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2010年1月の見聞録



1月2日

 奥泉光『グランド・ミステリー』(角川文庫、2001年(原著は1998年))上巻下巻を読む。第2次世界大戦にて、日本軍は真珠湾攻撃でアメリカ軍に壊滅的打撃を与える。ところが、帰還した戦闘機のパイロットである大尉はなぜか服毒自殺を遂げていた。同時に伊号潜水艦では、乗組員が艦長に託した遺書が何者かに盗まれた。同じ作戦で潜水艦に乗っていた彼の友人の加多瀬は、その調査を開始する。まもなく彼は、軍部と関係している国際問題研究所に辿り着き、その背後にある陰謀を垣間見る。だが、物語はもう1つの世界と絡み合い、そこからさらなる真実が明らかになっていく…。
 実を言うと、この本を読んだのは1年以上前で、見聞録に書くのを忘れてしまっていたので、内容についてかなりあやふやなところがある。ただ、解説にも書かれている通り、戦時中の日本を舞台にしたミステリを主軸としつつ、国家的陰謀やピカレスク的冒険活劇、さらにはSF的な並行世界など、様々な要素が盛りだくさんになっている上質のエンタテインメントと言える。ただし、その出発点となっている殺人事件と遺書の盗難については、その背景はスケールの大きな話でありながらも、事件そのものは何だか小さな話になってしまっている気がして、やや尻すぼみに感じたような記憶がある。もちろん本編そのものはかなり面白かったので文句はないのだが、最後のオチが少し弱いと全体の印象も下がる、というのが個人的な考えなので…。
 なお、近代科学は時間の本質をほとんど解明していないと言う昆布谷が(上巻・474頁)、橋元淳一郎『時間はどこで生まれるのか』を読んだら、どのような感想を持つのだろうか。それでも彼は第1の書物と第2の書物という並行世界的な世界観を持ち続けるのであろうか。


1月7日

 保谷徹『戊辰戦争』(吉川弘文館、2007年)を読む。「戦争の日本史」シリーズの1冊だが、タイトル通り戊辰戦争を特に軍事史の観点から通時的に取り上げていく。必要があって読んだのだが、戊辰戦争の全体像と個々の戦局について十分に抑えることができるだろう。ただし、あくまでも必要性があって読んだにすぎず、あまりその辺りに興味があったわけではないので、流し読みになってしまったのだが。戊辰戦争を歴史的に意義づけるとすると、新政府のもとでこの戦争が遂行される中で、軍役の動員基準として施条銃砲の洋式軍制が一気に全国的な基準になったことが挙げられる。そして、大名の軍事編成権へと介入して、中央集権化が進む契機にもなった、といったところか。
 ただし、個々の戦争以外の部分では興味深い記述もあったのでメモ的に。戊申戦争時、イギリス海軍は日本軍を凌駕するだけの艦隊が展開していたし、それ以外にもフランス、アメリカ、オランダの艦船も待機していた。それら列強の存在は、この戦争において外国人の生命や財産を擁護することを踏まえる必要があったことを物語っている(95〜97頁)。なお、実際に列藩同盟は公現法親王を担ぎ上げた際に、プロイセンやロシア、アメリカへと奸臣が朝権を恣にしている、との文書を送っているが、ここには外国勢力を自分の側に取り込もうとした、という意図が見え隠れしている(243〜247頁)。なお、プロイセン公使は、1868年に蝦夷地への植民計画を提言している(ただし、ビスマルクはこれを却下した、277頁)。
 戦闘方法は鉄砲戦に移行しても、戦闘が一段落した後には、首取りが始まった。また敗北した側も敵に首を取られることを恐れて味方に介錯を頼むこともあった(220〜221頁)。このあたりは、鈴木眞哉『刀と首取り 戦国合戦異説』(平凡社新書、2000年)で指摘されている戦国時代の首取りが、結局のところ日本の戦争のスタンダードであったことを明らかにしていると言える。なお、敵の遺体の身体を割いてさらにはその肝などを食した、という事例も少なからず見られる。なかには敵兵の勇敢さを学ぶためにその肝を食したという場合もあった。そのため、新政府軍は賊兵といえども同じ皇国の赤子であるという布告を出して、これを禁じねばならないほどであった。よく、日本軍は大戦中に本当に非道な行為をしたのか、ということが問われる際に、日本にはもともとそのような残虐行為をする習慣はなかった、という反論が挙げられることもあるが、こうした例を読むとそうとも言いきれない気がする。だからといって、大げさな誇張や捏造を認めるわけではないのだが。


