6月29日(木)

昨年、光世さんが
講演をした永楽教会

7月2日(日)

7月1日(土) 国際大会 於:聖民教会

第1回三浦綾子読書会国際大会(ソウル)に参加して
仁川空港の到着出口を出ると、
顔なじみの読書会のメンバーが「歓迎 三浦綾子読書会 第1回ソウル国際大会」と書かれた大きな横断幕をもって出迎えてくれた。
それは、今回会場となる聖民教会が用意してくれたものだそうだ。
次々と到着する各地からの参加者を出迎えて、ソウル日本人教会の吉田耕三牧師の運転するワゴン車に乗り込み、一路、宿舎の「韓国教会100年記念館」へ向かった。
 

開会の挨拶をする長谷川与志充代表

宿泊先の韓国教会100年記念館

韓国ドラマによく出てくるオンドルの部屋

吉田耕三牧師
 20年前、名古屋で牧会していたとき、堤岩里焼き討ち事件を知り、韓国へ行くことを決意し、ソウルで日本人教会を始められた。
 私たちの滞在中、大型のワゴン車の運転から、通訳、メッセージ、食事の世話、ツアーコンダクターのような仕事まで、疲れた顔をまったく見せないで、お世話くださった。
 開会礼拝では、「韓国の土壌には、日本の迫害と弾圧による、涙と血と汗がある。」と語られた。

開会礼拝 吉田耕三師 
「歴史の継続性」ヘブル11:4

6月30日(金)

歴史探訪ツアー

午前 華城市 堤岩里 3.1運動殉国記念館
ソウルから車で2時間半。
運転する吉田先生はさぞお疲れだったと思うが、
私たちにどうしても見せておきたい場所なのだと思う。

 まずは3.1独立運動紀念塔の前で、吉田牧師から
堤岩里教会の焼き討ち事件の説明を受ける。
23人の15歳以上の男子が教会に集められ、焼き討ちにされた事件。韓国では3.1独立運動の象徴的な事件であるのに、日本人の大人のなかでも多分知っている人は少ないのではないか。

 そこから、記念館へ向かう。
 入り口で、現在の堤岩里教会の牧師先生に出迎えていただく。吉田先生は「わたしのヒョン(兄)」と紹介してくれた。
 最初に視聴覚室のビデオで、3.1独立運動と堤岩里事件を10分ほどにまとめた映像を見た後、吉田先生の説明を受けながら展示室を見るが、その痛ましさに申し訳なさが募ってくる。
 尾山令仁牧師が謝罪委員会を設け教会再建のために1千万円の募金を献金したことを知り、ややほっとした気持ちになる。
 その後、記念館に隣接した現在の美しい礼拝堂で牧師先生とお話をする。先生の「事実を事実と認めることから始まる」ということばが心に深く残った。

三一運動殉国記念塔

現在の堤岩里教会

十字架に包み込まれる様な形の講壇で記念写真

お昼は堤岩里教会の教会員の方のお店でおいしい焼肉をいただいた。

独立記念館へ  さらに1時間半の道のり。
 遠くからでも見える「民族の塔」はパンフレットによれば、「大地を飛び立つ鳥の翼と、祈る両手の姿から民族魂と自主・自立に向けた意志を表した高さ51mの造形物」と書かれている。
 吉田牧師からは、「塔が二つに分かれているのは、国が二つに分かれていることを表している、それだけこの国の人たちが統一を求めていることがわかる」と説明を受けた。
 韓国の人々は、独立記念館を早く建てたかったが、経済的な理由などで、1987年(ソウルオリンピック前年)にようやく開館にこぎつけた。

 私たちが主に見学したのは、広い敷地内の第3館(日帝侵略館)と第4館(3・1運動館)。
再現された拷問部屋や女子挺身隊の写真などを見た後には、遠足に来ていたこの国の小学生たちに「アンニョンハセヨ」と笑顔で挨拶することはさすがにためらわれた。

