見たり聞いたりレポート

 

1.綾子さんと 優佳良織(神楽公民館1998年講座より)
2.『泥流地帯』の舞台、上富良野町開拓記念館を訪ねて
3.塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)を訪ねて
4. 三浦光世さんの講演を聴いて その1(1999.6.19)
5.綾子さんの最近の言葉 (1999.6.13)
6.綾子さんが教師時代を過ごした歌志内を訪ねて
7.歌志内市郷土館「思い出写真館」
8.ライトアップの見本林(1999.8.14)
9.明成高校 三浦綾子文庫を訪ねて
10.作家三浦綾子さんを偲ぶ会に出席して
11.女学校時代の友人・宝田由和子さんのお話から
12.三浦光世さんの講演を聴いて その2(1999.12.4)
13.綾子さんの教え子・尾崎道子さんの詩
14.塩狩峠アイスキャンドルのつどいに参加して (2000.2.28)
15.綾子さん語録(HBCのニュース映像より)

16.綾子さんのお墓をお訪ねして(2000.8.20)

17.文学碑除幕式に参加して(2000.10.12)
18.長野政雄さんのお墓を訪ねて(2001.6.29)
19.綾子さん命名の橋を訪ねて(2001.8.22)
20.初代秘書・宮嶋裕子さんのお話から(2002.1.30)
21.三浦綾子読書会全国大会in塩狩峠に参加して(2004.9.22〜25)
22.三浦綾子読書会第1回国際大会(ソウル)に参加して(2006.6.29〜7.3)

    

綾子さんと優佳良織(神楽公民館1998年講座より)        

     綾子さんお気に入りの赤い優佳良織、綾子さんと優佳良の出会いは・・・・?

       『昭和41年だったのですね。東京の松坂屋で展覧会を開き、続けて         

      札幌のパークホテルでも個展を開きました。そして旭川で最初で最後

     だったのですけれども、展覧会を開催しました。出品作品に、37,8年

       ころだったでしょうか公民館が「機を織りませんか」との呼びかけに応

      じて参加した家庭の奥さんもいたり、一生懸命に初めて織っている人た

      ちもありました。この展覧会で旭川市長賞をいただきました。

      その会場に三浦光世先生と一緒に綾子先生もこられました。初めて      

     お目にかかって、この方が三浦綾子さんかと感激した記憶があるんです。

      綾子さんは私の座談会の記事を読んでくださっていると思いながらも、

      私という人間も知らない。それでいて優佳良織の展覧会の会場に初め     

      てきて下さって、「サンゴソウ」の当時の9番、今の11番にあたります。

      私の作品の最初のものをご注文下さったのです。ルパシカ風にして作  

      ってほしいといわれました。これが三浦綾子先生との初めての出会い

      でした。

      綾子先生は文学展などがあると、好んで優佳良織を「私の好きな服、

      大事な服」として会場に飾られました。』

            1998.10.8 三浦綾子・人間と風土 人間編「三浦先生と優佳良織」 

                             木内綾氏(優佳良織工芸館織元)講演より

 

『泥流地帯』の舞台、上富良野町開拓記念館を訪ねて

      大正15年の十勝岳大爆発を題材にした小説『泥流地帯』の拓一、

     耕作兄弟のけなげな姿には、涙と共に生きる力を与えられましたが、

      現実に多くの拓一や耕作がいたんだと、この記念館を訪れて、実感

      しました。

       建物は復興に力を尽くした当時の村長さん(吉田貞次郎氏)の住宅

      を復元したもので、充実した展示内容で当時の様子がよく分かります。

      現在の美しい上富良野の姿を目の前に見て、いっそう、開拓民の方た

      血のにじむような努力があったことがしのばれました。

          《案内》     開館日   4月1日〜11月30日(月曜日、祝祭日は休館)

                    開館時間  AM9:00〜PM4:00

                    入館料   50円(中学生以下は無料)

                    所在地   北海道空知郡上富良野草分   

                   TEL・FAX  0167−45−6882

 

塩狩峠記念館(三浦綾子旧宅)を訪ねて

         この記念館では、作家としての綾子さん、というよりもむしろ、

      雑貨屋のおかみさんとして、新婚の妻としての当時の綾子さんの

       姿が浮かび上がってきます。

         2階の書斎(『氷点』や『塩狩峠』が書かれた部屋)では綾子さん

      の原稿の口述筆記(CD)を体験しましたが、これがなかなかむづ

      かしい!

         綾子さんの嫁入り道具の家具やお店の商品など、懐かしい人に

      は、懐かしいでしょう。(私は懐かしかったゾ・・・)

            《案内》   開館日    4月1日〜11月30日

                   休館日    月曜日(月曜祝日の場合は翌日)

                   開館時間   AM10:00〜PM4:30

                   入館料    無料

                   所在地    北海道上川郡和寒町字塩狩543

                             JR塩狩駅すぐ  国道40号塩狩バス停近く

                   TEL     0165−32−4088

 

三浦光世さんの講演を聴いて 

       (1999.6.19 旭川医大 大学祭講演会)  

      迷路のように入り組んだ廊下を通って、やっとたどり着いた講義室 

     の前に、講師の光世さんが、いつものはにかんだような笑顔で立って

      いらしたのでびっくり。(控え室なんてなかったんでしょうね)

