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2016年11月の見聞録



11月13日

 平山瑞穂『偽憶』(幻冬舎、2010年)を読む。15年前に、宗教家めいた活動を行っていた人物のサマーキャンプに参加した27歳の男女5人は、その人物の遺言執行者であるという女性弁護士に呼び集められた。このなかの「あることをした者」の1人に、31億円の遺産を相続する資格が与えられるのだという。そのために詳細なレポートを書いていく5人。共同での分割相続を望む者や、事実をねじ曲げてでも独占しようとする者、興味がない者など、対応が分かれるなかで、そのあることを書き留めた者を女性弁護士がついに指名するのだが…。
 タイトル通り、記憶が曖昧になっていたり、根本からすり替えられたかのように思い違いをしていたり、といったことが作品のモチーフとして用いられている。クライマックスの手前でどんでん返しが待っているのだが、そのための舞台設定がやや大げさなので、何かあるのだなと気づく人はいてもおかしくないだろう。なお、公立の小中学校は、居住地域という共通点のみで生徒が集められているため、親の職業や、教育の水準、背負う文化や習慣もまちまちだが、高校からはそうした差異は減る、という記述が出てくるのだが(14頁)、いわれてみれば当たり前なこの様相が、登場人物たちの心境のリアリティを高めるために上手く役立てられているように感じた。


11月28日

 大橋崇行『ライトノベルから見た少女/少年小説史 現代日本の物語文化を見直すために』(笠間書院 2014年)を読む。
 これまでの言説では、マンガ・アニメ文化が他の文化から切り離れた特異なものであったかのように捉えられがちであった。たとえば、東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』では、大きな物語が失われたポストモダンの状況は、読み手の間で共有化されているデータベースから創り出したキャラによって物語が動くライトノベルと一致していると説く。しかしこの主張は、「物語にはさまざまなな要素(コード)が内在されている一方、読者はある文化のなかに生きることでさまざまなコードを身につけており、双方のコードが合致する部分だけがテクストから読者によって読み取られる」(31頁)とするコード論を変容させたものにすぎない、と批判する。たとえばこれまでの言説では、ライトノベルと私小説が対置されていた。そうした私小説は、言文一致運動によって内面を持つ人間がありのままに描かれた自然主義文学であるとされていた。しかし、私小説は読者でもある作家たちのなかで確立されたコードに従って書かれて読まれたていたにすぎず、それが近代日本文学を代表しているわけではない。
 さらにライトノベルというジャンル論では、少女小説から眺める視点から欠如している。少女小説は、地の文を中心とした一般小説の文体と口語的な会話文を書き分ける必要があった。さらに明治末期の少女雑誌は、現実世界を舞台としながら「少女たちの友愛を描く物語は男性の存在しないファンタジー空間で紡ぎ刺され、肉体関係を窺わせることがほとんど無いロマンティックな描かれ方をしている」(83頁)し、現代のライトノベルに近いキャラの作り込みもなされていた。それどころか、SFや時代小説といった少年小説の物語を持ち込むことも行われていた。こうした流れは戦後まもなくのころの『女学生の友』といったジュニア小説にも受け継がれていた。一方で、吉川英治の少年小説には健気なヒロインが登場しており、その後の少年マンガへ続く系譜となっている。さらに、挿絵が差し込まれた少年小説も数多く発刊されている。ただし1960年代に少年小説を発表する媒体が減少したため、1970年代以後の少年小説と隔絶しているというイメージを創り出してしまった。したがって、1990年前後のファンタジーブームやごく一部の少女小説からの越境のみを見てライトノベルが出現したと見なすのは、間違っている。
 そこで注目すべきは、日本のマンガやアニメにおける登場人物の語りである。キャラクターはしばしば独白を含む対話を行っている点である。つまり、キャラクターは視覚的な情報ではなく、作中人物の心を言葉によって読者に示すことで認知されてきたと思われる。ここで関係してくるのが、日本語が役割語を持っている点である。金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』で指摘されているように、日本語では役割ごとに語尾や言い回しに代名詞を変えてキャラクターの特徴を示すことが行われてきた。これは言文一致体の変異体でもあった。これが現代のアニメやマンガにまで続いているのである。
 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』の説明は非常に分かりやすく感じたが、これは同時代人としての実体験に沿っているためだったのかもしれず、さらに視野を広げる必要性を感じさせられた。金水敏『ヴァーチャル日本語 役割語の謎』を読んだときには、マンガやアニメのキャラクター論につながるとは思えなかったのが、やられたといった感じだ。ちなみに、日本のライトノベルが英訳されると役割語のニュアンスが伝わらない、との指摘もあるが、これは橋本治『蓮と刀』(河出文庫、1986年(原著は1982年))にて、日本語は「元気です」という言い方にも「元気でェす」「元気ですゥ」「元気だよォ」などの様々な芸当ができる(210〜211頁)、と述べている箇所を思い出した。
 ところで、アニメーションやライトノベルの議論をすると江戸文学の関係者の反応がよく、そこでやられていることは江戸時代に一回はされたことであると指摘されているという(209頁)。確か呉智英『現代マンガの全体像』(双葉文庫、1997年(原著は1986年))にて、マンガ表現の等質を論じるにあたって『鳥獣戯画』などの過去の日本文化につなげて、日本文化の優位性を語ろうとする手法が批判されていたと思うが、さらにそこから研究は進んでいるということなのだろう。
 以下メモ的に。BL読者は少年マンガを当たり前のように読むが、少年読者が少女マンガになじむことは極めて難しい。日本文化が基本的に男性を上位に、女性を下位に置いているため、少年読者が少女マンガを読んでいたら蔑視の対象となってしまう(62〜63頁)。なお、斎藤美奈子『紅一点論 アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』(ちくま文庫、2001年(原著は1998年))は、日本の青少年文化は性別隔離文化であるために読者の越境が起こりにくいと指摘しているそうである。なお、橋本治『絶滅女類図鑑』(文春文庫、1997年(原著は1994年))も、「女流文学」という言い方が女性を下に起きている状況を示している、と断じていた気がする。
 ジュニア小説は1950年代からすでに登場していたが、理想的な子供の教育に寄与する児童文学が1980年代にジュニア小説の登場によって変容した、という児童文学史に反している。そのために、ジュニア小説は児童文学史のなかでなかったこととして忘れ去られていた、と思われる(104〜105頁)。


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