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2012年11月の見聞録



11月7日

 折原一『逃亡者』(文春文庫、2012年(原著は2009年))を読む。同僚の女性に持ちかけられた交換殺人の提案に乗り、会ったこともないその夫を殺した罪で逮捕された友竹智恵子。だが、彼女は警察の不手際から脱走してしまう。時効がくる15年後まで逃げようとするのだが、彼女を逃がした刑事は、執念でそれを追い続ける。しかも、彼女を虐待していた夫も、追いかけていた。はたして、彼女は逃げ切れるのか…。
 冒頭から、智恵子のインタビューで始まるのだが、時効まで逃げ続けている人間がなぜインタビューを受けられるのだろう、と思っていたら、最後の方で理由が明らかになり、この著者の作品らしく、意外な犯人が待ち受けている。叙述トリックはさほど用いられていないので、もしかして犯人が分かる人もいるかもしれない(私は最後まで思いつかないままだったのだが)。


11月22日

 川尻秋生『平将門の乱』(吉川弘文館、2007年)を読む。タイトル通り平将門の乱について取り上げたもので、平将門の乱に至るまでの状況と展開(藤原純友についても取り上げている)、そしてその後の影響について述べている。仕事での必要性から読んだのだが、できるかぎり史料に基づいて述べていくというスタイルがとられている。そのため、門外漢にはやや面白味に欠けるように思えるのだが、手堅くまとめられていると言えるのではなかろうか。
 なお、個人的に一番興味深かったのは、平将門の乱が後世に与えた影響を述べた部分。『小右記』によれば、藤原道長は板東諸国は荒廃し、財政も破綻状態にあると見なしていた。このようなイメージが形成されたのが、平将門の乱であった。さらに、何らかの乱が起こると将門の乱が思い起こされている場合が確認できる。たとえば、安和の変(969年、『日本紀略』「禁中の騒動、殆ど天慶の大乱の如し」)、僧兵の蜂起(1113年『中右記』「将門の乱逆の如くんば」)、源頼朝の挙兵(1180年、『玉葉』「宛も将門の如し」)などである。特に想起されているのは源平の内乱記と南北朝の動乱期であり、将門の乱はそのときの乱の大きさを推し量る基準として用いられている。イメージというものが、長々と生き続けているのは興味深い。
 さらに、将門の乱と武士の発生についても述べている。そもそも桓武天皇以降は、文官を重んじるようになった時代であり、文官として身を立てようとする氏族が増えた。だが、将門の乱をくぐり抜けた者たちが、実践的武術を身に付け、結果としてその子孫たちが活躍してきた、というのが一般的な説明である。これは実践的な部分を重視しているが、上記の通り将門の乱が貴族にとっておぞましい象徴だったとするならば、それを鎮圧した者たちが異能者として遇されたという点も重要だったのではないか、としている。ただし、当時の上流貴族は、藤原氏と源平両氏に限られていたため、彼らは武士の棟梁にはなれなかった(このあたりについては、かなり先鋭的な主張と思われる高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』と重なる部分もある)。とはいえ、各地の有力な武士団として中世まで存続する例も少なくないのだが、合戦にてイエの来歴を述べる際に、将門の乱の鎮圧者を祖にしていることをアピールする場合が多いという(202〜203頁)。イメージが現実にまで影響を及ぼしているということだろうか。
 以下メモ的に。日本刀については、一般的には直刀が変化して反りのある刀が成立したとの見解が一般的だが、東北や北海道で出土する蕨手刀から進化したという説がある。蕨手刀は、柄頭の部分が蕨の芽に似ていることから名付けられた。この刀は蝦夷の騎馬戦術用の武器であり、朝廷の支配の属した蝦夷である俘囚の軍事的利用が盛んになった結果、毛抜形太刀が成立し、日本刀が出現したと見なす(46頁)。ただし、本書でも述べられているように(47頁)、戦場での武器は弓矢が一般的だっただろう(弓が主たる武器だった点については、近藤好和『騎兵と歩兵の中世史』、川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』などを本サイトでも取り上げたことがある)。
 将門が常陸国府を占領したという情報の出所は、板東諸国ではなく、隣接する駿河・甲斐・信濃などのみから発せられている。これは、板東諸国の国衙機能が麻痺していた事実を裏付けており、将門が板東諸国を掌握していたのはおそらく確実と言える(100〜103頁)。
 『将門記』には、反旗を翻した将門のもとに菅原道真の霊魂が現れた同調した、という逸話がある。これはフィクションであるかもしれないが、道真の息子たちが東国の国司に任命されている点を忘れてはならない(106頁)。なお著者は菅原兼茂と藤原玄茂という人物を将門と道真の結びつきの上で特に重視している(ただし、このあたりは細かい議論になるので省略)。なお、八幡大菩薩も将門の即位場面に登場している。これは八幡神が皇祖神であったことと関係している。そもそも皇祖神といえば天照大神だが、古代において伊勢神宮で幣帛を捧げられるのは点のみであった。これに対して八幡神はあらゆる階層の人々の信仰が認められていた。こうした自由な性格により、将門に皇位を捧げる託宣を下し、反国家的な道真の霊魂と共に登場することができた(112〜113頁)。
 将門は、940年の1月下旬に兵士たちを村々に帰らせている。当時の兵士は1年中兵士として勤務していたのではなく、農繁期は農業に従事し、農閑期に兵士として仕えていた。さらに当時の兵士は従類と伴類の2種類に分かれていたが、大部分を占める伴類は、それぞれが従類を率いる小集団の長であり、主人との関係が希薄であるため、不利になると逃げ去ってしまうために、徴兵期間を長引かせると、求心力を低下させる恐れがあった(147頁)。
 犯罪者や謀反人の首を見せしめのために晒すという手法は、明治になるまで行われていた。確認できるその最も古い事例が、将門と純友であり、保元・平治の乱以後に常態化する(169頁)。


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