前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2016年9月の見聞録



9月14日

 太田忠司『無伴奏』(東京創元社、2011年)を読む。「私」こと阿南が久方ぶりに帰郷した故郷では、父親が介護を必要としている状態だった。介護職に就いていた阿南は父の介護を手伝っていると、父は阿南の母に対して「…殺してしまった」と突然呟いた。父の言葉の真意を探る中で、阿南は高校時代に少しの間だけ付き合っていた女性と再会する。そうしたなかで、彼女の夫は教え子と一緒に死体で見つかった…。
 読み終えてから知ったのだが、すでに何作かシリーズのような感じで作品が出ているようである。事件そのものは、目を見張るようなトリックなどがあるわけではないのだが、中年から老年の悲哀を感じさせる作品として十分に読ませるものになっているように感じた。


9月29日

 山形浩生・岡田斗司夫FREEex『「お金」って、何だろう? 僕らはいつまで「円」を使い続けるのか?』(光文社新書、2014年)を読む。貨幣経済社会に懐疑的な岡田斗司夫が、山形浩生に尋ねるという形式が基本の対談集。根本的な考え方は、山形による第1章での文章が端的に示されている。「お金というのは、「まあこの紙切れとか金属のかけらとかで、何か価値があらわされていることにしときましょう」という、かなりいい加減なお約束の元になり立っている。でも、お金を真面目かつ厳密に考えようとすると、そのいい加減さがあっさり踏みにじられ、そのとたんにお金が必要以上に異様なものになってしまう」(12頁)。お金は、将来の人がお金を受け取ってくれるという信頼から成り立っているが、そうした雑な本質に精緻な分析が成し遂げられずにそれへの疑いを強めてしまうと、ハイパーインフレや資本主義の崩壊といった大げさな話になる。しかし、「お金で取引が行われるためには、無限遠の保証なんかいらない。来週のどこかで取引は行われるだろう。それだけが分かればいいのだ。唯一必要なのは、人間はこの先存在し続ける限り、何かを媒介に価値の交換を行う、という確信だ。いま手元にあるこの千円札は、ひょっとしたら30年後に使えなくなるかもしれないけれど、でもそのころにだって必ずなんらかの形で価値の媒介があり、別のものでそれが担保されるようになっている。そしてその移行期には、千円札から次の何か−ビットコインでもツナ缶でもいいよ−に価値媒介の手段がハンドオーバーされるはず。それさえわかれば、別に遙か彼方の超越的な信用なんか想定しなくていい」(16〜17頁)。これに基づいて、山形が岡田に説いていくという感じである。
 説明そのものは分かりやすくもオーソドックスな感じなので、大まかな部分は省略するが、一番興味深かったのが、カンボジアの事例。1960年代に農業技術者が同じ労働で倍の米が収穫できる方法を指導すると、現地の人間は喜んでくれた。米の収穫量が倍になれば余った分を打って豊かになると考えていたが、カンボジア人は「お米が倍獲れるようになったので、農地の半分だけ使って、後は放っておく」と答えたという。岡田は「豊かになるより暇な方がいいということでしょうか」と聞いたところ、山形によれば「お金があっても村の商店にはたいしたものがないし、たくさん作物を作ったところで村の有力者に採り上げられてしまったりして、働いてもいいことがあまりない。それなら、カツカツの状態で生きている方がマシということだったそうです」(37頁)。ただし武田晴人『仕事と日本人』によれば、江戸時代の農民は勤勉に働いた結果として休日が増えたため、勤勉性が所得増加の追求ではなく、余暇の増加にも結びついていたというので、やはり楽をしたいということもある気がする。楽をしたいということは楽しいことをしたい、ということでもあるが、現代の若者も楽しさに関しては働いておらず勉強もしていない時間が最大化することが喜びであり、なおかつだらだらと遊んでいることに価値を置くという。パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』が言うところの「人間いい加減史観」が変化したパターンと言える気がする。ただし、山形が指摘している「何もしなければ、もっとよいことができるかもしれないという期待が持てる」(207頁)というのは、堀井憲一郎『やさしさをまとった殲滅の時代』を読んだときに感じた「個別の生き方をしている割には、SNSのメディアでつながっていなければならず、集団からの孤立ができない」という楽しさに面倒くささが絡むところと関連している気がする。
 ところで、大学に関して「リアルで直接話を聞く価値のある講義なんてほとんどありませんよ」(162頁)と岡田は語っているが、教員が講義形式で授業をしている限りは、確かにそうだろう。だが、宇佐美寛『大学授業入門』で述べられているような、5分以上教員は話さずに学生に考えさせる授業をすれば、大学に通って教室で授業を受ける意義はあるだろう。逆に言えば、そうした授業が多くはないことが問題なのであり、普通の人々の感覚もこのような感想に近くなってしまうのだろう。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