      講師紹介もご自分でなさるという、ざっくばらんな講演会でした。

      この日は、「人生と苦難〜わが妻 三浦綾子の作品に寄せて」という

     テーマで色々語ってくださいましたが、私の心に強く残った2点だけ

     報告します。     

      ひとつめは「キリストと話しているから、寂しくない」という言葉。

     これは、光世さんが3歳半の時、32歳で亡くなられたお父さんが病床で

     言われた言葉だそうです。光世さんはずっとこの言葉を単純に「そうか、     

      お父さんは、祈っていたんだな。」と捉えていたけれど、最近になって、 

     その中に、悩んで、苦しんでいたお父さんを感じるようになった、と言わ

     れました。妻子を残して死んでいく無念さを訴えたり、問うたり、又語り

     かけられたり、慰められたり、というイエス様とのやりとりが、「キリストと

     話している」という一言に集約されていたのか、と私は受け止めました。

     それが現実を受け入れ、平安を得ていく過程なのでしょうか。

      ふたつめは、講演の締めくくりとして言われた「皆さんも色々つらいこと

     や苦しいことがあるでしょうが、かけがえのない人生だから、どうか忍び

     抜いてください。」という言葉です。様々な困難を越え、今、最愛の妻の

     難病に向き合っている方の言葉だからこそ、大変重みを感じました。

      この講演会の聴衆は、点滴をつけた入院患者の方々、一般市民、

     学生と様々でしたが、それぞれに人生を考える機会であったと思い

     ます。最後に、光世さんの独唱のサービスもあったことを付け加えて

     おきます。

 

綾子さんの最近の言葉 (1999.6.13)

     綾子さんの初代秘書のMさんが、三浦家をお手伝いするため、しばらく

    の間、旭川に来られていました。その際、綾子さんの近況を知らせる手紙

    を、おだまき会(ボランティアグループ)宛にくださいました。許可をいただい

    たので、Mさんの手紙に中からひとつのエピソードをお伝えします。

      「6月13日の山田洋次監督の講演会の後の昼食会について、話が出た

      時、綾子さんの出席は無理だろうということになりましたが、綾子さんが、

      『そんな・・・同席しないのは・・・そんなことは・・・・』とおっしゃるので、出席

      する事になりました。

      当日、山田監督が『三浦先生にお会いできるとは思っていませんでした。

      それが、お会いできて、昼食もご一緒できてうれしいです。』とおっしゃた

      ので、綾子さんに代わって、『同席しないのは失礼なので・・』とお答えしま

      した。すると、綾子さんは『いや、失礼ではないけど、残念だ。』と言われた

      のです。同席なさりたかったのは、“礼儀”の故でなく、“愛”の故であった

      のです。山田監督も、又、深い愛の方で、もし綾子さんが欠席しても、決し

      て“失礼”などと思ったりはなさらないということを、綾子さんは分かってお      

      られたのです。」

       ・・・・・ウ−ン、やっぱり綾子さん!

     

綾子さんが教師時代を過ごした歌志内を訪ねて

       綾子さんが教師として2年半過ごした歌志内に行ってみました。かつて

      は炭鉱の町として栄えた歌志内も、既に鉱山は閉鎖され、今は人口約

      七千人の、日本で一番小さい市になっています。

       当時の綾子さんの様子を知りたいと思い、観光館とその隣の郷土館

      「ゆめつむぎ」を訪ねてみましたが、どちらにも、写真の展示がわずかに       

      あるだけでした。「確か、昔の教え子達の思い出が展示されていると聞い

      たような気がするけど・・・・」と、郷土館の学芸員の方に伺うと、それは、

      去年の6月の特別展だったそうです。親切にその時の資料を見せて下さ

      いましたので、一部紹介させていただきます。

                                ***

       「先生はやさしいところが多かったので、みんなで先生にからまりました。

       ・・・・・十数年前の同窓会に先生をお呼びした時でも、みんなの名前を

       忘れないで覚えていてくださいました。」

                                ***

       「休み時間や放課後に叱った生徒を抱きしめるようにして『さっきは叱っ

       てゴメンネ』と云われてから、どうして叱ったのか理由を言い聞かせるの

       でした。」

                                ***

       「みんなが授業にのらないときは、オルガンを弾いてソプラノの良い声で

       歌をを唄い生徒の気持ちを楽しくさせ、次の授業に移りました。」

                                *** 

       「大人になってから、先生が小説家になったという事を聞きましたが、い

       まから思えばそれらしい事をしていました。

        先生は授業中、ちょっとみなさん自習してくださいと言って、生徒に自

       習させ、自分は目をつぶって、30センチの物差しを両手に持って目に

       当て、短歌か詩をぶつぶつしゃべって書き込んでいました。

        クラス会では、それをよく覚えている人はいませんが、自習させるとい

       事はみんな覚えています。けっこうやっていました。」

                                *** 

                  歌志内市郷土館ゆめつむぎ特別展 三浦綾子と歌志内展より

       若き教師・綾子さんの姿が目に見えるようです。                        

 

