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2019年1月の見聞録



1月8日

 バーナード・ルイス(白須英子訳)『イスラーム世界の二千年 文明の十字路中東全史』(草思社、2001年)を読む。タイトル通りイスラーム世界の歴史や文化の特徴を扱っている。どちらかというと概説的で、イスラームに対する何か本質的な考察を期待していたので、少し肩すかしではあった。とはいうものの、これはこちらの期待の仕方がやや間違っていたにすぎない。興味深い知見も散見されるし、学術的な研究に基づいたイスラームの歴史や中東の文化をおさえるにあたっては便利だろう。
 以下メモ的に。3世紀における古代地中海の経済的な衰退は、アラビア半島でも貨幣の発見量が次第に減っていくことからでも分かる。さらに4・5世紀になると、ローマもペルシアも、アラビアの砂漠とオアシスを経由する経路を、コストが掛かり危険だという理由で顧みなくなる。こうして隊商は通らなくなって貧困化していく(75~76頁)。ただし6世紀になるとペルシアとビザンツの対立の中で紛争の焦点から注目を浴び、アラビアの住民は、両者から支持を求められたり、買収されたりするなどうまい汁が吸えるようになる(76頁)。
 中東では、農民と牧畜業は一体化しておらず、両者は常に対立する関係にあった。「カインとアベル」の物語でも、羊飼いで弟のアベルと対立した農夫の兄であるカインは、弟を殺している。ただし、中東の歴史では逆の場合が多い(241頁)。
 アラブ人は王制に対して敵対意識があり、合意で決まった首長に統治される方を望んだ。アラビア語で王を意味するマリクは、神聖な形容語句であり、その称号には神聖な義務が付加されている。だが人間界に対して用いられた際には、悪い意味に解釈される。『クルアーン』のなかでも、第18章第79節などを例として、不正で暴君の原型とみなされたエジプトの王を指して、この言葉が頻繁に使われている(204頁)。
 モーセやイエスが宗教的なマイノリティの指導者であったのに対して、ムハンマドは預言者としての権威ばかりでなく、政治的な権力も行使する実力者であった(87頁)。
 「イスラーム」という言葉は、ムスリムにとって厳密に言えば、天地創造以来のたった1つの真なる信仰を意味しており、その意味ではアダムもモーセも、ダビデもイエスもムスリムということになる。やがて、ムハンマドの教えを土台にしてつくりあげた神学、法律、慣習の絡み合った総体を指すようになる(311~312頁)。
 ムスリムの法律によれば、異教徒、背教者、反徒、山賊に対する戦闘は合法とされる。ただし、ジハードと見なされるのは最初の2つだけである。奴隷化の対象となるのは非ムスリムのみであり、ムスリムはたとえ反徒や山賊として征服された者でも除外される(331頁)。
 ムスリムにとって神を中心にした共同体は人類に対する神の意図の具体的な表現であり、その歴史は神の摂理によって導かれた神の意図の成果を示すものであった。そのため、正確な歴史の知識は何よりも重要であった。ただし、その歴史とはムスリムの歴史であり、神の啓示を認めず掟に従わない非ムスリム国家や共同体の歴史には同等の価値を見出さなかった。そこには、キリスト教徒もゾロアスター教徒も含まれる(370頁)。
 ビザンツ皇帝レオ6世は、戦線の心情とその軍事的価値に注目し、キリスト教徒も同じような方式を取り入れてはどうかと提案までしている。846年のアラブ艦隊によるイタリア侵略の後に、教会会議は、すべてのキリスト教君主にキリスト教徒の敵と戦う連合軍の派遣を呼びかけることを決定した。その際に教皇レオ4世は、異教徒と戦って死んだ人たちに永遠の命を与えることを約束した。このような考え方は、ムスリムのジハードの概念を反映しており、後の十字軍の先鞭を付けることになる(333頁)。
