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2019年2月の見聞録



2月7日

 井上智洋『ヘリコプターマネー』(日本経済新聞出版社、2016年)を読む。ヘリコプターから現金をばらまくかの如く、国民に直接カネを渡してマネーサプライを大幅に増やすことこそが景気対策に有効であるとする。実は、本書で行われている議論についてよく分かっていないところが多くある。ただし、一つだけインパクトがあったのが、政府の収入の税金・国際・貨幣発行益のうち、三つめをベーシックインカムとして配分せよ、という部分。貨幣の発行は民間銀行が行っていて、銀行の利益となっていて国民に還元されていない、ということになる。となると、要は貯金による利子をあきらめて、銀行を大幅に縮小することになる。これは銀行からの猛反発が出ると思うので、著者はある程度の言い訳を行ってはいるが、これがきっかけで銀行からの貸し付けがこの版元に厳しくなることは生じないのだろうか、などと邪推してしまった。それとも銀行はそれほど心が狭いわけではないのだろうか。
 以下メモ的に。中央銀行制度が整備される前の時代では、各民間銀行がそれぞれ銀行券を発行していた。こうした中で1694年に設立されたイングランド銀行は、政府への貸し付けを主たる業務とした民間銀行だったが、政府への貸付額と同じ額まで紙幣を発行する権利が与えられた。やがて一般の民間銀行はイングランド銀行の紙幣を保有するようになり、イングランド銀行は銀区の銀行と指摘のするようになる、こうして自然と中央銀行の役割を担うようになった。やがって1844年のピール条例により、イングランド銀行が紙幣の発行を独占するようになる(54〜55頁)。


2月17日

 松永正訓『子どもの病気 常識のウソ』(中央公論新社(中公新書ラクレ)、2017年)を読む。タイトルが示す内容についてのオンラインでの連載を、加筆修正してまとめたもの。本書は小児科医が書いている点で信頼性は高い。そもそも、ネットの情報に誤りがあってもその真偽を確認できないのは、明確なソースが挙げられていないという理由が大きい。その意味で本書も何らかのソースを挙げてくれれば、より信頼性が高まると思うのだが、さすがに煩雑になってしまうからやめたのだろうか。その点で、エミリー・オスター『お医者さんは教えてくれない妊娠・出産の常識ウソ・ホント』は徹底していたなと思う。なお、病院はどんな病気も治せるわけではない、と頭では分かっていても、患者とその家族は少し上手くいかないと責めてしまいがちなのだが、医者としてのそうしたことへの対応の苦労がにじみ出ている気がした。
 以下メモ的に。風邪を引き起こすウィルスを殺すための薬は存在しない。したがって、風邪がひどくならないうちに受診すれば早く治るというわけではない。風邪薬を飲んでも飲まなくても、免疫細胞がウィルスがウィルスを駆除するまで風邪の症状は続く(48〜49頁)。風邪を治すのに可能なことは「暖衣・飽食・睡眠・衛生」という基本的なことをきちんと行うしかない(52頁)。なお、体温は朝は下がっていて、午後から上昇に転じる。したがって、子供が24時間平熱をキープできてから通園させるべきである。そうでないと悪化してしまう(74〜75頁)。
 子供が真夜中に熱性けいれんを起こした場合、普通の熱性けいれんならば5分以内に収まって、気持ちよさそうに眠るかぱっちりと目が醒める。5分を超えたら救急車を呼ぶことを考慮すべきで、保険証などの準備をする。10分を超えたら救急車を呼ばねばならない。この場合には、脳炎やインフルエンザ脳症の可能性が高い。きちんと早めに対処しないと、脳に大きなダメージが残る(65〜66頁)。
 クル病の予防のためにも、夏ならば涼しい時間帯に10分、冬ならば暖かい時間に小1時間、日光を浴びるべきである。なお裸になる必要はない(101頁)。
 インフルエンザにかからないためには、加湿器を使って湿度を55〜60%に保つ必要がある。空気清浄機は、花粉症やインフルエンザを完全に防ぐことは出来ないので、補助的な役割と思っておいた方がよい(102頁)。
 鶏卵を食べると顔が赤くなる子供は多い。ただし、そもそも1歳半までくらいまで鶏卵を食べてもアミノ酸のレベルにまで消化できない。子供の腸が成人なみの強さを持つのは1歳半くらいと考えられている。実際1歳半くらいまで卵アレルギーの大半は消える。ただしそれまで卵を控えるのはかえってよくない。生後7〜8ヶ月まで待ってから、固ゆでのゆで卵の黄身をひとかけらだけ食べさせる。初日はこれで終わらせる。2日目にはふたかけら、と徐々に量を増やし黄身1個を食べさせる。次に固ゆでの白身をひとかけら食べさせる。1歳までに全卵の2分の1が食べられれば優秀である。スープに溶き卵を入れる際には、がっちり加熱する必要がある(132頁)。
 ステロイド軟膏は「人差し指第1関節の長さ(約0.5g)で手のひら2枚分」のルールを守っていれば副作用は起こらない。ステロイド軟膏に危ないイメージが付いたのは、1990年代に大手メディアがバッシングを行ったことに一因があるのだろう(144頁)。
 悪くない黄疸では、肝臓から胆道を通って胆汁が腸の中へ流れるので、便の色が黄色から茶色になる。胆道閉鎖症は、胆汁が腸が流れないので、便に色が付かず、白・灰白色・薄いレモン色になる(なお、代わり尿の色が濃く褐色になる)。このチェックは生後2週と1ヶ月と1〜4ヶ月の3つの時期にチェックせねばならない。この病気は先天性ではないためである(163頁)。
 異物を飲み込んだ際に、最も狭いのは食道であり、胃まで到達した異物はたとえ釘のようなものであっても、早ければ48時間以内、遅くとも1週間以内に排出される(235頁)。小さいのに危険なのは複数個の磁石であり、良くあるのは貼るタイプの磁気治療器である。2個以上の磁石は、小腸の壁を隔てて腸と胃をがっちりくっつけてしまい、腸捻転の原因になったり腹膜炎を起こしたりする。なので、磁気治療器を2個以上飲み込んだら即座に入院である。アルカリボタン電池も危険である胃酸によって金属が溶けて、中のアルカリが出てきて、胃の粘膜に損傷を与えるからである。これも病院で磁石を取り付けたチューブによって取り出してもらわねばならない(236〜237頁)。リチウム電池は最も危険であり、食道に引っかかって放電するため、30分から1時間で食堂の壁に損傷を与える。なので、救急車を呼ぶか、掛かり付けの小児科で順番を待たずにすぐ診てもらうべきである(238頁)。


