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2019年4月の見聞録



4月8日

 ライアン・エイヴェント(月谷真紀訳)『デジタルエコノミーはいかにして道を誤るか 労働力余剰と人類の富』(東洋経済新報社、2017年)を読む。
 産業革命期に機械が人間の仕事を奪うとされたが、結局のところそれによってもたらされる新たな仕事が現れて、高齢労働者がいても稼いだお金を消費に費やすことが財やサービスの需要を作り出し、そうした結果とはならなかった。しかし現代社会ではデジタル革命による自動化、インターネットの急速な発展による膨大な情報の入手性、グローバリゼーション、スキルの高い少数の人間の生産性向上により、労働力が余る時代となっている。ただし、そもそも社会や下位者が上手くいくノウハウはその共同体で蓄積されてきた社会資本(ソーシャルキャピタル)によって決まる。共同体の構成員が社会資本を共有することでうまくいくのだが、ただしある環境で抜きんでるのに最適化されてしまった社会資本は、まったく異なった流れが必要となったとき、その脅威には上手く対応できなくなってしまう。たとえば、紙媒体のジャーナリズムがウェブ化に上手く成功していない事例がその例である。
 人類全体を豊かにするために現代社会がどのように対処すべきなのかについて、現在の政策のほとんどに何らかの欠点があると示されており、じゃあどうすればいいのか、と途方に暮れてしまう。たとえばベーシックインカム。もし、その額が多ければ下層にいる人々は働くのをやめてしまうし、少なければ「稼ぎが平均所得の成長に追いつけない低スキル労働者は貧困から這い上がれない」(283頁)。働かなくても住む豊かさがある人にやりがいのある仕事を提示するとなれば、もはや宗教めいたものになってしまいかねない。どうすればいいのかで途方に暮れてしまいそうになるが、現在の労働をめぐる問題をとりあえずおさえておくのには便利だと思う。
 なお、本書のタイトルから想像したものを期待していると少し期待はずれになってしまうかもしれない。確かにメインタイトルに関連する話もあるが、デジタル化やAIによる働き方の変化といった点を突き詰めていくわけではない。むしろ主題となっているのはサブタイトルの方だろう。そもそも本書の原題もThe Wealth of Humans, Work Power,and Status in the Twenty-First Centuryなので。
 ただし、一箇所だけ興味を引かれたのが大学教育に関する記述。オンライン教育では討論は出来ないが、凡庸な教授がありふれた教材を使って大教室でしている講義は、オンライン講座に簡単に置き換えられる、と述べている(98〜99頁)。「反転授業では、学生がオンラインでほとんどの授業を受けてから、討論したり分からないところを教授やアシスタントの大学院生の指導を受けたりするために教室に出向く」(99頁)ともある。答えの決まっている問題ならば反復学習を自習で行えばよいし、ただ持論を展開するだけならばネットで行えばよいので、大学教員も高をくくっていたら、あっという間に置き換えられてしまうかもしれない。
 以下メモ的に。コンピュータの世界を刷新したのは、第2次世界大戦だった。暗号解読や核爆発のモデル計算を行える新型機の開発を、各国が競って進めたためである。結果として構成部品の小型化を進めるコンピューター産業が誕生していく(45〜46頁)。
 アメリカでは1980年頃、平均的な大卒の初任給は高卒よりも40%高かった。2000年にはさらに倍近くまで開いている。ただし、分野による違いがある。高卒の給料と比べた場合、英文科卒であれば1.5倍程度だが、経済学部ならば2倍、電気工学卒は2.5倍になる(75〜76頁)。
 1996年から2000年までのシリコンバレーの起業率は、アメリカの他の経済圏のそれを下回っている。当時は人手不足に悩んでいた大企業の労働条件があまりによく、飛び出して新しい会社を始めることがそれほど魅力的に見えなかったためである(110頁)。