 3.1独立運動は他の国の独立運動に影響を与えたことを
、ここで初めて知った。

民族の塔

午後

夜 森下辰衛先生講演  「銃口を読む」

「銃口」は、「戦争と教育」というテーマについて、正面から取り組んだ作品である。古い日本の罪と傷は、綾子さん自身の罪と傷であった。

集会(1)森下辰衛氏

「受け入れてくれるはずのない私を受け入れてくださり、ありがとうございました。」と過去、日本が犯した過ちの謝罪をされた。

 綾子さんの人生は、ヨハネ11:35の「イエスは涙を流された」、このまなざしの下にあった

集会(2) 長谷川与志充師

「みことばの祝福」というテーマで知識としてではなく、霊的いのちとして、みことばを受け取ることを勧められた。

集会(3) 宮嶋裕子氏

「綾子さんがもし作家になっていなかったら?・・・どんな仕事であっても、神様の愛を伝えていただろう」
綾子さんにとって、クリスチャンであることは伝道することだった。

集会(4) 韓弘信師(聖民教会牧師)

創世記22章から「供え物はどこへ」という題で説教をされた。
供え物のあるところに、神の火が下り、み業が起こる

真の供えものとは、主の弟子になることである。

集会後の記念写真

韓国、日本合わせて、40名ほどの出席。

「三浦綾子と出会う本」の翻訳者の方や韓国で働いている若い日本人女性など、たくさんのうれしい出会いがあった。

集会後は、ソウル観光へ。南大門市場の日本語がうまいお兄さんのお店でお土産を買ったり・・・

日本に宣教師として来られていた金先生ご夫妻に、宮廷料理をご馳走していただいた。

ソウルタワーに連れて行っていただき、うつくしいソウルの夜景を眺めた

午前 聖民教会へ

第1礼拝と第2礼拝の間のわずかな時間に、韓先生は牧師室に私たちを招いてくださった。
 いくつかの質問に答えてくださった後、「昨日、言おうとしたが、胸が詰まって言えなかった」と前置きされ、ご自身のお父様のことを話された。
「父は、現在、牧師を引退し、中国伝道をしているが、昨日、私は日本人の前でメッセージをしましたよ。と話したら、『私は日本人が嫌いで、日本人の前で説教したことがないが、息子であるお前が私ができなかったことをしてくれてありがとう。』と言われた。父は戦争中、クリスチャン(牧師の息子)であったため、日本人にひどい目に合わされ、今も左手にその傷跡が残っている。」

 一日4回ある礼拝の中で私たちが出席したのは、11時から始まる第2礼拝。おそろいのユニフォームをきちんと着た会場係の方に前のほうの席に案内される。吉田先生の通訳をイヤホンで聞くことができたので、何不自由なく礼拝することできた。
「礼拝の中で皆さんに一番見ていただきたいのは、聖霊の流れです」と韓先生が言われたとおり、確かに静かな中にも豊かな聖霊のご臨在が感じられる礼拝だった。
 

タプゴル(パゴタ)公園

 お昼においしい冷麺をいただいた後、すぐ近くのタプゴル公園へ。
 ここは、1919年、独立宣言が朗読された、3.1万歳運動の発祥の地である。
 公園内は、おじいさんがあちこちに腰掛けて、話し合ったり、じっとしたりしていた。「なぜ、男の人ばかりなのでしょう?」という問いに吉田先生は「男の人はここへ来てと昔を思い出していろいろ考えているのでしょう。」と答えられた。
 以前、先生が日本の高校生たちを案内していた時、時間がないので、簡単な説明だけをしていたら、近くにいた老人に「お前はなぜ、きちんと説明しないのか」と怒られたそうだ。先生は、「この人たちにはすでに各地で説明してきているから大丈夫」と答えたそうだが、ここを訪れる日本人を見つめるご老人たちの思いの一端が見えるような気がした。

公園内のレリーフ : 3.1万歳運動の各地の様子が刻まれている(クリックすると大きくなります)

 その後、午後2時半から始まる、ソウル日本人教会の礼拝に出席。
 出席者は日本人だけでなく、昔、日本に住んでいたお年寄りや、日韓のカップル、日本語を学んでいる韓国人学生など、さまざま。名前を聞かなければ、どちらの国の人か分からない。韓国に着いてから、両国の違いを感じることが多かったが、ここでは両国の近さを感じた。

 礼拝では、長谷川牧師が使徒の働き22章から説教をされた。「三浦綾子さんは伝道するために生き、死んだ。」と語り、「証人になる」ことを奨められた。

礼拝後は、教会の近くで野菜鍋をご馳走になった。偶然、途中から教会の青年会の方も来られご一緒した。吉田先生は彼らを見ながら「うちの教会の青年会の良いところは、韓国人も日本人も一緒になってやっているところだ」と嬉しそうに話されていた。

