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2015年12月の見聞録



12月4日

 常見陽平『「就活」と日本社会 平等幻想を超えて』(NHKブックス、2015年)を読む。大学令で大学が増加した第1次大戦後から定期化されつつあった大学の就活について、その歴史的背景と実態を踏まえつつ、企業の採用選抜の不透明さの理由と問題提起を行う。まず第1章では、大学生の就活の実態についてデータに基づいて眺めていく。その結果大きく言えることは、2つある。第1に大企業と中小企業では学生へ内定を出す時期に違いがあり、大企業に比べて中小企業が遅い点である。第2に、画一化されたルールに基づく自由な競争のように見えて、エリート大学を優遇する格差が存在している点である。
 ここまでは豊富なデータに基づく実証主義的な論述である。たとえば上記の内定を出す時期の差異については、リクルートワークス研究所の『大卒採用構造に関する調査レポート』(2012)を利用する。この調査は従業員規模5人以上の全国の民間企業10014社を対象に行ったものである。これによると、内定出しの時期が4月だったのは、5000人以上の企業で55.4%、1000〜4999人の企業で46.6%、300〜999人の企業で16.4%、50〜299人の企業で16.4%と減っていき、5〜49人の企業は0%のようである。5〜49人の企業で内定出しの時期が最も多いのは11月で20.4%だが、5000人以上の企業と1000〜4999人の企業は共に0.5%、300〜999人の企業は1.5%、50〜299人の企業は4.4%といずれもかなり少ない(70〜71頁)。
 これに基づいて企業の採用選抜の不透明さの実態に切り込んでいくのだから、ここからもデータを活用するのかというと、ここからは極端にデータが減る。むしろモデルを活用していているのだが、そこに細かいデータの裏付けがあるのかどうかが判然としない。なので、この第2章以下は読み流して終わってしまった。一応著者の結論を書いておくと、学生には求める人物像は告知されていても、どう評価するのかが告知されていない点が不透明の原因だとしている。ちなみに、データを用いないでよいのであれば、大学と就職の関係は、浅羽通明『大学で何を学ぶか』(幻冬舎文庫、1999年(原著は1996年))を読めば、もっとすっきりわかるであろう。


12月14日

 うえお久光『紫色のクオリア』(電撃文庫、2009年)を読む。自分以外の人間がロボットに見える、紫色の瞳を持った中学生・毬井ゆかり。彼女は、人間が機械に見えるからこそ、殺人鬼に腕を切られたクラスメイトの「あたし」こと波濤マナブを、携帯電話の部品で直してしまった。しかしアメリカの機関の元に自ら望んで移っていったゆかりは、そのままそこで亡くなってしまう。しかしマナブの腕となった携帯電話は平行世界の自分との会話を可能として、ゆかりを救うべく動き始める…。
 オチとしては、自分の言葉で意志を伝えることが大事、といったところで、これだけだと陳腐に見えるが、いくつもの平行世界の経て超越者のごとく事態を切り開こうとした失敗を見ているからこそ納得のいくものだったりする。
 ちなみに、ゆかりはすべてが機械に見えるということで相手の性別すらよく分からないのだが、すべてが部品であるというのは下条信輔『<意識>とは何だろうか』で述べられているように、ミクロのレヴェルまでいけば、その過程においてはそのレヴェルでの科学的な法則に従っているに過ぎない、ということと合致していると言える。ただしそうだとするならば、心は一体どのようにして生まれているのだろうか。心も0と1にすべて還元できるものなのだろうか(何だか『攻殻機動隊 Stand Alone Complex』(リンクはAmazonのDVD))における議論のようになってくるが)。ゆかりは人間の表情を理解できないという設定なのだが、ゆかり自身にはゆかりにはどのように見えているのだろうか。


12月24日

 鈴木拓也『蝦夷と東北戦争(戦争の日本史3)』(吉川弘文館、2008年)を読む。奈良時代から平安初期まで行われた蝦夷征伐に関して、その詳しい流れを追いつつ、東北の状況や天皇政治の在り方と絡めて読み解いていく。
 そもそも蝦夷征伐の背後には、中華的な華夷秩序の考え方が存在していた。日本の内部に服属させるべき辺境の人民を取り残しているという状況を隠蔽して、逆に華夷秩序のもとに蝦夷の人々に朝貢や儀式の参加を求めたのである。ただし、奈良時代後半には積極的な征伐策をとったため、蝦夷の人々の反発が高まってしまい、さらには組織的な抵抗を生む結果となってしまった。加えて光仁天皇の時代には、蝦夷の協力者である伊治呰麻呂が派遣された官人の行いに反発して反乱を起こすことで、各地の蝦夷が連動して蜂起し、移民系住民の逃亡までをも引き起こした。これを鎮める東征軍を派遣したのが、光仁に続いて皇位についた桓武天皇である。
 ただし桓武には、自身の政治的問題も関連していた。そもそも光仁天皇は、聖武天皇の娘である井上内親王と自身の間に生まれた他戸親王に皇位を譲るための中継ぎであったとされる。しかし、井上内親王は光仁天皇を呪ったという罪で皇后を廃され、その子であるという理由で他戸親王も皇太子を廃されてしまう。この一連の事件を仕組んだとされるのが、桓武天皇の岳父であった藤原百川であったといわれる。いずれにせよ、桓武天皇は本来天皇にはなれなかったであろう人物である。だからこそ中国の革命思想に基づいて、天武系から天智系への王朝の交替と位置付けて、長岡京への遷都を行った。しかしながら、蝦夷征伐も長岡京の造営も、とくに後者に関しては、政変によって処分した早良親王の祟りとみなされるような事件までたびたび生じ、あまり進展を見なかった。これに対して桓武は、遷都と征夷を組み合わせて行い、二度目の遷都を劇的に行うことを思いつく。実際に、征夷将軍からの戦勝報告のすぐ後に、その同じ場で遷都の詔は発せられている。だからこそ祟りを乗り越えて蝦夷に勝利した後の新たな都は「平安京」と名付けられた。
 なお、これ以後は、蝦夷征伐は縮小していく。中央から積極的に支援して関与するのではなく、現地へ派遣したものに任せるという政策をとる。これは、先に見た中華思想の繁栄が薄れたともみなしうる。
 仕事の必要上で読んだ本である。冒頭にも書いた通り、蝦夷征伐を内部の政治問題と絡めて描いているのだが、個人的には後者の観点に興味をひかれたので、そちらの側を中心としたまとめになった。平安朝の成立に関心があれば、読んで損はないと思う。
 以下メモ的に。桓武天皇の諡号の由来は、2つの説が推測されている。1つは、『詩経』周頌の「桓桓たる武王」で、桓桓は猛々しいさまを表すので、桓武とは血気盛んな武王を意味する。もう1つは、『周書』諡法にもあるように、国土を広げた皇帝の諡号には「桓を用いるので、これに基づくという説である。いずれにしても彼が桓武と呼ばれる所以は、蝦夷征伐にあったといえる(140〜141頁)。
 天皇の諡号において、桓武天皇を最後にして「武」の文字が消える。つまり、天皇に「武」が求められた時代は桓武朝を持って終わるのであり、国家の武力を統帥する軍人天皇の終焉でもあった(219頁)。


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