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2005年8月の見聞録



8月31日

 村上陽一郎『やりなおし教養講座』(NTT出版、2004年)を読む。その名の通り、教養を見直すという趣旨で書かれたもの。教養は慎みを形作る規矩もしくはモラルに拠る必要がある、というのは同じような表現を使うかどうかは別として、特に異論はない。そこから、ヨーロッパの教養の歴史を説明していく前半は、脱線も含めて面白く読める。中世ヨーロッパで成立した大学の教養科目=リベラル・アーツが、自由人さらには知識人が学んでおくべき資格のような学問であったという一般的な説明も、分かりやすく書かれている。そのなかに、ラテン語世界であった中世ヨーロッパは、イスラムから受け継いだ学問用語をギリシア語からラテン語へと翻訳し、ギリシア語になかった概念はアラビア語から借りたという話も実例と共に紹介している。戦後の日本で悪い意味での平等主義が蔓延しており、劣等感や優越感を否定することが人間としての成長を阻害しているのではないかという指摘も正しいと思う。このあたりまではよいのだが、日本の教養へはいると自分の経験の方が全面に出てきて、教養論が背後に隠れしまっていて、いまひとつ前半とのつながりが悪い。特に最後は自分の読書経験で終わり、これからの教養ということには触れずに尻切れトンボで終わる。
 そして、教養について持ち出す理念がやけに古くさいものであるのはどうなのだろうか。古いというのは、より正しく言えば、著者自身の若い頃が基準になっているという意味でそれはどうなのかと思うということだ。著者はマンガを大人が読むものではないとして昔から断固として否定しているのは有名だが、たとえばマンガが教養となる可能性をもはや否めないのではないか。マンガを若者が読むことによって、なにがしかの思考の規範となりうるもの、つまり著者がいう「規矩」の意味での教養になるかもしれないのだ。もちろんそうならないかもしれないとは言え、どうも古い価値観から新しいものを否定しているようにしか見えない態度は、積み上げてきた「規矩」をもって新たな価値観を再構成するのではなくて、その重みでもって新しく誕生する教養の芽を潰しているかのように思えてしまう。もちろん、年長者として譲れないところは断固として譲らないという態度を年長者が維持し、それに立ち向かうことでまた新たな「規矩」が生まれて来るという面もあるだろう。ただ、この本はそういうタイプの本ではなく、どちらかといえば若い世代に諭すような本なのだから、戦術としてこうした態度を取ることは、あまり適切ではない気がする。


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