       さて、郷土館では、来館者が綾子さんの写真と色紙をコンピュータからプ

      リントアウトできるシステムを、今秋(1999)をめどに進めているそうです。

      そのほか3Dハイビジョンシアター「石炭の世界へ」やマジックビジョン「炭

      坑シアター」なども力作で楽しめます。

           《郷土館ゆめつむぎ 案内》       

                 開館時間    AM10:00〜PM6:00

                 休館日     月曜日・祝日の翌日

                 入館料     一般:200円  小中学生:100円

                 所在地     歌志内市字本町1027−1

                 TEL       0125−43−2131

                 交通       マイカー 

                            札幌〜歌志内(砂川より道央自動車道) 1時間

                            旭川〜歌志内(国道12号) 1時間

                           バス  中央バスが 〈砂川〜歌志内〉を運行してる

 

歌志内市郷土館「思い出写真館」  

      歌志内市郷土館ゆめつむぎの学芸員の方から、お便りをいただきました。

     かねてから準備中だった、展示装置パソコン「思い出写真館」への綾子さん

     関連の写真の入力作業が無事終わったそうです。 

    今のところ、光世さんの直筆色紙(綾子さんを詠った短歌)1点、神威小学校

    教師時代の写真6点、神威尋常高等小学校の校舎の写真1点が収められ、

    来館者がプリントアウトできるようになっています。今後資料の追加も検討し

    ていきたいとのことです。

     作家以前の綾子さんを知りたい方には朗報です。ぜひお訪ねください!

 

ライトアップの見本林    

     毎年8月中旬に行われる、美瑛川沿いの花火大会「花火in神楽」

     その日は、隣接する見本林もライトアップされます。

     いつもとはひと味違う幻想的な見本林をごらんください。

 光のプロムナード

     

                梢が光に揺れて           光の中のふたり

 

明成高校 三浦綾子文庫を訪ねて

        綾子さんは、明成高校の宝田由和子校長と、女学校時代からの親友で

     あり、3年ほど前まで、特別講師として、「愛・勇気・希望」をテーマに、毎年

     講演をされていました。(20数年間)

      以前は、図書室の片隅に、「地の塩文庫」として、三浦さんの寄贈本を置

     いていましたが、平成5年、新築された校舎内に「三浦綾子文庫」を設ける

     ことになりました。その際、綾子さんは、「外なら困るが、中ならいいです。

     学校にふさわしいものにしてください。」とおっしゃったそうです。

      (注:「外なら困る・・・」 三浦ご夫妻は、文学館建設も長いこと固辞されていました。)

        さて、展示内容ですが、ここの特徴は、学生時代から結婚までの資料が      

     充実しているということでしょう。成績表など学生生活にまつわる品々、     

     療養時代の仕事(のれんの作成)の出納帳(複式簿記で記帳)など他では

     見られない貴重な資料が豊富にあります。

      室内も、聖書を題材としたステンドグラスとモザイクが落ち着いた雰囲気

     を与えてくれています。

      一般公開は、土曜日のみですが、団体の場合などは事前に申し込めば

     平日でも見学可能とのことです。     

          《案内》  学校法人旭川宝田学園 旭川明成高等学校 三浦綾子文庫

                   開放日   毎週土曜日 10:00〜15:00

                   所在地   旭川市緑町14丁目

                   TEL     0166−51−3220

                   交通機関  旭川電気軌道バス「3,31,32,35」

                            1条8丁目西武デパート前より乗車、緑町13丁目下車

                          JR近文駅より徒歩8分

                           

作家三浦綾子さんを偲ぶ会に出席して

       1999年10月25日(月)午後2時より、旭川市民文化会館で行われた

      「偲ぶ会」には、約1200人の人々が出席しました。

         1分間の黙祷の後、実行委員長である菅原功一市長の挨拶があり、

      続いて、講演テープを聴き、在りし日の綾子さんを偲びました。(ハキハキ

      したユーモアのある話しに思わず、テープの中の聴衆といっしょに笑って

      しまったところもありました。)

       三浦文学館の高野館長が「三浦綾子の人と文学」を語られ、その後、

      以下の4人の方が弔辞を述べられました。       

          堀 達也 北海道知事

          五十嵐広三 元衆議院議員 旭川市名誉市民

           木内 綾 優佳良織織元 友人代表

          宝田由和子 旭川明成高校校長 友人代表 

       この会は、無宗教で行われましたが、どなたのお話しの中にも、綾子さん

      の信仰の姿勢を示すエピソードが含まれていました。政治家であった、

      五十嵐さんは、綾子さんに会う度に祈られ、初心に帰された、と言われま

      した。宝田さんは、戦後荒れすさんだ綾子さんが、信仰を持って立ち直って

      行った頃のことを話してくださいました。      

       弔辞の後、弔電披露があり、全国からの弔電が880通にも上ったことも

      併せて紹介されました。

       光世さんがお礼の挨拶をされ、その中で、「これからは、文学館にお出で

      いただいた方々に努めて、ご挨拶できる機会を作りたい」と言われ、

      また、「このような場で歌を歌うのも何かと思いましたが、綾子は、本当に

      人に歌を歌ってもらうのが好きでしたから、どうぞいっしょに歌ってください」

      とおっしゃられ、綾子さんの好きだった「赤とんぼ」を1番を光世さん、2番を

      オペラ歌手(旭川出身)の五郎部俊朗さん、3番、4番を全員で、合唱しまし

      た。(胸にこみ上げてくるものがあり、私は声がのどに詰まって、ちゃんと

      歌えませんでした・・・)

