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2004年5月の見聞録



5月11日

 B.ロンボルグ『環境危機をあおってはいけない』(文藝春秋、2003年、原著は1998年)を読む。デンマークの統計学の専門家である著者が、環境問題についての長期的なデータを出来る限り参照することによって、現在の環境問題の基本的論点を徹底的に見直した大著。人口問題・食糧問題・貧困・水・森林資源・エネルギー資源・大気汚染・酸性雨・水質汚染・化学物質・生物多様性・地球温暖化など網羅的な論点を取り上げており、本論だけでも上下2段組で600ページ弱ほどある。巻末には脚注が付いているが、参考文献はウェブ上にある(文藝春秋のサイト、もしくは訳者のサイトを参照)
 いずれの事例に関しても、著者の訴えたい論点は以下の2つの事例に集約される。まずは、いかなる問題も完全な解決を迎えたわけではなく、まだまだ改善を行う必要はあるものの、長期的な観点から見れば、事態は改善されている傾向にあるということ。そして、環境問題の解決への投資を行うとき、そのコストを考えて、それが有効であるのか否か、さらにはそれ以外の重要な問題に振り分ける方が大切なのではないかということを十分に吟味する必要があるということ、この2つである。ただし、状況がよくなってはいるものの、まだまだ改善が必要ということを訴えているのであって、もはや改善する必要はないと言っているのではないことも重要である。特に問題となっているのは水の問題であり、これは水不足というよりも貧困のせいであるという指摘は説得力がある。
 そのような例を幾つかメモ的に。イースター島は島民による伐採ゆえに森林資源がなくなったことが判明している。環境保護論者は、この事例から森林の無思慮な利用を批判するのであるが、太平洋において森林が衰退や崩壊を迎えたのは、1万以上ある島のうちの12島にすぎない(59-60頁)。アマゾンの森林はこの20年間ほどで、約10%ほど減っているが、雨林は地球の肺であるから守るべきという議論は間違っており、植物は光合成を行うも、腐敗すると酸素を消費するので、安定した森林だと酸素は生産も消費もされない(195-96頁)。大気汚染がひどくなっているのは、イギリスを例に取れば13世紀から19世紀であり、20世紀には明らかに改善されている。発展途上国の大気汚染が進むのも、要は貧困の問題と関連していると言える。
 いずれの問題についても長期的な統計を用いることによって短絡的な環境危機の主張(特にワールドウォッチ研究所やWWFに関するものが多い)を封じており、以前に日垣隆『それは違う!』に関して、ソースを挙げないと批判派の反論を受けると書いたことがあるが、この本はその点において徹底的である。また、統計資料の用い方にたいする批判は、谷岡一郎『「社会調査」のウソ』でのマスコミや学術書に氾濫する統計調査のいい加減さの批判に近いように思われる。調査結果に関する興味深い指摘もあって、何らかの問題の原因と見られそうな事例についてよい関係が見つからない調査は、没にしてしまうということが少なからずあるということである。その結果手当たり次第に調べていって結果として何らかの相関関係がそのうちでてくるということもある(73頁)。これは酸性雨の問題などにも言えるのかも知れず、現在では酸性雨と森林破壊の関係性は否定される傾向にあるようだ(第16章)。ただ、この辺は自然科学系や社会科学系に言えても、人文学系では、関連がないということも調査結果とし活かせるのではないかということも感じた(それがいいのか悪いのかは別として)。
 ただし、著者の議論の持っていき方において、もう少し力を入れてくれればいいのにと思うところがないわけではない。まず、これは非常に細かいことであるのだが、何か個別の環境問題において事態がよい方向に向かっていて、そうではない事例は少ないときに「たったの〜ほどである」と具体的な数値を上げるのだが、その数が「たった」という割にはあまりにも大きな数字が出てくる例が見られる。確かに相対的に見れば少ないということは理屈では納得できても、感情では納得できないこともある。このことと関連するのだが、それでは個別の対処療法はどうするのかということがあまり見えてこない。これもこの本にそれを求めるのは筋違いなのかもしれないが、現実のデータを提示することに徹しすぎて、個別事例が抜け落ちてしまっているのではないかということだ。
 確かに、埋蔵資源は短期的な危機にないことは明らかであろう(第11章)。次々と新しい埋蔵箇所が発見されたり、それまでは埋蔵資源を完全に吸い上げることが出来なかったのに新たな技術によってそれが可能となったり(石油の場合、油圧によって自然と噴出するのは20%にすぎないことなどは、まったく知らなかった)、より有効活用が可能な代返エネルギーが出てくる可能性も少なくない。それでも石油は少なくとも40年、天然ガスは60年、石炭は230年分あるという言い方は、有史以来という短期的な見方では納得できても、地球誕生からの何十億年という長い歴史から見れば納得できないのではなかろうか。そのほかにも、訳者が指摘している、アメリカのゴミは一辺立った29キロの正方形に収まる(340頁)というような言い方も、やはりそうしたことが指摘できる。
 あと、グローバルな観点からではなく、よりローカルな場所では環境汚染が生じているのではないかということ。産廃の問題などはその典型例で、産廃処理施設の近辺の河で魚が捕れなくなるといった話は別に珍しいものではないだろう。もちろんそうした個別事例にとらわれすぎれば、「ほらやっぱり環境破壊は進んでいる」と簡単に断言してしまいかねないので、難しいところでもあるのだが、そうしたことについてやはり一言あった方がよかったのではなかろうか。
 とはいえ、私は本書を批判したいわけではない。確かに世界は全体としてみればよりよい方向へと歩みを進めているだろう。だから、環境問題という大きな問題に逃げ込むのではなくて、自分の足元を見て、自分の周りのちっぽけな環境かを見ることから始めるべきだと思うだけである。この本が自分自身が今すぐ直面している問題から目をそらし、大きな問題の中に身を投じることによって自分自身を大きく見せようとする処方箋としても読まれるべきなのではなかろうか。訳者が言う「データに裏付けられた希望」(585頁)も同じような感覚だと思う。いずれにせよ、読み応えもあり、少しでも環境問題に興味や関心のある人は、賛同するにせよ批判するにせよ避けて通れない著作であることは間違いない。


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