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2013年10月の見聞録



10月8日

 ロベール・エルツ(吉田禎吾・内藤莞爾・板橋作美訳)『右手の優越』(ちくま学芸文庫、2001年(原典は1907・1909年))を読む。「死の宗教社会学」と「右手の優越」の2本の論文を収録し、長めの解説を付しているもの。福永光司『「馬」の文化と「船」の文化』を読んだ際に、後者が紹介されていて興味を覚えたものをようやく探し当てたので読んでみた。「死の宗教社会学」は文化人類学的に、死の意味を探ったもの。どこかの未開地域を探ることは、その地域の文化を知ることにはつながるが、それを人類全体に敷衍するのは危険だと、こうした文献を読むたびに思う。お目当てだった「右手の優越」は、人類が文化的に右を優先する考えがあったことを紹介していく。ただし、右を優先することは多くの文化で共通している点は述べられているものの、なぜ右を優先したのかという理由については、あまり明確に述べられていない。右が聖なるものの位置で左が俗なる悪しきものの位置という、聖と俗の二元論に持っていこうとするあたりが、やはり文化人類学的なものの見方だな、と思う。ただし解説では、左右の象徴的対立は存在せず、両義的性格を持つ文化もあるとの批判が挙げられている。
 なお、特に典拠は挙げられていないのだが、左手の薬指につける指輪は、もともと悪魔やその他の誘惑などの悪しきものから遠ざけるためのものだとのことである(161頁)。


10月18日

 横山秀夫『クライマーズ・ハイ』(文春文庫、2006年(原著は2003年))を読む。北関東新聞の記者・悠木は、過去に後輩を自殺へ追い込んだとの負い目があり、現場記者に留まり続けたままだった。そうしたなかで生じた御巣鷹山の日航機墜落事故において、全権デスクに命じられてしまう。事故の直前に同僚と谷川岳衝立岩に登る予定だったが、発生で約束を果たせなくなったのだが、その同僚も歓楽街で倒れ意識不明の重体となっていた。同僚はいったい何をしていたのか。悠木は、同僚を気遣いつつその行動を調べながら、上司と後輩記者と衝突して翻弄されながらも記事を作成していくのだが…。
 著者は元新聞記者とのことだが、そのせいかやたらと生々しい新聞記者の現場が描かれている。新聞社内部での権力争いや派閥争い、足の引っ張り合いなどなので、読んでいてあまり気持ちのいいものではないものの、現場の泥臭さがたまらない人には向いている小説だと思う。一番(作品的にいい意味で)げんなりさせたのは、飛行機墜落という事件に対して古株の新聞記者が、自分の浅間山荘事件が色あせて、大きい事件を経験している自分たちの後輩に対する優越感をたもてなくなる、と感じている場面。どこにでも過去の経験を盾に偉そうにする人はいるものだが、もしこうしたことが本当に新聞社内部で見られるのであれば、新聞記者は経験を記事にして売るという意識が肥大化しているのかもしれない。
 なお、横山秀夫『動機』を読んだとき、「こういうタイプのものは、長編の方が面白みがあるのだろうな」と書いたが、これは正しかったな、と。横山秀夫『第三の時効』を読んだ時には、「大がかりな仕掛けを施さねばもはや読者を驚かせられない長編よりも、内容をうまく絞ることが肝要となる短編向きの作家なのかもしれない」と偉そうに書いたが、本作ではそのように感じなかった。自分の経験をうまく活かす形で作品に消化できたからなのかもしれない。