 アラブ人は征服したそれぞれの国の砂漠と耕地の境目に新たな町を建設していき、軍事基地と行政センターを置いた。アラビア語で軍営都市を指す「ミスル(複数形はアムサール)」は、もともとは古代セム語の「境界」を意味する言葉に由来しており、境界地帯もしくは地域を指す単語だったようである。この「ミスル」という語が、たまたまエジプトを指す語として使われている(91~92頁)。
 イスラームでは、奴隷はもはや人的財産としては扱われず、法的にも倫理的にも人間として認められた。女性は、一夫多妻制や内縁関係の枠組こそあったものの、財産権が一応は与えられていた(114頁)。
 専制君主がいかにして信頼できる軍人を見つけ出すかという問題に対して、ムスリム君すたちが取ったか解決法は、子供のころに捉えられた外国生まれの奴隷を兵士にするという方法だった。そうした兵士たちは、地元の臣民に何の親近感も血縁関係もなく、自分が訓練を受けて編入された軍隊以外に忠誠を誓う者がいない。こうして奴隷兵士が新たな軍人階級を形成して、専制君主の主権を脅かすのを妨げた。ただし、奴隷兵士たちが部族連隊集団を作ったり、出身地の家族と連絡を取り続けて、親類を呼び寄せるようにもなったりもするなど、この制度も完全ではなかった(281~282頁)。
 アッバース朝以後にはカリフの権力は衰退する。真の支配者は総督である「アミール」となり、さらに「アミール・アルウマラー」、つまり総督の中の総督となる。これにはイスラーム以前のイランにおける称号の使い方が反映している。イランでは、司令官たちの司令官、司祭たちの司祭、王の中の王という呼び方が用いられていた。イラン式の宮廷の作法や肩書きが、イランの協定書の翻訳を通じて、アッバース朝の宮廷に大きな影響を及ぼしていた(211~212頁)。ちなみに、ムハンマドは、誰も自分自身を「王の中の王」と呼んではいけない、そう呼んでいいのは神だけだ、と言ったとされる(212頁)。
 ルターは1541年に出版した『反トルコ祈願への戒め』のなかで、強欲な君主に抑圧された貧しい地主や中産階級の市民は、キリスト教徒よりもトルコ人の元で暮らしたがるのも無理はない、と警告している。トルコの脅威について書かれた当時の文献の多くが、トルコの体制の長所とそれを真似ることの賢さを取りあげている(189頁)。
 十字軍から奪い返した海港にヨーロッパ人商人の残留を認めた理由は、戦闘用の武器を運んでくる者がいるという理由であった。16世紀から17世紀にかけて、ローマ教皇庁は武器をキリスト教徒の的に引き渡した者は破門するという布告を出しているが、これが功を奏さなかったほどである(387~388頁)。
 16世紀後半に生じた物価の大きな変動の一因はアメリカからの金銀の龍である。ヨーロッパが工場生産された織物を中東に送り込み、原材料である綿花や絹などをイランから輸入するようになると、貿易収支は西欧に有利なように逆転した。オスマン帝国は効果の造幣に事欠くほど貴金属の慢性的不足状態に陥った(402頁)。さらに、オスマン帝国は圧倒手に消費者本位の社会であった。反対に西欧では生産者本位の社会であり、国家が一定のレベルの商業組織を作り、東洋の未知で無尽蔵の経済的エネルギーを終結するのに役立った(406頁)。ただし、川北稔『イギリス近代史講義』などをはじめとするイギリス史の本を読む限り、経済における消費の重要性の方が説かれている気がする。
 第2次ウィーン包囲による敗北の中で、これに関する議論を行った当時のオスマンの文献には「我々」と「彼ら」という言葉が使われるようになった(390頁)。
 ナポレオンのエジプト遠征は失敗するが、これに貢献したのはエジプト人でも宗主国のトルコでもなく、イギリス軍であった(397頁)。
