乾緑郎『完全なる首長竜の日』(宝島社文庫、2012(原著は2011年))を読む。私ことマンガ家の和淳美は、植物状態になった患者とコミュニケートするための医療器具「SCインターフェース」を通じて、自殺未遂から意識不明のままでいる弟の浩市と対話を続けていた。浩市と向き合うなかで淳美は、現実と精神世界が混じり始めるようになるのだが、実は…。
真相は、なんとなく鈴木みそ『銭』(ビームコミックス、2009年)第7巻に近い形だが、本書のラストはより一層煙に巻く感じだった。ただし、そこに至るまでの伏線の張り方は、こちらの方が分かりやすい。現実が歪んでいくようなタイプの小説が好きな人むけの作品だろう。
片山一道『骨が語る日本人の歴史』(ちくま新書、2015年)を読む。白骨された人骨の調査に基づく骨考古学から、古代史を中心に日本の歴史を捉え直していく。たとえば、旧石器時代の人骨は日本ではまだ20体ほどしか見つかっていない。その多くが沖縄で見つかっているからといって、例の少なさからして縄文人南方起源説は人骨からは証明されているわけではない。これに対して、縄文人骨は貝塚からしばしば見つかる。貝塚は海岸沿いに分布していて人為的に集めた貝殻類の堆積ゆえに炭酸カルシウムなどが優勢であり、土壌の酸性度が弱いので、骨類の残存にとって条件がよいためである。その骨は、後の日本列島の人々に比べると異なっている。骨格が全体に骨太で頑丈で、下肢の走行筋や咀嚼筋などの筋肉群の付着部が発達していた。頭顔骨は、大きくてカーブを描き前に出る尾骨や、エラが張っていて、下顎骨も厚くて大きい。頭部はたいてい才槌頭であった。実は弥生時代に入ってもこうした縄文人的な特徴を備えた骨が出土してきている。渡来人が日本列島にやってきたのは事実だが、骨から考えると、徐々に移住していったためであろう。ちなみに縄文人骨の身長はさして大きくなく、成人男性で平均158センチ、女性は平均145センチだが、江戸時代までの日本人もさしてこれと変わることはなかった。ただし古墳時代ごろまでは、上から見た頭の方たちが頭の形が中頭型だったが、鎌倉時代から江戸時代にかけては長頭型が多くなり、明治以後は短頭化して、戦後は過短頭型が大半を占める。
弥生時代の多様性は、考古学的な観点から藤尾慎一郎『弥生時代の歴史』でも指摘されている。明治時代に入って平均身長が伸びたというのは、南直人『ヨーロッパの舌はどう変わったか 十九世紀食卓革命』にて指摘されている、19世紀に肉食と乳製品の大幅な普及とともに欧米でも平均身長が伸びたということと類似しているように感じる。日本史に興味があれば、本書もそれなりに楽しめるだろう。
以下、メモ的に。サーファーやダイバーにしばしば見られる外耳道骨腫(耳の穴の周りの鼓室板の一部がこぶのように膨らむ)は、縄文人骨にもしばしば見られる。これが、縄文人が漁撈にいそしんでいたことを物語る(62〜63頁)。
奈良時代と平安時代は人骨が質・量ともに乏しい。仏教が布教したことと関係するのか、火葬骨が多いために粉々の状態のものが少なくない(138頁)。
江戸時代の伏見人骨では、米や葉っぱものの植物と魚介類が主要なタンパク質源であったことが判明した。陸上植物の割合は低く、農村部分とはちがって、雑穀類を多くは食していなかった(147頁)。
江戸時代の人骨は、鉛濃度が現代人よりも高い水準にあった。原因として考えられるのは、鉛白粉と建物の装飾や錆止めに用いられた鉛炭、陶器類の釉薬、膏薬や丸薬の糖衣に用いられた鉛である。なお、江戸時代の人骨には虫歯が非常に多い(149〜150頁)。