中村文則『去年の冬、きみと別れ』(幻冬舎、2013年)を読む。2人の女性の焼死事件に関わった、死刑囚の木原坂について取材を行い始めた「僕」。木原坂は燃えていく女性の写真を撮っており、猟奇的な事件として知られていた。木原坂との面会を経て、彼の友人や弁護士、「僕」をも飲み込もうとする彼の姉、木原坂の依頼を受けた人の願望を映し出す人形を作る人形師との邂逅から、今の事態に狂気と恐怖を感じた「僕」は、編集者と出会いこの仕事についての決断を語ったのだが…。
ストーリーは全く似ていないのだが、物語の根幹の部分の種明かしが新堂冬樹『鬼子』と類似している(別にパクリだとかそういうわけではない)。ちなみに個人的に言えば、前半部分の恐ろしさが後半の種明かしの部分でややテンションが落ちるところまで似ていたように感じた。とは言っても『鬼子』が、人の心のすさみを嫌らしさを感じさせたのとは異なり、こちらは人の心の中をのぞき込む恐ろしさという点では全く違うのだが。
諏訪春雄『日本人と遠近法』(ちくま新書、1998年)を読む。東洋には、ヨーロッパのような線遠近法は存在しなかった。遠近法であっても、遠景を上に近景を下に描く上下法や、山、樹木、人と次第に小さく描くような構図遠近法しか存在していなかった。これは東洋の絵画が同じ絵のなかで視点を移動しつつ描かれているからである。これはヨーロッパの絵画技法を採り入れた江戸期の浮世絵であっても同様である。なぜこうした相違が生じたのかは宗教観に関連している。ヨーロッパはキリスト教という絶対的な一神教的な価値観が根源にあり、東洋では多神教的なアニミズムに基づいていたからである、とする。
ものすごくおおざっぱにまとめたのだが、大きくは間違っていないはず。本書では触れられていないのだが、中世のキリスト教絵画もこれで説明できる。中世の絵画作品は、明らかに線遠近法を用いていないが、これは人間の視点ではなく描かれた者のなかで最も重要な人物からの視点での遠近法で描かれているからである(なお、このことについてはどの本で読んだのか忘れたのだが、未読の宮下誠『20世紀絵画 モダニズム美術史を問い直す』(光文社新書、2005年)の44〜46頁に記されているのを見つけた)。そして、ギリシア・ローマの絵画を見ると、東洋の視点に近いように思える。結論としては当たり前のようなことかもしれないが、それをきちんと証拠を挙げつつ論じている点に価値があると言えよう。
以下メモ的に。前近代の日本の文学作品は、長編小説であっても短編のつなぎ合わせたものにすぎない。これは視点の移動が文学にも反映しているからである(166頁)。これは間違っていないように思えるのだが(もしかして例外的な作品はあるかもしれないが)、それでは中国の長編作品はどのように解釈すべきなのだろうか。
ヨーロッパの笑いは優越理論や超越理論と呼ばれることがあるが、これは自己の立場に対する自信であり、世界における自分の位置関係を認識しているゆえである。日本人の微笑や愛想笑いはそうした世界における位置づけとは無縁であり、眼前の相手との関係の修復という目的にとらわれている(184頁)。ここにも一神教と多神教的アニミズムが反映しているのかもしれないものの、ユーモアとエスプリだと、ユーモアには自虐的なギャグもあると思うのだがどうだろう。
ジュリアン・バーンズ(土屋政雄訳)『終わりの感覚』(新潮社クレスト・ブックス、2012年)を読む。少年時代の優秀な友であるエイドリアン・フィンと歴史の授業を思い出していた、老境の「私」ことトニー・ウェブスター。大学生のころ、ウェブスターは付き合っていた彼女であるベロニカをフィンに取られてしまったのだが、その後まもなくフィンは自殺した。そのフィンの日記がウェブスターに遺されたとの連絡が、いまになって届く。ただし日記を遺した人物は、なぜかベロニカの母親だった…。
「衝撃的エンディング」「記憶と時間をめぐるサスペンスフルな中篇小説」という謳い文句に興味をそそられて読んでみた。「衝撃的エンディング」の方についてはやや肩すかしを食らった感じである。後者に「サスペンスフル」なという言葉があるので、本書はミステリなのかなと思っていたら、実は純文学的な要素が強かったからである。ミステリ的な大どんでん返しが来るのかと思っていたら、純文学的な意味でのいやらしさだったというか…。その意味で、個人的には歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』で味あわされた、「何か特別なプレゼントがあるのでは、と期待していたら、ものすごく美味しそうなお茶漬けが出てきた」といったがっかりに近い。とはいえこれはそもそも私の勝手な思い込みのせいなので、はじめから純文学に近い小説だと思っていたら、エンディングのほろ苦いエンディングの余韻を堪能できたのかもしれない。
もうひとつの「記憶と時間をめぐるサスペンスフルな中篇小説」といった部分に関しては、少し楽しめた。少年時代の歴史の授業で、教員から歴史とは何かと訪ねられたウェブスターは「歴史とは勝者の嘘の塊です」と答え、フィンは「歴史とは、不完全な記憶が文書の不備と出会うところに生まれる確信である」と答えた(21〜22頁)。このときのフィンはとある生徒の自殺を具体例にして語っているのだが、後に本書のクライマックスの場面では、大学生時代のウェブスターのフィンとベロニカに対する爽やかな思い出が、手紙という史料によって揺るがされることになる。歴史の授業で歴史学の本質を伝えるにあたって、大きな出来事よりもこうした個人的な出来事を題材にした方がリアルに伝わるのかもしれない。