 フランス革命についてムスリムは、ヨーロッパの宿敵すべてが反対している運動として関心を高めた。自由・平等・博愛の思想は、イスラームにとって馴染みのない概念ではなく、博愛は信者同士の同胞愛という原則であった(443頁)。19世紀になるとオスマン帝国のキリスト教徒少数派は、オスマン帝国内での平等な市民権を求めるようになる。自治もしくは独立も求められるようになる。さらに、自分たちの独自の文化を維持する権利の中の1つとして、武器の保有を求めた。それまでは武器の所持を禁じられていたが、徴兵義務を免除されていた(452~453頁)。
 西欧とアメリカでは、愛国心は多種な人種を同じ国民的忠誠心の元に統一することであった。しかし、いくつもの領封に細分化されている東欧では、国民よりも共通の言語や文化を持つ者がまとまる民族国家の思想の方が優勢だった。中東の現実も東欧に近く、西欧の愛国心よりも東欧の民族主義の方が受け入れやすかった(459頁)。
 イランの革命政権が行った財産の没収や弾圧などは、ムハンマドやアリーよりもロベスピエールやスターリンに近い。これはイスラーム的とは言い難く、革命家の流儀に他ならない(525頁)。


1月18日

 檀上寛『天下と天朝の中国史』(岩波書店(岩波新書)、2016年)を読む。中国独自の天下観を元に、中国を通史的に眺めていく。中国人にとっての天下とは天子(皇帝)の統治する空間である。天下には狭義の天下と広義の天下がある。狭義の天下は、中国王朝が実際に支配している地域であり、秦からは行政制度の施行された区域を指す。広義の天下は、中国王朝と周辺諸国・諸民族の両方を併せた範囲、つまり中華と夷狄の地を共に指す(4頁)。始皇帝は、三皇五帝にちなんだ皇帝という称号を用いたが、儒家にとって地上の主催者は天子であり、皇帝支配を正当化する必要があった。そのため、国内においては皇帝と称し、蛮族に対しては天子と称する、とした(『礼記』曲礼下)。ここには、狭義と広義の天下の観念が念頭に置かれている(27~28頁)。ただし、天子は一切の個人的欲望を排した至徳者であるはずなのに、皇帝は世襲によって地位を得るのでやはり矛盾が生じる。そのため、天子は父であり、民は子であり、家族秩序が天下秩序へ拡大した理想社会とみなして、天下は一つの家族となり、中国が1人の家ならば天下は1つの家である(『礼記』礼運篇)、という天下一家の論法を持ち出した。天子として行う祭典儀礼を通じて天下一家を天に報告し、皇帝として先帝の宗廟を祀って自己の地位の正統性を得た。この天下には広義の天下も含まれている。この天下観は以後の王朝でも形を変えて基本的に受け継がれていく(30~40頁)。その際に、官僚制的秩序とは別に天下に適用する爵制的秩序を用いた。加えて、国外の部族や国にも王爵を与えて、広義の天下観と合致させた(69~75頁)。
 仕事での必要から読んだのだが、天下という概念の説明をメインとしつつ、そこから中国史の通史を眺めていっており、中国史の通史を歴史的な中国人の概念に基づいて理解する際にも役立つ。中国史をコンパクトにまとめており、関心があれば読んで損はないと思う。
 以下メモ的に。天の委任を受けた天子が得を失い天命に反して勝手な行動を取ると、天は怒って別の人物に天命を下すが、これを革命という(2頁)。
 中華という言葉は、後漢から三国時代の造語である。中華は中国と諸華の組み合わせで成り立っているが、この時代には異民族の台頭もあり、華と夷の違いが強く意識されていた。そうしたなかで中華という言葉が生まれた(12頁)。後に、五胡十六国の胡族たちは、漢人を蔑んだため、漢という文字が悪漢や卑劣漢という侮蔑的な意味で用いられるようになる(12頁)
 北魏の孝文帝は概説書では漢化政策を行ったとされるが、むしろ中国化を目指した。漢族に範を取る中華文化の体得を目指したので華化政策と呼ぶ方が正しい(62頁)。
