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2020年2月の見聞録



2月10日

 平尾昌宏『愛とか正義とか 手とり足とり!哲学・倫理学教室』(萌書房、2013年)を読む。抽象とは、大事なところを引き出して、ものを考える枠組である概念をつくる。たとえば正義である。正義などないという意見をよく見る。だが、そもそも正義はあって当たり前でなければおかしい。だからこそ不正が見過ごされていると正義などないと考えたくなる。従って正義などないと考えて平気な人は、現実の生活に問題が起きていない人である。正義は社会にとって必要な釣り合いであり秩序である。ただし、個人レベルでは社会の正義に反する行動をとりたい感情も生じる。たとえば、我が子を殺された親が犯人に復讐したいと感じる場合である。これは愛である。愛は身近な人だけを救いたいという不平等な感情である。この2つの概念が倫理にとって欠かせないと言える。ただし、社会の場合には結び付きが親しい者よりも強くなく、共通点や同じ目標があるわけではない。なので社会について考えるのは難しく、正義にも色々な種類が必要となる。
 哲学や倫理学としてものを考えるという目的のもと、極めて分かりやすい文体で記されている。ただし、本書を読んで思い出したのは、関曠野『プラトンと資本主義』(北斗出版、1982年)であった。ここで描かれている哲学の祖たるソクラテスは、相手に問いを重ねて本質に迫ろうとする見せかけをとりながら、実のところ知らないことだけは知っているという考えの下に相手の上位に立とうとする教員の原型である。本書を読んでいても、様々な作品の論じ方が、その素材と対等に向き合いながら思いも寄らぬ新しい考え方を見出すというよりは、その作品の欠点を探しそれを見つけた自分の方がよくものを知っている、という自己顕示に個人的には思えた。あくまでも個人的な考えにすぎないのだが、本書は面白くないわけではないものの、著者と他者の間の上下関係の構築のように見えてしまった。
 以下メモ的に。人生はゲームだという言い方がしばしばなされる。ただし、ゲームにはルールが必要だが、こうなったら終わりという目的がはじめから設定されている。これに対して人生の目的ははじめから設定されているわけではない。したがって両者には共通点もあるけれども、同じとは言えない(31〜33頁)。
 男女間に友情は成り立たないという考え方は、概念化してみれば、不十分である。「性別に限らず、「何らかの共通な点に基づく、あるいは同質な者同士の間で成り立つのが友情」、「お互いに異質で、だからこそ相手にあって自分にないものを求め合うのが恋愛」と概念化すれば、異性の友達も、さらには同性愛も説明できるからである(100頁)。ただし、友情はお互いに同等で独立しているが、恋人同士は密接に組み合わさっている。そのため、友情よりも恋愛は強い感情となりやすい(104〜105頁)。


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