4月18日

 宇佐美寛『教育哲学』(東信堂、2011年)宇佐美寛『議論を逃げるな 教育とは日本語』(さくら社 2017年)を読む。著者による他の本と共に、細部へのこだわりこそが本質へ迫る指摘となりうる事例がいくつもある。たとえばカギカッコによる引用に際して句点を省略してはならない、という指摘。たとえば夏目漱石の『坊ちゃん』における「西の方だよ。」「箱根の先ですか手前ですか。」を引用するにあたって句点を省略してしまえば、「「西の方だよね。」や「箱根の先ですか手前ですかが気になります。」の傍線部分を省いて引用した可能性を否定できないのである。」(『議論を逃げるな』、39頁)とする。著者がしばしば訴える「勝手にまとめるのではなく引用すべし」という主張の正しさを、細かい点からさらに深めたわけである。
 なお、2冊の本について一緒に書いているのは、この2冊で触れられている教育哲学の研究方法について気になったから。両書を読む限り、「教育哲学会の大会で行われる研究発表のほとんどは、西洋人の教育思想の単なる祖述・紹介にすぎない」(『教育哲学』、87頁)らしい。学問研究は先人を批判して新たな見解を提示するものだと思うのだが、そうではないというのは個人的には驚きだ。ただし、教育史学に関してこういう指摘もある。「教育史を専門としてきた大学教員は、日本の教育現実に対処する教育学においては、かなり無知である。教育実践も調査も実験する気にはならないようである。」(『議論を逃げるな』、69頁)。「「歴史を知るからこそ、現実が分かるのだ。未来への見通しも出来るのだ。」というお題目も所詮はお題目にすぎない。現代の技術を洗練させるために、過去のすでに古くなった技術を学ぶ必要はない。例えば医学において「歴史情報は不要だろう。私はこの十年、病院の世話になり続けである。医者と知り合った。彼らは、そんな歴史情報には無関心である。」(『議論を逃げるな』、65頁)。だとするならば、実際の政治や外交に役立たないような歴史学は所詮趣味にすぎないのであろうか。現代史ならばともかく古代史が、役に立つ場面は皆無である。私自身は、以前から述べているとおり趣味であると考えている。役に立つことはほとんどない、ただし役立つ場合もあると考えてはいる。それでも、こうした主張の前には、実用性がなければ存在意義がないくらいまで追い詰められてしまう気がする。
 なお、後者にはアクティヴ・ラーニング批判も収録されている。私自身も、この言葉が単なる新しい言葉を持ち出しただけで、画期的な教育方法であるようには思えない、とは感じていた。もしかするとアクティブ・ラーニングに基づくこれまでとは明らかに異なる授業法の具体例を示しているものがあるのに、不勉強で知らないだけという可能性もあるのだが、教育の理想論めいた総論や概念を述べるに留まったものしか見たことがない。
 なお、amazonのレビューの指摘(ワッフル「期待したんですが、主題のアクティブラーニング批判は空振りだと思います」)によれば、「active learningという教育用語が90年代から存在します。Wikipediaの英語版にもactove learningという項目が2006年に作られました。」とのことだが、これに対するコメントに、「「Active learningという英語はない」との言は見当たりませんでした。「ナンセンス」とは書かれていますが。」とあるのが正しいだろう。確かに「「アクティブ・ラーニング」という不出来で、つじつまが合わない英(米)語だから、定訳も付けられない。」(11頁)という文章はあるが、そのような言葉そのものがない、とは言っていない。


4月28日

 パオロ・マッツァリーノ『怒る!日本文化論』技術評論社(Art of living生きる技術!叢書)、2012年)を読む。他人に対して怒ることや叱ることは、侵害されている自分の権利を訴えるための交渉だと考える著者が、怒り方や叱り方のコツを述べていく。たとえば、電車の中で音楽を聴くなというのではなく、余計な音を聞かないこちらの権利が侵害されているので、そのための交渉をするというわけである。まとめを引用してしまえば、「気付いたら、すぐに。」「真面目な顔で。」「具体的に。」「声を荒げない。」「乱暴な言葉を使わない。」「気が向いたときだけでも構わない。」「完璧な結果(解決)を期待しない。」「主張の一貫性にこだわらない。」「深追いしない。」「暴力からは逃げる覚悟で。」「正義の味方には、なってはいけない。」(160〜161頁)。正義をなそうとするよりも交渉と考えれば,確かに人に対して叱りめいたことを言うためのハードルは下がるだろう。ちなみに、公共の場で騒ぐ子供を親が叱るのは、周囲の人たちに対するパフォーマンスであり、それによってまわりの人たちも「叱っても静かにならないならば仕方がない」とあきらめもつきやすい(38頁)、というのも交渉と考えれば分かりやすい。子供を叱ることも、子供との交渉という意味合いを少し含ませるようにしてみればよいのかもしれない。
 なお、日本人は本当に公共の場で人を叱っていたのか、という文化論も含まれていて、二部構成のようになっている。こちらに関しては以下メモ的に。
 1956年4月3日の讀賣新聞は、生徒が車内で騒いだり走り回ったりして他の乗客に迷惑を掛けても引率の教員が注意をせずに放っておくケースが目立つようになった、と報じている(14〜15頁)。なお、同じような記事が1941年6月10日の朝日新聞夕刊の投稿欄にも載っている(15〜16頁)。1924年の讀賣新聞の投書欄に70歳の女性の投稿として、近頃は私のような年寄りが電車に乗っても若い人たちが席を譲ってくれない、というのがあった(22頁)。その2日後には反論の投書が掲載され、「席を譲ってくれないとグチる七十婆さん、大体からあなた方は図々しすぎる。席を譲れといわんばかしにその面憎い顔を遠慮もなく出された日には当方でも少し嫌気がさして意地が出る」という内容であった(166〜167頁)。
 1916年発行の芝雷山人『電車百馬鹿』という本には、色々なマナー違反を挙げているが、その中に「群衆中で化粧している馬鹿」というのが挙げられている(188頁)。"Is putting on makeup in public a signal that a woman's a prostitute?"<Lonely Planet>では、「ヨーロッパでは人前で化粧をすると売春婦と間違われるのか」という質問がなされている。これに対して、ヨーロッパ人は質問者をばかげていると責め立てるが、カナダに住んでいる質問者は、日本人がそう信じていると聞いたので本当かと思った、と弁明した。ヨーロッパでは人前で化粧すると売春婦と思われる、という説は日本人が発進した都市伝説だった可能性が高い(200〜202頁)。


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