 志賀島の金印は「漢の委の奴の国王」と一般的に読まれているが、後漢時代には「国王」という爵号はない。「漢の委奴国の王」か「漢の委の奴国の王」と読むべきである。ただし、金印は一国の王に対して与えられるのであって一国中の一部族に与えられることはないから、後者と理解するのは無理がある。したがって、「漢の委奴国の王」が正しい(78~79頁)。
 倭の五王である讃に与えられたのは「安東将軍、倭国王」であった。高句麗王は「征東大将軍」であり、百済王は「鎮東大将軍」であり、日本よりも上の地位にある。なお、後二者と異なり、日本は都督職も授けられていない(88頁)。
 東アジアの各国も中国の天下観を受け入れて独自の天下観を発達させていく、中国という大天下のなかに、複数の小天下が含まれるという形となる(128~129頁)
 宋と遼の澶淵の盟は、両国間の境界を設定したのだが、これは近代的な領土画定とはやや異なる。むしろ2つの天朝が2つの天下の境目を交互に確認したものにすぎない。2013年の米中首脳会談での習近平による大西洋の勢力圏を分割しようという提言は、澶淵の盟のようでもあり、伝統的な天下観抜きには語れないだろう(279頁)。
 クビライは、至元という元号を用いて、国号と首都の名前を大元と大都に改称した。元には天や万物の根源という意味以外にも大という概念も含まれていた。大都の大には、大いなる天の意味が込められていた。したがって、これらの名称は、天下統治の正当化を意味している(179~181頁)。
 そもそも元という国号は、それまでの王朝が地名や爵号に由来しているのと異なる抽象的な国号である。これは、多民族国家であるがゆえに、すべてを包括する抽象的な概念を用いる必要があったためである。これは明や清にも共通する。したがって、宋と元、明と清という一般的なくくり方は現実にそぐわず、むしろ宋と元・明・清と分けるべきであろう(182~183頁)。
 明は解禁政策をとったが、朝貢関係においては、それまでの王朝のなかで最も多い国と結んでいる。これは元に代わった明の華夷統合の天下統治を正当化するためであった(207~208頁)。なお、足利義満の来朝は、クビライですら敗北を喫した日本が自ら訪れたという点で、明の永楽帝を喜ばせた。そのため義満の死後には、恭献王という諡号を贈っている。
 中国という国名は、清朝末期の梁啓超によって提唱された。王朝は存在したものの時代を超えた国号がなかったため、天下の中心にあって文明の高い地域を漠然と指す国号として、新たに国民国家の名称とするように提唱して、後にそれが受け入れられていった(265頁)。


1月28日

 船津徹『世界標準の子育て』(ダイヤモンド社、2017年)を読む。これからの教育は、家庭で「しつけ」を、学校で「読み書きそろばん」を教えるだけでは、不十分であり、困難に負けない「自信」、人生を自分で決めていくための「考える力」、人に愛される「コミュニケーション力」の育成が必要であるとする。その概要を、4000名以上のアジア人を教えてきた自身の実践から、欧米の教育との比較から述べていく。
 別に欧米の教育を否定するつもりはないし、良いところもたくさん取り入れていくべきであろう。そのうえで気になるのは、欧米もかなりの格差社会であり、教育が必ずしも成功していないということ。本書で述べられているのはいわゆるエリートの教育だと思う。そうしたエリート教育で日本は遅れをとっているのだろう。ただし、世の中は名もなきごく普通の人が大部分であり、そうしたいい意味での平凡さを自己肯定していく教育がより広く必要な気もする。ただし、実践できそうな教え方は本書でいくつも確かめられたので、そのあたりは使わせてもらうことにしよう。
