2000.9-1 

Mendelssohn:序曲「静かな海と楽しい航海」op.27/序曲「フィンガルの洞窟」op.26
R.Strauss:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」op.28/交響詩「ドン・ファン」op.20

J.カイルベルト/BPO.
- Stereo
Teldec
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私が初めてカイルベルトの演奏を聴いたのは恐らく廉価盤LPでのBrucknerの9番と6番だったように思います。9番も素晴らしい演奏でしたが、6番の方はそれを上回る堂々とした演奏でした。世の中がCD化に移行し始めた頃、一度カイルベルトの録音が国内盤でまとめて出たことがありましたが、これを横目で見ていたものの、そのときすぐには手を出さなかったら早々と廃盤の憂き目にあい、その後急いで輸入盤で出ていたいくつかの録音を買い集めた記憶があります。ひょっとしたらこうした古めのどちらかというと派手さのない演奏家のものは再びリリースされることがないのではないか、と正直考えていました。そうしたら数年前、何と1000円という価格で国内盤が再発されましたので、未入手のものを買い足すことができました。実はその少し前にも確か2枚組廉価盤で出ていたのですが、この時は少し躊躇しました。これが自社の音源を単純に組み合わせた、配慮の薄い組合せで、Mozart等はアーノンクールの演奏とのカップリングという代物だったからです。私はアーノンクールも好きですが、カイルベルトとの組合せでは聴こうと取り出したときに混乱しそうです。(別に非難しているわけではなく、個人的な好みの問題です)

 カイルベルトのMendelssohn「静かな海と楽しい航海」、「フィンガルの洞窟」はどちらも名演奏です。この作曲家の特有の明るい抒情味には決して不足しませんし(力強い弦のカンタービレ)、息の長いリズムから生み出される高揚感、例えば「フインガル」におけるAnimato以降のコーダ部分(Mendelssohnは旋律的ではありますが、意外に少ない素材を使って曲は作られていますし、息の長いコーダの作りは他の曲でも同様です)は堂々としたスケールの大きさを示しています。いかにも音楽が自立的に生成しているのような新鮮な響き、そして、BPO.の能力を最大限引き出す指揮振りはこの人ならではのものでしょう。
 こうしたMendelssonを聴いていると理想的なドイツの詩情が深い森から響いてくるような錯覚を覚えます。EMIに残したWeberの「魔弾の射手」の雰囲気と同様、ロマン派という言葉から自然に連想される幻想性と深い詩情が、力強い鮮やかな棒さばきで蘇っています。

 カイルベルトのR.Straussは、オペラも含めて録音も数多くあり、彼の得意な音楽だったようですが、この2曲だけでもそれは十分過ぎるくらい分かります。とにかく下手な小細工をしないでこれだけ演奏できる人はそういないでしょう。当時のBPO.はカラヤンの下で機能的にも響きの点でも最初の全盛期にあったと思いますが、完璧なアンサンブルと輝かしい音はほとんど比べようがないくらいの水準に達していて、ただ聞き入ってしまいます。「ティル」はR.Straussの管弦楽法は十分に発揮されているものの、私にはカップリングに適した聞き易い小曲というイメージがありましたが、ここで聴かれる大柄な演奏はどうでしょう。響きも全く抑制されたところがなく、と言って十分にコントロールされた理想的な響きと言えます。
 「ドン・ファン」は更にBPO.の力量が表面に出た演奏。オーケストラの開放的な鳴りの良さと指揮者の曲を知り抜いた揺るぎない造型が絶妙に呼応して素晴らしい音楽になっています。

 私には、カイルベルトはドイツの職人的指揮者という印象がありました。戦前から活躍し、戦後になってもほとんどドイツ国内で(日本へも度々訪れましたが)ドイツ音楽の正統的レパートリーを演奏し続けた人でした。梅原さんのサイトMusikvereinには詳細なディスコグラフィがありますが、これを見てもHaydn、MozartからR.Strauss、Hindemith、Regerに至るドイツ音楽がその中心だったようです。
 こうした演奏を伝統的なそして典型的なドイツ的演奏と言っても良いかも知れません。恐らく良い意味で最もドイツ的な響きを作ることが出来た人であったと言えるでしょう。でも単純にそう言い切ってしまうだけではカイルベルトの演奏の素晴らしさの半分しか伝えていないように思われます。ここに聴かれる音楽は「ドイツ職人気質」というイメージから感じられる「質実剛健」だけではありません。演奏奏様式はオーソドックスで、聞き手に媚びるところが皆無であるところは確かにドイツの堅実さを思わせますが、曲の流れと響きはむしろ柔軟性を感じさせると言ってよいでしょう。
 しかし、こうした演奏について演奏の特徴からどこが良いというような言い方をするのは難しいですね、何も特別なことをやっていませんから。テンポも中庸と言って良いでしょうし、大きなテンポの揺れもありません。過度に歌わせようとしたフレーズもありませんし、とにかく聞き手に媚びるようなところは皆無です。音はBPO.の響きですが、やはりどことなく素朴な色合いを感じさせるのは指揮のせいなのでしょうか。それは全然野暮ったい響きではないにしても何となく懐かしいような響きではあります。少なくとも音を磨き上げた現代的な音ではありません。例えば、カラヤンの60年代の演奏に比べると当然音楽の作りが違っている訳ですが、それ以上にオーケストラの響き方の違いに驚かされます。
 比較で言うと、カラヤンの場合はハーモニーが全体としての音響の中で捉えられているような感覚なのですが、カイルベルトの場合は反対にハーモニーの重なりで全体が出来上がる、といった印象です。ですから、音楽の襞が音によって埋められずに風通しが良いのです。そして音楽が非常に明確です。特にR.Straussの重層的な響きを明瞭に描き分けているのには驚きます。
 実は、カイルベルトの指揮が案外機能的ではなかったのか、私は聴いた感じだけで書いているので間違っているかも知れませんが、伝統的な音を引き出す一方で演奏の作りの点では随分現代的なのではなかったのか、という気がします。 

 Teldec(Telefunken)を中心としたカイルベルトの録音にはいくつかのドイツのオーケストラが登場します。ここではBPO.との演奏を取り上げましたが、振るオーケストラによって印象は少し違うような気がします。例えばBPO.を指揮したBeethovenの7番、Brahmsの1,2番、Weberの「魔弾の射手」等はどれももうこれ以上別の演奏がしようもないくらい完成されていて、ただ聞き惚れてしまいます。でもバンベルクso.を指揮した録音を聴くと、カイルベルトの解釈そのものは変わっていないはずなのですが、やはり少し小振りの演奏に聞こえてしまいます。ハンブルク国立o.の場合は丁度その間あたりでしょうか。確かにバンベルクso.よりBPO.を振ったもののほうが誰でも良くはなると思いますが、カイルベルトの場合、それが極端に思えます。カイルベルトは大変オーソドックスな解釈をする人です。奇をてらうようなところがありません。ですからオーケストラの良し悪しは演奏の良し悪しを如実に反映してしまうのかも知れません。勿論バンベルクso.を育てた功績はありますし、このオーケストラでの演奏も決して評価しないではありませんが、響きの良いオーケストラとの演奏をもう少し残して欲しかったというのが本当のところです。 

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