1月12日

 はやみねかおる『そして五人がいなくなる』(講談社文庫、2006年(原著は1994年))を読む。岩崎亜衣のお隣に引っ越してきた名探偵を自称する夢水清志郎。彼に興味を持った亜衣と3つ子の三姉妹である真衣・美衣は、彼がずぼらで常識外れでまともな記憶力を有していないものの、ずば抜けた推理力を持っていることを目の当たりにする。まもなく、夏休みの遊園地にて「伯爵」を名乗る怪人が天才児4人を次々に消してみせる。颯爽と現れた夢水は事件を解決すると思いきや、『謎は分かった』と言ったまま謎解きを放棄してしまう。夢水に対する非難が高まるなか、夏休みが終わるときに、突如として動き始める…。
 もともとは青い鳥文庫から刊行された児童向け小説を講談社文庫に収録したもの。子供向けとは言え、驚かされるようなトリックではないものの、決して子供だましのトリックではない。それと同時に、児童向けの小説らしく、子供へ向けたメッセージも込められている。子供には自由に遊ぶ時間こそが必要なのではないか、と。夢水の心中にあったのは、事件を解くことではなく、天才児たちへの思いやりだと言えよう。たとえ、フィリップ=アリエス『子供の誕生』(みすず書房、1981年)によって提言されて広く認められつつあるように、子供という概念が歴史的につくられたものにすぎなかったとしても、その状況にある現在において子供にとって何が幸せなのか、と考えることこそが大事なのだな、と感じた。


1月17日

 森茂暁『後醍醐天皇 南北朝動乱を彩った覇王』(中公新書、2000年)を読む。後醍醐天皇に倒幕を決意させた歴史的立場やその政権の特質、統治を特異なものとならしめる芸能や密教への関心、さらには崩御後の怨霊騒動など、多面的な立場から見ていく。少し必要があったので読んだのだが、すっきりとまとまっていて分かりやすい。後醍醐天皇については色々と出ているが、手っ取り早く知るためには十分な内容だろう。著者は、後醍醐の元に様々な人々が集まっている点にその特殊性を強調することにはやや懐疑的であるため、本書のような構成になっているのかもしれない。また、全国を地域別に区分してまとめた訴訟制度や、守護の権限の強化などは室町幕府によって完成され、その後の全国政権を誕生させる上で建武の新政が重要な役割を果たした、と述べている。
 特に興味深かったのは、後醍醐が倒幕へと至る流れであり、彼の即位の状況こそが討幕運動へと至らしめた大きな要因であることが分かる。後醍醐は、異母兄の後二条が崩御した後に天皇へ就いたが、父親の後宇多天皇からすれば、後二条の嫡孫邦良が成長するまでの代役にすぎず、即位時に「一代の主」であることを約束させられていた。後醍醐の母である藤原忠子は、祖父である亀山に娶られて関係を深めていくものの、晩年の亀山に息子が生まれたため、後醍醐よりもこの息子へと寵愛が移っていく。後醍醐が皇位を維持して子孫に継続させるためには、これらの状況を克服する必要があった。さらに、邦良亡き後には、持明院統の量仁が東宮となったため、彼が践祚することになれば、後醍醐はすぐに退位しなければならない。こうした両統迭立の状況を支えているのが鎌倉幕府である以上、自分の立場を維持するためには倒幕へと向かう必要があった。もちろん実際には、他の武士たちの動きも大きいのだろうが、後醍醐の個人的な事情が大きな要因であったというのは重要だということが理解できる。
 なお、後醍醐は宋学を倒幕のための思想的武器としたのではないか、とも述べている。即位前の後醍醐は『論語』の学習会を開いており、「紫の朱うばふことを悪むといふ文」という箇所に関心を持っていた(『徒然草』第238段)。色の世界では朱が正色であり紫が間色なのに、濃艶な紫を好む、という意味であるが、朱を朝廷、紫を幕府であると暗に指していると推測している(142頁)。なんだか根拠が弱いような気もするが、なかなか面白いエピソードではある。
 以下メモ的に。後醍醐は親政開始と共に、京都にて商業活動を行っていた神人が本所の寺社へ納める諸公事を免除することで、寺社勢力の支配権を断ち切り、天皇の供御人として再編成しようとした(86〜87頁)。このあたりは、伊藤正敏『寺社勢力の中世』の話とも重なってくる。
 当時の和歌は単なる文芸ではなく、有力な意思伝達の手段であり、元弘の変にて二条為明が和歌を詠んで自分が関与していないことを訴えて許される、という和歌の用いられ方も普通だった。それゆえに、大覚寺統に近づいた二条派は、後醍醐の儒学的な雰囲気を接種して作風を変化させることで隆盛していく、ということも生じた(129〜131頁)。
 足利尊氏は、後醍醐の供養のための仏事を怠っていない。これは後醍醐の怨霊を恐れたためであろう。その観点から『太平記』を見ていくと、第1部は後醍醐の怨霊を鎮魂するためにあり、それを受けた第2部で室町幕府の成立の物語へ昇華する、とも読みとれる(180〜181頁)。