 以下メモ的に。自身を育てるためには、親は手出しと口出しをおさえるべきである。服を汚しても、靴をぬらしても、部屋を散らかしても、自発的な行動であれば、駄目といわずに見守る方がよい。自由に行動させるだけではなく、小さな成功を見つけて誉めることで、成功体験を積ませるようにすると良い。ただし、マナーやエチケットなどの社会的責任を伴うことも指導する。公共の場所で騒げば、即座にその場から連れ出し、毅然とその行動を非難する。人前で叱らないのは子供のプライドを潰さないための配慮である(20~21頁)。
 走り回る子供には「元気いっぱいで凄いと思うし、元気なのは大好き」と伝えた上で「走って良い場所と悪い場所がある」と教える。頭ごなしに叱るのではなく、言葉を尽くして説明すれば、子供は自尊感情を保ちつつ、自分の行動を自分でコントロールできるようになる(61頁)。挨拶しない子供に対して「挨拶しなさい」と強いるよりも、「笑顔で挨拶すると自分も相手も楽しい気分になるよ」と挨拶の意味を教えて、親子一緒に笑顔での挨拶の練習をする(227~228頁)。人前で子供に対して貶し言葉を使うと、子供の心に突き刺さるのでやめておいた方が良い(69頁)。
 兄弟姉妹は上の子を中心に育てる方がよい。「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから我慢しなさい」はNGワードである。上の子は親の愛情を独り占めしてきたので、下の子と愛情を分け合うことには納得できない(73~74頁)。これは、下の子に対するフォローはどうするのだろうか、と少し気になる。
 子供に対するNGワードの一覧は以下である。「ダメ」「いけません」という否定、「早く」「ぐずぐずしないで」「急いで」「ちゃんとして」というせきたて、「○○しなさい」「言うことを聞きなさい」「片付けなさい」という命令、「ダメねえ」「下手だねえ」「馬鹿だねえ」「愚図だねえ」「暗いねえ」という貶し、「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なのに」「○○ちゃんは出来るのに」という比較、「もう知らない」「いい加減にして」「もう嫌い」「勝手にしなさい」という突き放し、「何度言ったら分かるの」「前も言ったでしょう」というくどさ(83頁)。
 お手伝いについてはとやかく言わない。たとえ少しまずくても「手伝ってくれて助かったよ、ありがとう」と感謝を伝える。子供の前で、子供の手伝いを直すべきではない。もしうまくできなかった場合には、こういう風にやるともっときれいになるよ、と自分で実践する(99~100頁)。年齢別お手伝いの例は、以下である。1歳~2歳は、床掃除、お箸並べ、おもちゃの片付け、ゴミ捨て(ゴミ箱に入れる)。3~4歳は、床掃除、窓ふき、テーブルふき、部屋の片付け、はたき掛け、食事の配膳準備、食事の後片付け、皿洗い、米研ぎ、洗濯物たたみ、ごみまとめ、庭掃除。5~6歳は、風呂掃除、トイレ掃除、掃除機掛け、ゴミ出し、野菜の皮むき、ご飯炊き、卵割り、食器洗い、食器ふき、洗濯干し、洗濯物たたみ、洗濯物収納(101頁)。
 男性は、おだてて育てる。女性は、親(特に母親)が手本やルールを提示して育てるのがよい(132頁)。
 ゲームやITツールは、子供と話し合ってルールを決める。一方的に決めてはいけない。同時にルールを守らなかったときのペナルティも決める。そのルールをプリントアウトして子供にサインさせる。たとえば①ゲームは宿題・課題が終わってからでなければ禁止、②1回につき1時間まで、1日最大2時間まで、③違反した場合、ゲームは1週間禁止、スマホは取りあげ、などである(236頁)。
 子供がゲームばかりしているのであれば、親も一緒にゲームをして、マンガばかり読んでいれば一緒にマンガを読む、子供と一緒にいると、見落としていた良い面が見えてくるので、その強みを口に出して褒めてあげる(246頁)。


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