前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2019年6月の見聞録



6月7日

 友野典男『行動経済学 経済は「感情」で動いている』(光文社(光文社新書)、2006年)を読む。経済学では合理的な指向によって経済は動いていると見なされがちだが、実際には経済学者も含む大部分の人間が自分の感情に基づいた行動を行うと、数多くの実験結果に触れつつ述べていく。経済学の事例が質問として使われているが、心理学の著作に近いように感じた。個人的には、そうした事例が膨大すぎてだんだんと飽きてしまってきたのだが、そうした事例を沢山読みたいと思えば、経済学にあまり興味がなくてもおすすめできる。
 ちなみに、本書を読む限り確かに感情に基づいた判断を人間は行いがちと言える。だからこそ合理的な判断に基づいた経済学の構築が必要なのだ、という批判のために逆に使われてしまいそうな気もする。なお、本書では最終的に脳科学と経済学が結びついた神経経済学が紹介されている。意識の上では私的な判断かもしれないがニューロンレベルでは科学的な法則に従っているに過ぎない、と述べた下条信輔『<意識>とは何だろうか』に基づけば、これも合理的な判断の重要性へと逆手に取られるのかもしれない。
 紹介されている事例を1つだけ。以下のような問題があったとする。「ある致命的な感染症にかかる確率は1万分の1である。あなたがこの感染症にかかっているかどうか検査を受けたところ結果は陽性であった。この検査の信頼性は99%である。実際にこの感染症にかかっている確率はどの程度であろうか?」(12頁)。直感的には、この感染症にかかった確率が99%であると考えるが、実際には違う。感染者は100万人あたり100人であり、99人が陽性と判断される。非感染者は100万人あたり99万9900人である。ただし検査によって9999人は誤って陽性と判断される。陽性と判定されたのは合計で10098人となるが、この中で実際に感染して陽性と判断されたのは99人だから、感染もしていて陽性と判断された人数を、誤って判定された人も含む陽性と判定された人数で割れば0.0098=0.98%となる。つまり、1万分の1の確率でかかってしまう感染症についての検査で陽性と判断されても、信頼率が99%に留まるならば、実際にかかっている確率は1%弱でしかない(46頁)。


6月17日

 山本太郎『感染症と文明 共生への道』(岩波書店(岩波新書)、2011年)を読む。農耕文明の登場とともに、糞便の集積と肥料としての再利用、ウィルスを持つ動物の家畜化によって、人類に感染症が出現する。そうした感染症は人類全体にとっての脅威となるが、そのウィルスに対する免疫を獲得しつつある共同体に対してまったく持たない外部社会にとっては脅威となるため、生物学的な障壁としてその文明を保護する場合もあった。実際にそのウィルスに対する経験をまったく持たない社会へが脅威に晒されて人口が激減する場合も珍しくなかった。
 こうした基本概念に基づいて感染症と人類の歴史を概観していくのだが、広く浅くといった感じに思えて個人的にはあまり面白みを感じなかった。最後の方に、環境に適応しようとしすぎれば、環境が変化したときに大きな不適合を引き起こすように、「感染症のない社会を作ろうとする努力は、破滅的な悲劇の幕開けを準備することになるのかもしれない。」(194頁)とあるものの、大きな意味での文明論以上のものではない気がする。
 以下メモ的に。ウィルス感染症のうち、麻疹はイヌ、インフルエンザはアヒル、百日咳はブタかイヌ、天然痘はウシに起源を持つ(35頁)。
 揚子江流域の開発が黄河流域よりも千年ほど遅れた理由はおそらく風土病が原因である。揚子江は温暖で、黄河ほどには氾濫しないのに、時間差が生じた原因は風土病以外に見出しにくいからである。なお、司馬遷『史記』にも、「揚子江以南の地は湿潤で、成人男子は若くして死ぬことが多い」と記されている(47頁)。
 1816年から1837年のシエラレオネにおけるイギリス人とアフリカ人の死亡率に関して、症例ごとに大きな差は見られないものの、唯一アフリカ土着の熱病であるマラリアやアフリカ・トリパノソーマ症に関しては、1000人あたりの死亡率が、アフリカ人は2.4人だったのに、イギリス人は406.9人と200倍もの差があった。この土着の感染症は「ヨーロッパ人のアフリカ進出に対する生物学的障壁となった。」(99頁)
 近代ヨーロッパ人の医学は、ヨーロッパ諸国に植民地主義を正当化する根拠を提出した。植民地の現地住民の健康を守るという人道主義は、植民地での圧政に対する批判をかわすために用いられた(108頁)。
 ウィルスの人への適応段階は5段階ある。第1に、動物から感染するものの、人から人へは感染しない段階である。第2に、人から人への感染が起こる適応の初期段階である。第3に、ウィルスが人への適応を果たし、定期的な流行を引き起こす。第3に人に適応したため、もはや人のなかでしか適応できない感染症である。これはエイズや麻疹、絶滅以前の天然痘などである。第5に過度に人へ適応しすぎたため、人を取り巻く環境の変化に適応できなくなり、消えていってしまう(178〜181頁)。


