたため、1万2千から1万6千の一揆軍に対抗しがたかったという理由があったと考えられる(151頁)。
 16世紀に至るまで、自然災害が発生すると人々はその解消のために徳政を意識していた。だからこそ、自然災害はしばしば徳政令の要求のきっかけとなった。ところがこれ以後には、徳政は意識されなくなり、自力での被害の克服を目指すようになる。16世紀末になると、巨木を伐採して、巨石を切り取り、城郭を築くようになる時期とほぼ重なっている。自然を大きく改変する開発・大規模造成という考え方を生み出したと言える(288〜289頁)。
 中世に至るまで、中央にいながらにして天下の隅々まで支配するというのは天下支配の理念であった。中央で地方の安全を祈念することが支配そのものであった。その代わりに権力者は高さに固執した。これに対して、戦国期には祈祷という観念が消滅していく。代わりに天下=広さという考え方が主になっていく、そのため、敵対する勢力を討伐すべく、隅々にまで出陣する必要が生まれた(290〜291頁)。


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