       最後に池田千鶴子さんの奏でるハープの音色の中、出席者全員が、

      献花し、綾子さんにお別れをしました。壇上へ向かう長い列を見ながら、

      本当に多くの人を愛し、愛された三浦綾子さんの生涯は、神に祝福され

      た人生であったことを改めて思わされました。

 

 

 当日のしおり、「作家 三浦綾子さんを偲んで」より

作家・三浦綾子さんの人と文学

 三浦綾子さんは、1964年7月に『氷点』で日本の文学界にデビューした。それ以降、第一線の作家として旺盛な活動をつづけた。その成果は83作品にのぼり、いずれも広範な読者に迎えられている。
 『氷点』『ひつじが丘』『塩狩峠』『道ありき』『続氷点』などの初期作品が明らかにしているように、このキリスト者(プロテスタント)の作家は、人間のありかたに深い関心をはらい、するどい洞察をおこなった。自己中心に生きる現代人の深層心理にせまるその姿勢は、近代の個人主義にひそむエゴイズムの病巣を指摘し批判するものであった。同時に、「ひとはいかに生きるか」という問を鮮明な形で提起するものであった。
 「いかに生きるか」をつねに中心にすえる作品を、三浦綾子さんは庶民の視点から、だれにも分かる明快な文体で作り出した。そこに抜群のストーリーテラーの力量が働いた。いままでにない新鮮で独自な物語文学が日本の現代文学に出現したのである。
 いうまでもなく、この作品の想像力と言葉はバイブルに根ざし、やしなわれている。それが庶民の感性と呼応することで、信仰の有無をこえ、すべての人に開かれ受容されていく豊かな普遍性をもつにいたった。『母』『銃口』にいたるまでの三浦文学の特色である。
 三浦綾子さんそのひとは、その在りようがすでにドラマであったが、限りない人間への優しさによって、眼前にいるだけで、他者をいたわり、慰め、勇気づける希有の存在であった。はげます人であったといえる。
 このひとはつねに、人間と現実の関係を考えぬき、人間の弱さをみつめ、魂の再生をはげましつづけた。私たちの同時代が持つことができた最良の作家の一人であった。
                   三浦綾子記念文学館館長    高野 斗志美


                            お礼の言葉
 妻綾子は、青春時代の13年間の結核との闘いに始まって、心臓病、紫斑病、帯状疱疹、直腸癌、そして難病パーキンソン病にまで罹りました。
 そうした苦難の体験が、読者の皆様の感動を呼ぶことになったのかもしれません。彼女の作品が、失望している人にいささかでも希望をもたらしたとすれば、本当にありがたいことです。
 しかし考えるまでもなく、彼女が多くの苦難を乗り越え得た蔭には、神の助けと共に、皆様の多大なご加祷ご声援がありました。只々感謝せずにはいられません。
 その上、偲ぶ会まで催していただいたことに対して、いったい何と申し上げたらよいのでしょう。既に天の国に迎えられた妻と共に、月並みの言葉ながら、幾重にもお礼申し上げたく存じます。
 ありがとうございました。
               1999.10.25                         三浦光世      

 

女学校時代の友人・宝田由和子さんのお話から

                  (神楽公民館の講座から抜粋)   