7月3日(月)

 帰国の朝はあわただしかったが、早天祈祷会で、長谷川師は、使徒の働き22章15節
「あなたはその方のために、すべての人に対して、あなたの見たこと、聞いたことの証人とされるのですから」から、今回の旅で見聞きしたことを伝えていく責任が私たちにあることを語られた。
 吉田先生に空港まで送っていただき、メンバーは三々五々、日本各地へ帰国の途に着いた。

 

 実は、最初は「親しいあの人も行くなら私も行こうかな」くらいの思いで、今大会に参加申し込みをした私だったが、その日が近づくにつれて、「行けばきっと何かが待っている」という期待感が大きくなっていった。

 韓国で行う三浦綾子読書会国際大会は、やはり過去、日本が犯した過ちを直視することなしには、始められないということが、初日の吉田先生のお話や堤岩里教会、独立記念館訪問を通して、私にも次第に分かってきた。聖民教会の講壇で森下先生が謝罪された時、私もその場で頭を垂れ、自分なりの謝罪の気持ちを表したつもりだった。しかし、集会後、「私も出て行って一緒に謝りたかった」と言うほかのメンバーたちの思いにはいたっていないというのが、その時の私の正直な気持ちだった。

 しかし、日曜日の朝、礼拝前の牧師室で、、韓先生はお父様の話をされる前に、なぜか、ご自分の歳を言われたのだ。「あぁ、韓先生は、私と同じ歳か」と思いつつ、その後に続くお話を伺ううちに、「これは昔の話ではないのだ、その苦しみは今も続いているのだ」と、今まで頭で理解しようとしていたことが一瞬のうちに魂に響いてきて、初めて韓国の方の痛みを自分のものとして感じることができた。 「もはや戦後ではない」と宣言された年に生を受け、のほほんと生きてきた私と同じ歳の方が他国の人間につけられた父親の傷を子供のときからずっと見続けてきたことの悲しみが、私の心に迫ってきた。それは、がーんと頭を殴られたような衝撃ではあったが、やっと分からせてもらったことがうれしくもあった。

  また、そのことによって私の三浦文学への理解が以前よりも少しは深まったようにも思う。
 今回の課題図書は「銃口」だったが、その中で、坂部先生は「人間はいつでも人間として生きるんだぞ」と教えている。堤岩里教会、独立記念館で見た日本人の蛮行は、人間が同じ人間を人間として扱っていない、つまり、人間として生きてはいない姿だった。平和なときには表に出ない人間の残酷さが、支配する側に立ったり、戦争状態になったときには、あらわにされてしまうのだと恐ろしくなった。
 森下先生は、講演の中で「綾子さんは人間が人間として生きることを追求した。」と言われた。綾子さんは「伝道のために小説を書く」と公言してはばからなかったために、「護教文学」などと批判されもしたが、「伝道のため」というのは単なる信者獲得のためではないだろう。人間が人間として生きること、つまり人間の尊厳(自分に対しても、他人に対しても)を保つことは、けっして人間の力ではできないと知っていたからこそ、自らの文学において神を指し示したかったのだと思う。

 韓国から帰って最初の礼拝説教で、私の教会の藤井牧師は「謝罪と悔い改めは違う。謝罪は、謝ること。悔い改めは、謝って、二度と同じことをしないこと」と語られた。それがどんな文脈の中で語られたのかは、はっきり思い出せないのだが、私は韓国でのことを思い出しながら、私にとっても、日本にとっても必要なのは「謝って、二度と同じことをしないこと」だと思った。
 
 今、晩年の綾子さんが、かすれる声で「仕方なかったと言ってはいけなかった」と戦争についてのインタビューにつらそうに答えていた姿が思い出されてならない。私にとっては、節目の年に、このような経験ができたことを感謝しつつ、「仕方なかった」と言わないように、しっかり物事を見ていかなければならないと思っている。
 
 誠に足りないところだらけのレポートです。参加した一個人の記録としてお読みください。

 今回の国際大会を計画してくださった長谷川先生はじめ、講師の先生方やお世話くださった方々に心から感謝いたします。

 
 
    ○講演や早天祈祷会のテープなどは三浦綾子読書会へお問い合わせください。
    
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今回の旅で得たこと