前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2019年5月の見聞録



5月8日

 佐藤稔『読みにくい名前はなぜ増えたか』(吉川弘文館(歴史文化ライブラリー)、2007年)を読む。かつての日本には、名乗り字と呼ばれる名前があった。元服する前の武家や公家の実名に用いられた漢字である。これには一般的な訓読み以外にも、特有の名乗り訓も含まれていた。もともと漢字の読みは日本語の訓に翻訳する行為だったので、多様な訓の存在が許されていたのが、やがて訓読の多様性が狭まっていった。したがって「名乗り訓の発達には、古来の字義が人名の分野に留めている面もあると見たほうが適切であると思う。」(134頁)とする。ただし、なぜそう読むのか分からない名乗り訓もすでに古くから存在していた。別にキラキラネームを擁護するつもりはないが、昔から変わった名前を付けたがる日本人は多かったということだろう。たとえ古くには何らかの意味を持っていたとしても、それだけで由緒正しくてよい名前とは言えないのと同じである。読みにくい名前が増えたのは、日本がもともとそう文化だったからということになる。
 以下メモ的に。パオロ・マッツァリーノ『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』にて「頼朝の「朝」の字に「とも」という読みはなく、名前専用に勝手に作り出した読みである。」と述べられていたが、荻生徂徠『南留別志』拾遺には、「朝」を「とも」と読むのは、朝廷も公も同意であることと見なして、公の字の訓を朝の訓に拡張したのであろう、と説明している(124頁)。
 吉田兼好『徒然草』の第116段では、見慣れない文字を使いたがることは浅はかであると戒められている(28頁)。
 明治に入って最終的には平民以上のすべての人が名字を名乗らねばならなくなった。しかし俗世界から決別する意図を持って名字を持たなかった僧侶は、抵抗の意志を示すべく、釈、竺、浮屠などを名字として採用したり奇抜な名字で煙に巻いたりした(43頁)。


5月18日

 林純次『残念な教員 学校教育の失敗学』(光文社(光文社新書)、2015年)を読む。新聞沙汰になるような教師は論外だが、教え方を知らず、指導もきちんと出来ず、読書や勉強も不足している残念な教員が数多くいる現状を、現在は関西の中高一貫校で教えている自身の経験を中心に指摘していく。
 確かに著者はすばらしく頑張っている。生徒に対する指導の経験談も、若干自慢めいているものの、特に他の教員に対する批判は改善すべき点として事実なのだと思う。生徒に対する指導も、自身の失敗談にも触れながら、生徒の感想も盛り込まれているので、それなりに客観性もあるとは思う。ただし、教育のために学校だけでなく自宅でも仕事をして、毎日3時間しか寝ず、一年間で300冊本を読み、という生活をしている著者は、満足な私生活を遅れているのだろうか。こんな感想は余計なお世話かもしれないが、著者の仕事ぶりを他者に倣うように薦めることは、自分の時間を殺してサービス残業と過労死へとつながる気がする。もちろん、生徒を学びに向かわせるという教師としての職業倫理と実際の指導を疎かにしてはいけない。ただし、教員自身の生活を犠牲にするような本書での指導が必要だとするならば、そもそも学校教育の現場そのものに制度的な問題があるのではないかと感じてしまった。
 以下メモ的に。2011年に小笠原喜康が行った教員向けアンケート調査によれば、教育関連の本を年間20冊以上読む教員の割合は、勤務年数2~10年の教員で9.9%、11~20年の教員で15.7%、21~30年の教員で22.8%、31~40年の教員で35.1%え、合計23%となっている(25頁)。この調査に基づき油布佐和子は、勤続年数10年以下(なお油布は「10年未満」と記している)の68.1%、11年以上20年未満の59.5%の年間読書数は10冊未満と報告されている、と述べている(26頁)。
 文部科学省の「平成25年度学力テスト分析」における土曜日や長期休業中の補習に関する効果の報告によれば、毎週土曜日に補講を行った学校の国語の正答率は66.2%であり、行っていない学校は63%であった。したがって統計的な差異はなかった(249頁)。なお著者は、自身の体験談として、補講を行っていた際に生徒から、ここで聞いた方が分かりやすいから、授業は聴かずに寝ている、と告げられた経験があるという(同頁)。


5月28日

 赤木かん子『子どもに本を買ってあげる前に読む本 現代子どもの本事情』(ポプラ社、2008年)を読む。どのような本を面白いと思うかには世代差があり、子供たちにはそれを意識してどのような本を薦めるべきかについて述べていく。なお著者は、変化しつつあった小学生の読書は、森絵都『カラフル』(1998年)とJ.K.ローリング『ハリーポッター』(1999年)によって新しい時代に入った、としている(68~69頁)。若者の読書については、最近の若者は軽い本しか読まなくなったという指摘があるが、毎年小学4年生から高校3年生まで1万人単位での調査を行う学校読書調査(外部リンク)を確認する限り、少なくとも読書量は21世紀に入って増加傾向にある。もし軽い本しか読まないというのであれば、著者のように若者の状況を把握した上で、いかに読書の世界へと招いていくのかの指導こそが必要であろう。
 以下メモ的に。本好きにはリアル系と空想系の2つのタイプがある。リアル系が好きならば空想系が読めない場合があり、逆もまた言える。著者の体感としては、男子は8割くらい、女子は7割くらいがリアル系の方が好きであるという(21頁)。なお著者の母親は、著者に向かってシャーロック・ホームズは実在する人間かどうかを尋ね、実在しないと分かると興味がないと言ったそうである(26頁)。なお、小学4年生までは作者という概念が分からず、ぐりとぐらは作者の創作ではなく本当にいると考える。なので、2つのタイプの区分に分かれていない(32頁)。
 現在の若者が古い本を読みにくい原因として、内容の古さのみならず、活字体の古さがある(35‒59頁)。新装版とは新しい組版を使っているという意味である(46頁)。学校図書館は、人数を規準とした蔵書数を意識するために古い組版の図書でも廃棄しないという現象が生じているらしい(49頁)。絵本の絵も時代を経て古くささを感じるようになる(56~57頁)。
 絵本において、1976年の『ぼくがほんとにほしいもの』において初めて、悪気はないが子供を守れない両親が登場したとする。そのうえで2002年の『ぼく、ムシになっちゃった』では、両親が子供に「ちゃんと見てなくてごめんね」と謝る親が初めて登場したとする。昔の絵本の親は自分が子供を守るのは当然だと疑っていなかった。しかし、ミサイルから子供守れないと親は考えるようになり、だからといって守らないわけにはいかないじゃないか、という意識が反映している(73~74頁)。このあたりは、ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』での、子供の成長を描きにくくなったという指摘に重なるように思える。
 『ハリー・ポッター』の主人公であるハリーは、自分自身はぼーっとしていても、大人たちが事態を解決してくれる。これに対して『ゲド戦記』の主人公であるゲドは、自分自身で苦しみながら努力して困難を乗り越えていく。いまの子供は、『ハリー・ポッター』を楽しめても、『ゲド戦記』は楽しく感じない(80~84頁)。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