     出会い

        昭和10年、市立女学校入学の時からのつきあいで、クラスはとなりで

     したが、クラス委員などもしていて、家も近かったので、よくおしゃべりしま

      した。よく、「今何読んでいるの?」と聞かれ、「『少女クラブ』や吉屋信子の      

      『あの道この道』」と答えると、綾子さんは「ふう〜ん、私は菊池寛の『第二

      の接吻』とかヘッセの『デミアン』」というので、「マア、なんて大人なんだろう」

      と感心したものです。

      女学校時代

       綾子さんは、よく歌い、よく踊り、創作舞踊が得意で、劇、今で言う

       ミュージカルによく出ていました。そんなに勉強する方ではなく、先生や

       科目の好き嫌いが激しくて、物理や数学、国語は好きだったけれど、

       体育は、「足が痛い、いたたたあ」などといってよく休んでいました。

       正義感が強くって、ちょっとでも間違っていると許せない人でした。

         カボチャやでんぷん団子を「おいしいねえ」「おいしいねえ」と一緒

       に食べながら、学校のこと、家のこと、男の人のことなど話しました。

       朗らかで、ちょっとおませさんでした。

       教員時代

         二人とも旭川市内で教員をしていた頃は、「女子教員会」でよく一緒

       になりました。当時、職員会議で女性は発言できなかった事について

       「何で、女の人は黙って座っていなきゃいけないのか」と言っていました。

        また、女子青年団をつれて、飛行場にご飯焚きに行ったときも、一緒

       でした。綾子さんは、誰とでも仲良くなれる人で、主任教官の見送りに

       駅に行ったときも、まるでドラマのように泣いていました。

       療養中

         戦後、教員をやめ、まもなく発病した綾子さんの心はすっかり荒れて

       しまいました。友人も「堀田さん、手が着けられないわ」と言っていました。

        前川正さんをずいぶん困らせたようでしたが、洗礼を受けて、すっかり

       変わりました。穏やかになりました。

         前川さんの死後、光世さんに出会い、「似ていてびっくりした」とよく言っ

       ていました。光世さんが「何年でも待つ」と言ったと聞いて、友達と「そう

       いう奇特な人もいるもんなんだねえ」と話したものです。

       結婚後

         結婚式は親戚と教会の人だけでやるというので、友人と一緒に、前日

       お家を訪ねました。積み重ねた布団に、丹前を着て、寄りかかっている      

      ので、「明日、結婚式なのに大丈夫なのオ?」と聞くと「大丈夫だと思うよ」

       と答えていました。「ご飯炊けるの?」と聞くと「何とかなると思う」と言って

       いました。

         結婚後はどんどん元気になって、私の9条の家の前を、自転車に乗って

       雑貨の仕入れに行っていました。

         「太陽は再び没せず」で賞金20万円を貰ったときは、光世さんは、営林

       局でずいぶん、「三浦君はいいな、いいな」と言われたそうです。

       同期会にもよく、出席して、「何があっても、天の神が与えるものだから、

       悲観しちゃだめだよ」とか「今、大変でも、開けない夜はないんだから」と

       友達を励ましていました。

       それから

         私が女子商業(現明成高校)を始めた頃、「来てくれる?」「いいよ」と         

       簡単に講演を引き受けてくれ、その後、特別講師となって、毎年来てくれる

       ようになりました。講演の後は必ず、控え室で、先生方に歌を歌ってもらい

       気持ちよさそうに踊っていました。校歌の作詞もお願いすると、「いいけど、

       そういうのは光世さんの方が上手よ」と言って、結局合作で作っていただ

       きました。

         綾子さんは、本当に義理堅く、我慢強い。絶対に病気に負けない人で

       した。あの人の前に行くと、人の悪口、陰口が言えなくなってしまう。

         本当に、素晴らしいご夫婦でした。やはり、光世さんあっての作家・三浦

       綾子であったと思います。

             (1999.10.28 神楽公民館「三浦綾子 人間と風土」の講演より要約)

 

旭川明成高等学校校歌      作詞 三浦光世
                            三浦綾子
                       作曲 中田喜直   

1. 朝に夕べに 大雪の
   山の姿を 仰ぎ見て
   心を高く 上げようと
   学ぶ幸せ ああ われら
   旭川明成高校生

2.  行きに帰りに 石狩の
   川の流れに 親しみて
   深き真理に 生きようと
   学ぶ幸せ ああ われら
   旭川明成高校生

   3.  晴れわたる日も 雨の日も
   母校の栄を 望みみて
   光を求め 進もうと
   学ぶ幸せ ああ われら
   旭川明成高校生

 

三浦光世さんの講演を聴いて その2                                 

 (1999.12.4 旭川市PTA連合会西部ブロック研修会 於:北光小学校)                                          

(写真:常田氏提供)

       綾子さんの召天後、初めての講演会は、「『愛の絆』ー妻綾子との   

     40年に想う」という演題で、綾子さんの思い出が次々語られました。    

     *        *      *      *      *      *

      最近では、何か自分が妻に献身的な夫という風に、書かれたりして

    いますが、実は、家内の方が私を大事にしてくれたのです。まさに聖書

    の「夫にはキリストのごとく仕えよ」を地でいっていました。献身的に尽く      

    してくれました。また、私が、独身時代お世話になった方を、「一体感」

    をもって、大切にしてくれました。

     綾子の性格ですが、まず第一に、指導力があります。私が、短歌を

    見せるとつまらない時は、はっきり「つまらない」と言う率直さがありまし

     た。また、雑貨屋を手伝ってくれた姪に、勉強を教える時も、静かに

    次第次第に教えていきました。

      第二に、包容力が、指導力の土台になっていたのではないかと思い       

     ます。「包容力」といえば、口実筆記の時、うっかり「抱擁力」と書いて、

     文庫化されるまで、そのままで通ってしまったことがありました。編集者

    の方が「三浦さんの造語」と思ったのかもしれません。それほど、妻はす

    ぐ、教え子とかファンの方とか、誰にでも、抱きつく日本人離れしたところ

     がありました。

       第三に謙遜でした。威張るようなところは全くありませんでした。

    いつも、新しい本が送られてくるたびに、本の扉に「光世様・・・・」と感謝

     言葉を書いてくれました。それが、文庫本に至るまですべてだったので

     す。今度、それを一冊にまとめる企画も出版社から出ています。

       第四に忍耐力。パーキンソン病で、着替えも階段の上り下りも、手助

     けが必要となって、本人もさぞつらかったと思いますが、あまりこぼした

     ことがありませんでした。よく忍び抜いたと思います。

      第五に無欲でした。新婚の頃、バーゲンの水色の和服のコートを買っ

     て来て、「こんなに良いものをこんなに安く買えた」と喜んでいました。

     今度の「追悼三浦綾子展」にも展示したものです。

     また、六番目になりますが、洞察力にも優れていました。      

       家内が一番伝えたかったのは、福音です。キリストを信じて、絶望     

     から、希望に変わったという手紙が尽きません。クリスマスの機会に

     ぜひ、聖書ををお読みいただきたい。信じる信じないはともかく、信じて

     くだされば、さらに幸いですが、聖書を読んでくだされば、うれしいです。

     家内が言いたいだろうことを、替わって、申し上げました。

    *        *      *      *      *      * 

                    (講演「『愛の絆』 妻 綾子との四十年に想う」より要約)

 

綾子さんの教え子・尾崎道子さんの詩 (「舷燈」 師走号より)            