1月22日

 鶴田謙二『The spirit of wonder』(講談社モーニングKCデラックス、1997年)を読む。SFマンガの短編集。古き良きSFでノスタルジアを感じさせるタイプ。SFてきなガジェットもたくさんあるのだが、女性の造形美も、やや時代を感じさせるが、かなりのもの。この辺りに惹かれるものがあればおすすめ。個人的には、雰囲気が重視されている分、やや説明不足に感じることもあって、それほどのめり込めなかったのだが。とはいえ、これは私にその辺りを受け入れる感受性が欠如しているからにすぎないだろう。そもそも、小説であっても、こういうタイプのSFはあまり楽しめないと思うので…。


1月27日

 杉山茂樹『4−2−3−1 サッカーを戦術から理解する』(光文社新書、2008年)を読む。副題通り、サッカーにおいて選手たちをピッチ上でどのように布陣して、それをどのように機能させれば相手を上回ることができるのか、という戦術論から述べていく。
 著者は、ヨーロッパへ頻繁に出掛け膨大な数の試合を現場で観戦していることで有名だが、テレビ越しに見るのではなく全体を俯瞰して見ないと分からないことがたくさんあるのだな、ということを痛切に実感させられた。もちろん、私のような単に得点シーンや華麗なパスワークを中心に楽しんで見ているような人間が直に観戦したとしても、テレビ越しで見ているのと同じだろうが。
 著者は、サッカーにおける布陣の重要性を主張すしながらも、サッカーは布陣でするものでもないと説く。そこには、「布陣についての理屈を、まるで辞書を丸暗記するように頭に焼き付けているそんな秀才クンたち」(27頁)に対する批判があるようだ。どのようなサッカーをしたいのかによってこそ布陣も決まるのだ、と。それをおさえるために、ここ20年ほどの布陣と戦術の変化、そして弱者が強者を倒すジャイアントキリングの方法論と、それを学ぶべき日本の現状も併せて述べていく。
 まず、現代で重要になっているのは、両サイドでいかに数的優位を作り上げて攻めることができるかである。なぜならば、中央部であれば、360度の全方向からプレッシャーを浴びるが、サイドであれば180度に限られるため前方へ進みやすいからだ。そして、ペナルティエリアの最深部のサイドへと切り込み、そこからペナルティラインの中央部へとマイナスに折り返すことこそ、得点に最もつながりやすくなる。これを行うスタイルの中でも特に現代サッカーの流れを大きく変えたのが、98年ワールドカップでオランダを率いるヒディンクが採用した、本書の表題でもある4−2−3−1の布陣であった。この布陣は4−4−3の4バックの変形でもある。
 ただし、それとほぼ同時に3−4−1−2のスタイルも1997/98シーズンのイタリアで流行していた。華やかな個人技を持つ司令塔タイプの選手からすれば、4−4−2に比べて中央でプレイできるために、自由にプレイしたいファンタジスタの多かったイタリアにおいてはこれがあっという間に中心的なスタイルとなる。「4」の左右が後ろに下がり5バックになることも多かったのだが、それもかえってイタリアの伝統的なスタイルであるカテナチオとの相性も良かった。なお、後藤健生『サッカーの世紀』には、イタリアのこのスタイルを中・近世の都市国家になぞらえて、防御を固める都市と攻めに行く傭兵という当時の戦争のスタイルがその背後にある、という指摘があるが、それを現代に蘇らせたのは3−4−1−2ということになるだろう。
 だが3バックであれば守備的というわけでは決してない。その代表例はオランダである。たとえばアヤックスやオランダ代表が用いる3−4−3は、4バックの中央の1人を前にあげた形で、後ろに六角形と中心点、そして前に開き気味に3人が位置することで、ピッチ全体をカバーできるためにプレスを掛けやすく、またパスコースも他の布陣よりも多い。こうしてトータルフットボールを行うのだが、さらにベンチに下げる選手とは異なるポジションの選手を投入し、残っている選手の位置を変えるという戦術的交代も駆使した。こうした布陣でするサッカーは、スター選手にとっては自由な行動を奪うものとして好まれないために、布陣という戦術と際立った個人能力を融合させるのは難しいと言える。