6月27日

 深井智朗『プロテスタンティズム 宗教改革から現代政治まで』(中央公論新社(中公新書)、2017年)を読む。宗教改革と呼ばれているルターの活動は、もともとのドイツ語ではReformationであり、再編成という意味である。ルターの活動は、あくまでもローマ・カトリックの手直しにすぎず、新たな宗派の確立を目指したわけではなかった。だからこそ、アウクスブルクの和議でも世俗権力に宗派の選択権があった。世俗権力と結びついて旧来の制度を保ち続けたことに対して反発するプロテスタントは、ルター派を体制化したと批判している。洗礼主義に代表されるこの新プロテスタンティズムは、制度化されていないので聖職者は生活の保障がなされていない。だからこそ、構成員を増やそうと努力する。アメリカにおけるプロテスタントはこの新プロテスタンティズムの流れが強いので、既存のキリスト教組織とは異なる原理主義者の台頭も見られたと言える。
 アメリカではTVエヴァンジェリストのようなキリスト教指導者がなぜ登場するのか、というのが気になっていたのだが、森本あんり『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』では、反知性主義の源流である聖書を自ら読解するという態度から説明が加えられていたが、それに加えて本書では、プロテスタントの2つの流れからも分かりやすく理解できた点で、ためになった。
 以下メモ的に。ルターと宗教改革は、ドイツではナショナリズムの高揚のために使われた。ドイツ統一に際しては、堕落したローマ・カトリックの不正と戦い、近代世界の形成に大きな影響力を持ったと説明された。第1次世界大戦時には、フランス他ロシアとの戦争はローマ・カトリックやロシア正教との闘争であると喧伝され、宗教改革の意義と戦意高揚が結び付けられた(iii〜iv頁)。
 キリスト教の成功は人々へ死についての分かりやすい答えを示したことにある。天国へ行くために、天国への道を知っている教会の教えに従う必要があると説いた。必ず人は死ぬのであり、「天国に行けるという保証のもとに生きたい者たちは、この教会の教えに魅惑されたのである。」(9頁)。さらにそのために悔い改めが重要な意味を持った。告白した罪に対して、司祭が定めた償いを行うことが、天国へ行ける条件とされた。ミサや教会の教義など理解できない一般の人々にはこれが分かりやすかった(12〜13頁)。この背景には、誰かに損害を与えた場合には弁済を求められ、それを支払わねばならないというゲルマン人の法意識がある(14頁)。
 プロテスタントいう言葉の起源は、1521年から29年まで開催された神聖ローマって異国の帝国議会である。宗教問題の決定に「抗議」した帝国貴族を指す議事録の言葉、あるいはそこから生まれた侮蔑的なあだ名であった(40頁)。
 1933年に非ドイツ的な書物の焚書を行った際に、ドイツ語とドイツ文化の重要性を宣言し、ユダヤ的なものとマルクス主義の誤りを指摘して排除を訴えた「一二箇条の提題」が発表された。これはルターの「九五箇条の提題」を意識している。
 21世紀に入る頃から、ルター派教会は礼拝出席者の人数を増やしている。これはドイツ人しかいないルターの教会に安らぎを求めたためであり、ナショナリズムとのつながりが窺える(152頁)。
 2013年にドイツの幾つかの州で、宗教科の授業にイスラームの授業の追加が決議された。この改革をルター派は支持している。確かにルター派は、そもそも宗教的な真理を巡って争いを始めた。他方で、その争いを終わらせ、共存可能な社会システムを作り上げるための努力も行っている。だからこそ妥協を許さないように思えた洗礼主義を排除した(161頁)。
 アメリカでは、この世での成功が宗教的な救済の証明となった。成金や成り上がりが嫌われる伝統社会ではないアメリカでは、与えられた人生で成功したものこそが神の祝福を受けたものだとされた(182頁)。
 アカウンタビリティとは、もともと最後の審判において神の前での自分の人生についての説明を指す。そのために、信仰日記を毎日書いて自分の1日の生活を振り返る。この信仰の習慣の世俗化が企業のアカウンタビリティと言える(185頁)。
 アメリカ合衆国では教会と国家の分離原則が法的に明らかなのに、貨幣や大統領の就任演説に神が登場する。これはキリスト教に限りなく似ているが、キリスト教の神ではなく、おそらくナショナリズムである。アメリカという多民族国家は、アメリカという神のもとでまとまっている。その点で大統領はアメリカの神の大祭司と言える(194〜195頁)。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