 先生が唄っている              尾崎道子

耳もとでハミングをきいた
唄っている
先生が唄っている
旧宅の柱を使い
かつての雑貨屋をそのまま模した
塩狩峠記念館をでて数歩
先生と腕を組んで歩きだす
塩狩の丘の木々はまさに芽吹きの季節
先生は晴れやかだ

くずれそうになる先生の体を支えて
衣服の乱れを気ずかったら何か言った
ーなんでしょう判らないー
ー本当に貴方はいつも頼りないんだからー
じれったそうに言う
先生が叱った昔のようにそう言った

先刻車椅子にのったままで
開館のテープカットが終った

幾重にも人々がとりかこんで
マイクの束が先生にむけられた
気が気でなくて人垣のうしろからのぞくと
ーこの館に人々が足を運んでくださるのは
 私の喜びですー
かぼそい声だが先生ははっきりと
答えていたのだったー。

        *1999年4月30日  塩狩峠記念館

 

      尾崎さんは、綾子さんの啓明小学校時代の教え子。

      詩人であり、綾子さんの「草のうた」の各章ごとに尾崎さんの詩が挿入されている。

      また、「石の森」にも、民芸品店を営んでいた頃の尾崎さんが実名で登場している。

      10月25日の綾子さんの市民葬に、姿を見せなかったことをいぶかった人もいた

     ようだが、翌日の26日早朝、心筋梗塞で急逝された。

      尾崎さんはよく、「私の前だとすぐ先生の顔に戻っちゃうんだから・・!」と綾子さん

     のことを話しておられた。綾子さんに続いて、尾崎さんも・・旭川の町が急に寂しくな

     ったように感じる。

            なお、「舷燈」は、三浦文学館副理事長の後藤憲太郎氏の主催されている俳句誌であり、
           尾崎さんもその同人であられた。

            

塩狩峠アイスキャンドルのつどいに参加して

       小説「塩狩峠」のモデル・長野政雄さんが1909年2月28日に殉死されてから

     今年は91年目。塩狩ユースホステル主催の追悼式「アイスキャンドルのつどい」

      は、12年前から始められた。

       今年は特に、綾子さんの追悼の意味で、「殉職の碑」の前に綾子さんの写真も

      掲げられてのつどいになった。

             第一部 三浦光世さんの講演(一部要約)於塩狩峠記念館

     *          *         *          *          *         *

       綾子は常々「私には死ぬという仕事がまだ残っている」と言っていましたが、

     重体という報道がなされてから、何度も危機に陥りながら38日間持ちこたえ

     ました。全国の方々がお祈りしてくださいましたが、その中には「ずっとお祈り

     する事など忘れていたが・・」とおっしゃる方もおられました。それはとても感謝

     な事で、彼女なりに死ぬという仕事を成し遂げたのではないかと思います。

       塩狩峠の長野さんもそう言えるでしょうし、イエス・キリストも人類史上最高の

     死ぬという仕事を十字架で成し遂げたのではないかと思うのです。急には信じ

     られない方もいるかもしれませんが、家内もそれを信じたことによって立ち

     直ったのです。どうぞ、みなさん、本当の幸せを得ていただきたいと思います。

     *          *         *          *          *         *

           第二部 アイスキャンドルのつどい 於長野政雄殉職の碑

       1年目には228個だったアイスキャンドルも、今年はついに千個を超えた

      とのこと。昨年末から準備をされたというユースの方々には頭が下がる。     

       賛美歌「いつくしみふかい」を歌い、旭川六条教会の芳賀牧師がヨハネの

     手紙3章16節からメッセージを語られた。

        「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって
        私たちに愛がわかったのです。ですから、私たちは、兄弟のために、命を捨てるべきです」

       最後に、各自が手に持ったろうそくの火を見つめながら黙祷するときが与え

     られ、長野さんのこと、綾子さんのことを思いながら、自分自身のあり方を見つ

      め直すときとなった。

        

      なお、今回の参加者は、約100名ほどで、中には遠く福岡の大学のゼミの

      学生さんたちもおられた。閉会後、ユースホステルで心づくしのお汁粉をいた

      だいた。氷点下10度の寒さに冷え切った体には最高のご馳走だった。

 

 綾子さん語録(HBCのニュース映像より)

      @8月15日の発言(1995.8.15 戦後50年のインタビューで)

          「どうして戦争を止められなかったの?」と若い人から聞かれると、
        「時代が時代だったからしょうがなかった」と言って50年来た気がします。
        でも、本当にしょうがなかったのだろうか?と思います。

      A井原西鶴賞受賞の感想を聞かれて(1996.9.11)

          考えれば考えるほど、時間がたてばたつほど、とんでもないことを
       してしまった・・辞退するのが本当であったと思います。過去を取り戻す
       やり方はいろいろあると思うので、神様にすがって、なんとか自分なりの
       道を行きたいと思います。

      B音楽運動療法に参加して(1998.5.12)

          インタビュアー「いかがでしたか?」
        綾子さん「調子がつくまで慣れないから・・・」
        光世さん「今日は少し慣れたね、ずいぶん時間も長かったし・・」
        綾子さん「だって、やめさせてって言ってもやめさせてくれないし・・」
        光世さん「良くできて、最後の歩き方が良かったね」
        綾子さん「本当言えば来たくなかった・・体操は甲とったことない・・」

            ちょっと困った表情の光世さん。
            綾子さんも結構楽しそうにやっていたんだけどナ・・綾子さんお得意の冗談なんでしょうね。

       C文学館オープン記念の記者会見で(1998.6.13)

