Brahms:ピアノ四重奏曲第1番ト短調op.25(Schönberg編:orch)

O.クレンペラー/LAPO.
38.5.7L  Philharmonic Auditorium, Los Angeles
 Mono
Archiphon
ARC-114/15


この曲は近年非常に数多く演奏されるようになりました。Brahmsの音楽の魅力とSchönbergのオーケストレーションが現代のオーケスラにとっては魅力的なようで、今や重要なレパートリーになりつつあります。Schönbergの密度の高い(そして派手な)オーケストレーションや終楽章のチャールダーシュのリズムは指揮者にとってもオーケストラにとっても最高の見せ場と言っても良いでしょう。

 この曲は周知の通りクレンペラーが初演したSchönbergの大オーケストラのための編曲版であり、ここに聴ける演奏がその初演です。この曲については、クレンペラーの回想がかなり詳細に残っています。

 わたしはシェーンベルクが編曲したバッハの変ホ長調の前奏曲とフーガをやった。それから彼はガヴォットやメヌエットなどを含む古風なスタイルで、学生のための小さい組曲を書き、わたしがやりました。その後、わたしはなにか編曲のようなものを書くように勧め、彼はブラームスのト短調のピアノ四重奏曲をフル・オーケストラ用に編曲しました。すばらしい作品です。ヨーロッパではめったに演奏されません−−まったく演奏されないといってもよいくらいですが、わたしはこの曲をもういちど演奏したいと思っています。まったく信じられないほどすばらしい響きです。もとの四重奏曲は聴きたくない。それほど編曲のほうが美しい。 (「クレンペラーとの対話」)

 また、この曲の初演に関わるSchönbergとのトラブルが面白い。

 だれでもシェーンベルクとの間ではトラブルが起こるのです。それはちっとも珍しいことではなかった。彼はそのブラームスをオーケストレーションすると、まだ演奏もしていないうちに、ただちに編曲料を支払えというのです。それはウィーンで彼の親戚の人が写譜するために、草稿をウィーンに送らなければならなかったからです。わたしは、演奏前に作曲者に金を支払うことは慣例ではないと言いましたが、シェーンベルクは300ドルを−−前金としてではなく、ウィーンへスコアを送るために要求した。わたしはトラブルを起こしたくなかったので、自腹を切って彼に小切手を渡しました。わたしはそんなことはマネジャーには頼めない−−彼はわたしが気が変になったと思ったでしょう−−これが問題を解決する唯一の方法だと彼に言いました。「そうだ、君は唯一の可能なことをやったんだよ。」そして彼は言ったのです。「初演をニューヨークでやらせても、君はおこらないだろうね。」わたしは怒りました。結局ニューヨークのコンサートはだめになり、わたしが初演をやりましたが・・・。 (「クレンペラーとの対話」)

 クレンペラーはこの初演後も戦後ヨーロッパに戻るまでは何度かこの曲を演奏していましたが、戦後は自身の言葉にもあるように演奏していないようです。これは当時この曲がヨーロッパでは全く知られてなく、自身演奏する気があってもその状況ではかなったということです。一方、アメリカ大陸ではラインスドルフがこの曲をレパートリーにしていたようで、かなり後の録音ではありますがBPO.との演奏がCD-R盤として出ています。ここでのクレンペラーの「ヨーロッパではめったに演奏されません−−まったく演奏されないといってもよいくらいです」という発言は、この辺の事情を前提にした発言だったように思います。
 クレンペラーがこの曲を晩年まで振りたいと考えていたのは上述の通りですが、実はEMIへの録音の話は出たことがあったようです。L&Tによれば、これはクレンペラー側からの要望であったようなのですが、EMI側がコスト的に得策ではないと判断し実現しませんでした。クレンペラーはこの曲が録音できないということで大きく落胆したということですから余程この曲に愛着を感じていたようです。実現したらどんな演奏になっていたでしょうか、聴いてみたかったですね。EMIも今の時代であればきっと録音させてくれたでしょうに・・・。