2月27日

 笠谷和比古『武士道の精神史』(筑摩書房(ちくま新書)、2017年)を読む。タイトル通り武士道について論じたもの。NHKのラジオ文化講座で述べたものをまとめているので、武士道の性質や歴史的変遷をトータルで述べているというよりは、武士道に関する個々のテーマをトピック別に集めた感が強い。武士道以外に関する記述に興味深いものが多かったりする。
 以下メモ的に。1642年に発行された『可笑記』は、このような馬鹿な真似をするとお家が潰れる、という批判的な内容が記された武士の教訓書である。この作者である、斎藤親盛は、最上家の改易に伴い主君と禄を失い、再仕官も叶わなかったので、教養を活かして文筆で生計を立てるべく、この書を記した。『徒然草』を模しつつ無能な武士の姿を批判的に描いた本書は、好評を博して何度も刷りを重ね、近世小説の祖型をなしたと評価されている。本書には武士道という言葉が10箇所ほど出てきており、「命を惜しまないことばかりが有能な侍ではない」と明言しており、人間としての徳義を磨き涵養することこそが武士の心得と述べている(76〜79頁)。
 平和になった江戸時代において、農民の安全を守るという大義名分を失った武士たちは、年貢を納めさせる理由として行財政の分野の役職に目を付ける。ただし、ポストは武士全員に用意されたわけではない。武士であることによって禄や知行はもらえるものの、無役と記された。こうした変化が武士道の観念の変容と関係していると思われる(84〜86頁)。
 薩英戦争において薩摩藩は、炸裂弾であるペキサンス砲によって応戦した。3000メートルの射程距離を誇る攻撃で、直撃を受けたイギリス艦隊の旗艦ユーライアラスの艦長と副館長は即死した。イギリス海軍は砲戦を避けて鹿児島の町を砲撃によって焼き討ちにして帰って行った。つまり、薩英戦争は薩摩藩ではなくイギリス軍の方がダメージは大きかった(94〜95頁)。井上勝生『開国と幕末変革(日本の歴史18)』にどう書いてあったのかを調べると、イギリス軍は戦死者13名を出し、薩摩藩は死傷者を出さなかったものの、「市街の消失など、被害は甚大であった」(291頁)とあった。
 幕末の水戸藩はヨーロッパの最新式の軍事技術の最先端であった。当時の藩主徳川斉昭のもとで欧米の文化と技術を説いた会沢正志斎は1825年に記した『新論』にて、アジア以外の世界を支配したヨーロッパ人は、アジアで植民地化を進めており、中国や朝鮮、日本にも必ずや来る、と述べている。これはアヘン戦争よりも15年前の指摘である(98〜99頁)。
 『葉隠』には、主君の名とあるならば、まずもって謹んで承るべきである(「仰せ付けにさへあれば理非に構わず畏まり)という文章に続いて、納得がいかなければ何度も訴えかけるべし(「さて気にかなわざる事はいつ迄も訴訟すべし」)、とある。したがって、ただ黙って従うことが忠義ではないと説いている(104〜105頁)。
 江戸時代において、武士は大刀と小刀の二本差しであったが、初期には一般庶民も50センチ程度の脇差しを腰に差していた。護身用のためである。一般庶民が町中で脇差しを指さずに丸腰で歩くようになったのは、元禄時代以降のことだろう。それ以後も旅に出かける際の護身用やハレの日の正装として刀を携帯する場合もあった(151〜152頁)。
 江戸時代に盛んに行われた頼母子は、参加者がそれぞれ出資額を持ち寄りくじに当たった人物がそれをすべて得ることができるというシステムである。ただし、参加者の人数と同じ回数だけ出資は行われ、くじに当たれば次からはくじを引く権利を失う。つまり、1人1回はまとまったお金を手に出来た。それによって新たな事業を興したりしていた(167〜168頁)。
 江戸時代の三行半は、夫が妻を追い出すために使われたのであって、当時の女性の弱さや従属性を示す代名詞のように言われがちである。しかしながら、むしろ妻が自由を獲得するために夫から奪い取る離婚確認書であり、再婚許可証というのがその本質であった。既婚女性が三行半をもらわずに夫以外の男性と駆け落ちすれば不義密通で死刑であるため、どうしても三行半が必要だった(187頁)。
 江戸時代までの忠義は、自己の主君に対するものであった。ところが明治時代には、忠義は天皇ただ一人に対して果たされるものとなった。そのため赤穂浪士の物語がネガティヴに捉えられることもあった(194頁)。


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