          感想というとたったひとつしかない感じですけど、、本当に私にとって、
       この日の来るのを心から祈って、どの方も、幼稚園の生徒から一般の
       方々まで、本当にこんな事は世界にないと言われるほど、心を合わせた
       結果の今日でした。本当にありがとうございました。これからずっとお世話
       になると思いますが、よろしくお願いします。ありがとうございました。

          人間というのは、たったひとりなんだと分かるのは結婚してからではないか
       と思います。その結婚してからのひとりひとりの胸の中をのぞくようにして
       私はこんな事を言います。人間はひとりである、と。
         

          素人でない人はどこにもいない、最初から素人、みんなが素人・・その素人が
       男と女に生まれて・・社会にぶつかっていく・・そんなことを書いてみたいです・・

          文学というのは、人間を探ることだと思います。人間を見つめたい、人間を
       知りたい・・その人間を知るためにはいろいろありますが、自然というものを
       見つめる目をまず養っていかなければいけないと思っています。

            とぎれとぎれの言葉に病気の進行を思わせる記者会見は、光世さんの助けを借りながら
           行われました。

 

 綾子さんのお墓をお訪ねして

        「見たり聞いたり」などというコーナーに綾子さんのお墓のことを書かせていた
      だくのは不謹慎のことのようにも思いますが、ご容赦ください。

        2000年8月7日に納骨された綾子さんのお墓は、旭川の街を一望できる山の
      上に建てられています。
      「三浦光世 綾子の墓」と既に光世さんの名前も刻まれた墓石の下に、「神は
      愛なり」という聖書の言葉が書かれています。
      墓石の右側には、光世さんが綾子さんを詠んだ、
      「着ぶくれて吾が前を行く姿だにしみじみ愛し吾が妻なれば」
      また、左側には、綾子さんが光世さんを詠んだ、
      「病む吾の手を握りつつねむる夫眠れる顔も優しと想ふ」の歌の碑が建てられ
      その下に黄色いダリアが植えられています。

        綾子さんが歩んでこられた人生そのままに、虚飾を廃した清楚なお墓です。

        場所は観音台霊園・自由1区の一番奥。(墓地入り口に地図あり)

        ファンとしてお互い静かに綾子さんを偲びたいと思います。

        

  

    

文学碑除幕式に参加して

       2000年10月12日 午前9時30分から見本林入り口で、文学碑の
    除幕式が行われました。時折ぱらつく小雨も式が始まるときには上がって、
    林の中には陽が差し込んで来ました。
      式は、三浦綾子さんを偲んでの黙祷から始まり、経歴の披露、市長挨拶、
    除幕、三浦光世さんの挨拶と20分ほどの簡素なものでしたが、
    その後、参加者は文学碑の碑文をじっくり読んだり、光世さんとともに写真に
    収まったりして、いつまでも立ち去りがたい様子でした。
     光世さんは、「今日は感動で胸がいっぱいです。家内もどんなに喜んでいるか。
    感激の涙が、この雨になったかな、と思っています。家内は旭川で育ててもらい
    ました。みなさんの上に天来の恵みを祈ります」と挨拶されていました。

      

     碑文  風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽
          に輝いて、つくりつけたように動かない。
          ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃
          く短かった。その影が生あるもののように、
          くろぐろと不気味に息づいて見える。      (「氷点」冒頭)
             *文字は三浦綾子さんの直筆原稿から写し取ったもの          

     追悼文(背面) 文学碑建立に寄せて
                  この文学碑は旭川に生まれ、
                  この地で生涯を通じて作家活
                  動を続けてきた妻・綾子の業績を
                  顕彰して建てられました。
                  見本林の風景は、綾子のでデビュー
                  作となった「氷点」に活き活きと描か
                  れています。
                  この地を訪れた皆さんが、人間の
                  生き方を求め続けた三浦綾子の世
                  界に触れていただけると幸いです。
                                三浦光世
                          平成十二(二○○○)年十月十二日   

     文学碑は黒御影石などで造られ、高さ約2メートル、幅約1.2メートル。  

     

長野政雄さんのお墓を訪ねて

       2000年の秋、もうすぐ雪が積もりそうになる少し前、偶然、旭川市内に
     「塩狩峠」モデルの長野政雄さんのお墓があることを知り、地図を頼りに出かけて
     行きましたが、なかなか見つけられず、やっと、3度目に足を運んだときに、
     見つけることが出来ました。本当に質素なお墓でした。それがまた長野さんの
     歩まれた人生を象徴しているようで、新たな感動を覚えました。
      2001年春に旭川六条教会の100周年を記念して、お墓の改修工事が
     なされたとのことです。長野さんは90年以上前に亡くなられたけど、今も
     多くの人々の心に影響を与え続けておられるのですね。それが、
     「一粒の麦地に落ちて死なずば一つにあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」の
     「実」なのでしょうか。
      

 

   2001年8月に、旭川を訪れた折、長野さんの新しいお墓にも
   行ってきました。
   従来の墓石が見事に生かされ、信仰の先輩・長野政雄さんに
   対する六条教会の方々の熱い思いが伝わってくるようでした。
   墓誌の裏側には、ヨハネの福音書12章24節の「一粒の麦・・」
   のことばが刻まれていました。