10月28日

 田澤耕『レアルとバルサ怨念と確執のルーツ スペイン・サッカー興亡史』(中公新書ラクレ、2013)を読む。カタルーニャ文化を専門とする著者が、スペイン史の流れからレアル・マドリーとF.C.バルセロナの歴史を、編集者によるインタビュー形式で語ったもの。
 そもそもスペインは近世初期に、カタルーニャ・アラゴン連合王国やカスティーリャ王国などのいくつかの王国が中心となってまとまることで成立した。その後、大西洋貿易を行ったものの、その担い手はカスティーリャであり、カタルーニャは排除されていた。しかし、スペインは国としてイギリスなどの後塵を拝するようになり、さらには1898年の米西戦争の敗北で、キューバを失ってしまう。しかし、勤勉な気質を持つカタルーニャ人は産業革命を成し遂げていた。成功したカタルーニャは、自分たちの製品を売るために保護貿易を主張したのだが、それに対して他のスペイン人は自分たちの利益しか考えていないと反感を覚えていった。反感が高まると自治を訴える声が高まっていったのだが、そのときバルサも自治を指示する声明を出した。これこそが単なる同好会からカタルーニャのバルサとなる契機だった。
 その後、王政が倒れて共和国が成立したのだが、カタルーニャを中心とする共和国側に対して、反乱軍側スペイン内戦で敗れてしまう。反乱軍側のフランコは独裁政権を打ち立てて、1つの強いスペインを打ち立てるために、カタルーニャ主義・文化を弾圧した。しかし、経済的な発展を支えたカタルーニャのブルジョアジーはフランコ側に付いていたため、彼らの郷土愛によってバルサは生き延びることができた。その一方で、体制側のチームとなったのがレアル・マドリーである。フランコはバルサを体制側に取り込もうとしたもののうまくいかなかったので、バルサはマドリーに対して不利な状況で試合せざるを得なくなった。しかし、独裁政権下でも経済的発展の必要から少しずつ規制が緩み始めると、外国人選手との契約の自由度を高めることに成功してクライフを獲得し、カタルーニャ色の強さが少しずつ前面に出始める。フランコの死去と共にスペインが民主化すると、バルサとマドリーはスポーツ的なライバル関係を築きうる状況へと変わったものの、歴史的な遺恨やカタルーニャの自治問題が解決されていないので、過去を思い出させるような反応が起こることは今でもある状態が続いている。
 ちなみに一番最後に編集者によるまとめがあり、それを見れば本書の流れはだいたい分かる。ただし著者は、まとめてしまうと妙にすっきりしてしまい、根底にある怨念のようなものが感じられなくなるので、本書で述べている細部に言及しないと、両チームの特殊な関係は理解できない、と述べている。上記のまとめも怨念めいたエピソードを省いてしまっているのだが、サッカーにそれなりに興味はあっても本悪的に詳しいわけではないので、個々のエピソードに本格的にのめり込めなかったりする。ただし、スペインが第2次大戦後もまだ国情が安定していなかったことがサッカーの関係性から見て取れるのは間違いないので、バルサやマドリーに興味のある人は読んで損はない。
 以下、メモ的に。バルサのエンブレムが黄色に4本筋なのは、歴史的な逸話に由来する。バルセロナ伯ギフレが戦争で手柄を立てた際に、フランク王シャルルが褒美を与えようとしたところ、ギフレは無地である黄色の盾に紋を与えてもらえるように願った。そうすると、シャルルはギフレの傷口に触れると、そのまま4本の指で盾に線を引いたという(30頁)。なお、本書には書いていないが、Wikipediaによればこのシャルルとはシャルル2世のことらしい。なお、バレンシアもカタルーニャ地方であるため同じ模様を用いているものの、アラゴン軍が征服した地域に属するためにカタルーニャ性は弱い(30〜32頁)
 レアル・マドリーの創設者は、カタルーニャ人であるジュアン・パドロスだった。1868年に革命が起こって上が国外へ逃亡したものの、その後に成立した共和制政府は瓦解してしまい王政に戻った。教育が特権階級のためのものでしかなかった状況に危機感を持った教師たちは、私立の「自由教育学院」を創立した。学生たちはイギリスにも留学したが、その際にサッカーも持ち帰ってチームを作った。そのチームの会長がパドロスだった(40〜46頁)。なお、バルサの設立者であるジュアン・ガンペルはスイス人であったが、バルセロナへやってきてカタルーニャを気に入ってそこで暮らし続けた人物である(49〜50頁)。


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