 さて、イタリアで3−4−1−2が好まれた一方で、同じ頃にあたる1998年以後のスペインでは4−2−3−1の布陣による攻撃サッカーが徐々に根付くようになる。そして4−2−3−1は、敵が3−4−1−2であった際に相性が非常によい。相手の3バックの中央は、システム的にカバーリングや読みで勝負する選手が務めるリベロタイプなのに、自軍のワントップに対してストッパー的な役割を果たさねばならない。となると、両サイドのバックスは中央をカバーしようとする。となると「4」に当たるサイドハーフは、空いてしまった自分の後ろのスペースをケアするために必然的にポジションを下げざるを得なく、攻撃参加ができなくなってしまう。実際に、21世紀に入ると、イタリアはUEFAランキングにてスペインにトップの座を奪われることになる。
 こうした流れに乗ったのが、2002年W杯時におけるヒディンク率いる韓国であった。韓国は3−4−3に近い3−3−3−1を採用していたが、決して5バックになるような守備的なスタイルにはならなかった。もし、相手が攻めてきたときには、バックス3人が横にずれその前列の1人が後ろに下がって4バックになるというオートマティズムが出来上がっていたからだ。さらに韓国は、選手交代によってポジションを変化させることを繰り返して相手を混乱させることにも成功している。
 逆にトゥルシエに率いられたその頃の日本は、フラット3を採用した3−4−1−2であり、攻められると5バックになってしまう布陣だった。上記のように同じ3バックでも、韓国のように攻撃的にもなるし、日本のように守備的にもなりうる。重要なのは何をしたくてその布陣を採用するかにあって、布陣が先にあるわけではない。後任のジーコは、まず4バックを採用したが、中央に4人のMFを固める4−2−2−2というサイドを軽視したシステムで、守備的MFがサイドへおびき寄せられてその裏を何度も突かれた。すると今度は3バックの3−4−1−2に戻したが、2006年W杯では、4−2−3−1を用いたヒディンク率いるオランダに完敗する結果となった。
 本書を読んでいると、少なくとも日本代表のサッカーに何の計画性もアイディアもなかった気になってきて、絶望を感じる。とはいえ私自身も偉そうに言えるわけではなく、得点が入らないのはフォワードの能力が足りないからだ、などと単純に思いこんでいたような気がする。そうではなくて、著者のいうように布陣こそが選手を育てるのであり、選手がどのようにポジションを取ることでお互いに分担してピッチをカバーするのかということを考えねばならない。フォワードの能力やバックスの守備力といった考え方は、著者のいうようにキャラクターで捉えてしまっている。攻撃的MFやボランチ、司令塔といったキャラクターでカテゴライズしてしまえば、ポジショニングを布陣で考えるという重要な思考法が抜け落ちることになる。この辺りには、日本人が野球を重視してきたことにつながるのかもしれない。ただし、アメリカンフットボールが好きなアメリカはサッカーが強くなってきているので、単純にそうとも言い切れないかもしれない。または、10番や司令塔という言葉を浸透させた悪い意味での『キャプテン翼』の影響だろうか。
 なお、2002年W杯の韓国については、誤審やダーティーなプレイについて揶揄されることが多い。確かにそれは事実かもしれないが、そこばかりに目をやるのではなく、ヒディンクが用いたシステムの巧みさから目を背けるべきではないだろう。