   



   

   

            近文墓地は旭川駅から車で約30分。
            タクシーの場合は帰さないで待ってもらっていた方が無難です。

      

綾子さん命名の橋を訪ねて

  旭川から車で約1時間ほどの白金温泉に綾子さん命名の橋があると聞いて行ってきました。
  その地域一帯は、「泥流地帯」に描かれた十勝岳大爆発(大正15年)で、大きな被害を出し
  た場所であり、橋の命名に、綾子さんの深い願いが込められていることが分かります。
  なお、橋名板の書は、光世さんによるものです。

          〔流路工に架かる3つの橋〕

   旺文社刊の「漢和辞典」に「虹泉」の意味は、<たき。瀑布。>
   と出ている。瀑布にかかる虹を、私たちは時々見ることがあるが、
   確かに滝は、虹の泉のごとく虹を生む。
   虹といえば、旧約聖書の中に、有名な「ノアの箱舟」の記事が
   ある。そこには大洪水のあと、神が人間に約束された言葉が
書かれいる。<もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地(全)を滅ぼす洪水は再び起こ
らないであろう。>その言葉のあとに、神は神と人間との契約のしるしとして虹を見せると言われ
た。この神の約束を思って「虹泉橋」と名づけた次第である。(こうせんきょう)

 

   人間にとって光は永遠の希望であり、真理である。
   その光が永遠にあるように、との願いをこめて、「永光橋」とした。
                     (えいこうばし)


 


   講談社刊の「日本語大辞典」によれば、「昴」は<「集まって一つに
   なる意の『統る』から」牡牛座にある散開星団で、プレヤデスの和名。>
   とある。昴は昴星とも言い、清少納言の「枕草子」にも、<星はすばる>
   と出ていて有名である。「昴橋」は古くから人々に愛された「すばる星」の
名を借りてつけた。「統べる」ということは「乱れ」の対語でもあって、
               神の統べ治め給う平和な世界を願っての命名である。(すばるばし)

        〔望岳台方面の3つの橋〕

   中天に輝く満月も美しいが、山の端に光る新月もまた美しい。新鮮で
   祈りにも似た境地を感じさせる。自分が新月を見る時、「初心忘れるべか
   らず」の言葉を思い出し、この名を命名す。(しんげつばし)


    私たち人間は、どこに住んでいても、必ず隣人がいる。たとえ、山の中の
    一軒家に住んでいても、全く人の助けなしに生きていけるわけではない。
    旅の途中で、行きずりに出会った人とでも、微笑を交わす時、そこに隣人
    愛が生まれる。聖書にも「あなたの隣り(人)を愛しなさい」という言葉が
                書かれている。(あいりんばし)

    人間は、その人生において、時に絶望におちいったままで人は生きることが
    できない。「希望は失望に終わらない」というこの聖書の言葉を、私たち夫婦
    は、事ある毎に確認し合ってきた。希望は、人生にとって実に大きな原動力
    になる。(きぼうばし)


初代秘書・宮嶋裕子さんのお話から

2002年1月30日、日本橋タカシマヤ友の会の短期講習会で、宮嶋裕子さんから
「初代秘書が語る 三浦綾子の文学が伝えようとしたもの」というテーマで興味深い
お話を聞く機会がありましたので、いくつかを報告します。

 朝日新聞の懸賞小説のことを教えたのが、綾子さんの弟さんの秀夫さんであったことは
有名な話ですが、この弟さんは夢を追う人だったそうです。兄弟にもいろいろな性格の人
がいるので、他の兄弟がその新聞記事を見てもたぶん、綾子さんに小説を書くことは勧め
なかっただろう、とのこと。ああ、秀夫さんが見てくれてよかった!と思いました。

 三浦家にはよくいたずら電話もかかってきました。そんな時綾子さんは、「あなたに神様の
祝福がありますように」と言って、電話を切ってから、光世さんと「このような電話をかけない
ではいられない、孤独なこの方をお守り下さい」とお祈りしていました。実際何ヶ月かして
「許してください」という電話がかかってきたこともあるそうです。

 宮嶋さんにとって、綾子さん達と一緒にいただくお昼ご飯は、最高にハッピーな時でした。
ある時、綾子さんが「あんたさあ、人の欠点も見方を変えれば、長所になると思わんかい?
(北海道弁)」と話しかけてきたことがありました。この言葉で、宮嶋さん自身も、とても勇気
づけられ、子育ての時も「悪いところは注意はしたけど、絶望はしなかった」おかげで、お子
さん達のよいところを伸ばしてあげることができました。

 また、ある時は「裕子ちゃん、神様が願いを叶えてくれると言ったら何をお願いする?」
あれこれ考える宮嶋さんに、綾子さんの答えは「わたしは空を飛びたい」

 ある年のお誕生日、綾子さんから電話で、「裕子ちゃん、あんた生まれてくれて、ありが
とう。あんたがいてくれることがうれしいよ」と言われ、それは宮嶋さんにとって最高のプレ
ゼントになりました。

 ここには書ききれないほどのエピソードを伺いましたが、どれも綾子さん・光世さんの真実
に生き方を実証するお話ばかりでした。最後に宮嶋さんの賛美歌「いつくしみしみ深き」を
聞かせていただきました。綾子さんも、宮嶋さんやお子さん達の歌をいつも喜んで聞かれ
ていたそうです。