 日本が学ぶべきは、弱者の立場から以下に強者の足を掬うかだろうが、その観点からメモ的にいくつか。06/07シーズンのCL決勝トーナメント1回戦で、アーセナルとホームで戦ったPSVは、通常の4−3−3から4−4−2に変えて戦ったのだが、2トップがピッチの真ん中ではなくほぼ両サイドに位置するという変則的な布陣を取った。このためアーセナルの両サイドバックはこれをケアするために攻撃参加にブレーキを掛けられた。さらに、MFはダイヤモンド型に配置して4人のうち2人をサイドに近づけることで、サイドでの数的優位を作り上げた。結果としてアーセナルのセンターバックも中央を空けるはいかないしサイドも気を付けねばならないという状況に陥り、最終ラインでの停滞を余儀なくされた。そしてPSVは、センターに位置したMFがゴールを奪い1−0で試合をものにしてして番狂わせを起こした(43〜49頁)。
 2004年のユーロでオランダと戦ったチェコは、超変則的な3バックを用いた。はじめは4−1−3−2だったが、2−1とリードされた時点で選手交代を行い、右サイドバックの部分をがら空きにして、右ウィングの選手を補充した。チェコは自軍の右サイドから何度も攻撃を受けていたが、そこにマークを付けるのではなく、あえて右サイドの攻撃を強化することで、相手を受け身に回してしまい攻撃を無力化してしまったのである。その後オランダは守備固めに入ったのだが、チェコは再び右ウィングを投入し4−4−2に近い3−4−3へと変化させ、オランダの混乱を誘い、ついには逆転してしまった(218〜231頁)。なお、このときのチェコと同じことをしたのが、2004/05CL準決勝のPSVであり、ミランの右サイドバックであるカフーの攻撃参加に対して、あえてスペースを空けて挑んだ(244〜251頁)。
 その2004年のユーロを制したのはギリシアだったが、カウンター重視の守備的でつまらないチームと評されることがある。しかし、彼らが採用した4−3−3は単純なカウンターサッカーとは異なる。カウンター重視の場合3−4−1−2を採用することが多いが、いざカウンターの場面になったとき、先細りの三角形であるため相手からすると的が絞りやすい。ところがギリシアは、カウンターになった瞬間、3トップが扇状に広がるため、相手からすればすべてを視界に収めにくい。いわば攻撃的サッカーの部類に入る(240〜244頁)。
 なお、相手が2トップを用いてきたとき、4バックでは3バック対1トップと同じく、2対2、つまり1対1の状況がつくられるが、最近はあえてこのリスクを犯すという。なぜならば、もし攻撃に転じたとき、相手の守備の選手が減ることにもつながるからだ。となると、2トップのうちの1人はどちらか一方を引き気味にポジションを置くことになる。リードされている側はリスクを犯して2トップを前線におく場合もあるが、その場合にはゆりかごのようにポジションを動かしてどちらかのサイドバックがカバーに入って3対2の状況をつくり出す(284〜286頁)。
 ところで、1つ気になったことがあって、それは著者が監督になるとどうなるのだろう、ということ。別に、嫌味っぽく「じゃあ、お前が監督をやればいいのに」と言いたいわけではない。そうではなくて、これだけ知識があるのならば、監督をしてもそれなりの采配ができるのではないだろうか、と純粋に感じただけだ。いかなる分野においても、解説者は後付けの説明を偉そうに垂れているだけ、と批判される可能性があり、本書もそのような批判を被る可能性があるかもしれない。ただし、単に蘊蓄を垂れるだけではなく、その素晴らしさや面白さ、逆に陳腐さやつまらなさを語る人も必要だから、すべての人が実践者になる必要もないのだが。もっとも著者にとっては、試合の醍醐味を多くの人に語りたい、という欲求の方が強いのかもしれない。本書はそれに十分見合うだけの魅力もあるので、サッカーに少しでも興味がある人には一読をお勧めする。


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