 この曲に纏わるもう一つのエピソードがあります。米Voxのサイトにある同社創設者George H. de Mendelssohn-Bartholdyがクレンペラーに録音を依頼したときの話です。

 Boxを設立して程なく、メンデルスゾーンは、ブダペストでの地位を委ねられたクレンペラーがロスアンジェルスの姉妹のところを訪れていることを知り、そこで会えるように手配した。33歳のメンデルスゾーンは世間慣れもしていたしそれなりに自信もあったが、彼がクレンペラーを訪れたとき他の客がいること、そしてそれが他ならぬアーノルト・シェーンベルクであることを知ると、少々動揺した。クレンペラーはメンデルスゾーンをまっすぐピアノのところへ連れていくと、そこにはスコアが開かれていた。「この曲を見てみろ」指揮者は言った。「頁をめくってはだめだ。これだけを見て、もし君がこの作品を言い当てられれば、私は君のために録音しよう。」メンデルスゾーンは楽譜をちらりと見て言った。「はい、これはブラームスのト短調のピアノ四重奏曲ですが、オーケストラ用に何かものすごいアレンジが施されています。」クレンペラーは笑いながらシェーンベルクを突っついたが、シェーンベルクの方は笑ってはいなかった。勿論この曲はブラームスをシェーンベルクがオーケストレーションしたもので、クレンペラーが1938年、ロスアンジェルス・フィルを指揮して紹介したものだったが、1946年には未だほとんど知られていなかった。Voxはおよそ35年後にボルチモアでこの曲を録音することとなった。(注:83年録音のS.コミッショーナ/ボルチモアso.の録音)

 私はひとつの曲を集中して聴くこともありませんし、集めることもなかったのですが、この曲だけは、FMで初めて聴いた若杉弘の演奏を超える演奏を、ということでCD化されたものは集めていました。そんなこともあって、初演の全曲録音はあるらしいとは思っていたものの、少し前まではこの演奏が本当に聴けるとは想像もしていませんでした。このCDがリリースされる以前にsymposiumからこの演奏がレコードで出ていましたが、これは1楽章と4楽章を抜粋した形のものです。全曲はこれが初めてリリースです。

 演奏は一言で言うと過激。一時続々とリリースされていた新録音がどれもクリアな録音に支えられ、オーケストラの威力と言ったものを味合わせてくれるのに比べ、この演奏の方はお世辞にも優秀な演奏とは言えません。録音状態もかなり悪い。テンポは速く、至る所に綻びがある・・・と言うより破れかぶれと言った方が近い。
 しかし、ここには現代音楽の旗手として活躍したクレンペラーのプライドを感じます。アメリカに渡ってからはこうした音楽をやる機会はほとんどなかったでしょうから余程力が入っていたのでしょう。初演に臨む緊張感と意気込みに加え、クレンペラーの過激な指揮ぶりが窺えます。クロル・オペラ時代の現代音楽に関しては今も聴く術はないのですが、この演奏からそれを推し量ることはできそうです。(別頁にこの曲の一覧を載せていますのでそちらもご覧ください。)

 尚、Schönbergに関しては素晴らしいサイトがあります。このSchoenberg Archivesは、ディスクだけでなくSchönbergに関してのあらゆる情報が網羅されているといってもよいくらいで、その膨大な情報量はただただ驚くばかりです。Schönbergはちょうど第1室内交響曲を書いた頃から絵も描いていて作品もかなり残されていますが、これらの作品も含め、全ての作品の画像、出展記録まで詳細を極めています。
 実はSchönbergは、1911年にカンディンスキーやマルクらが中心となって開催したミュンヘンでの「青騎士」 Blaue Reiter 展覧会に4点の作品を出品しています。これはこの年の1月初めに行われた演奏会をカンディンスキーらが聴きに行ったことが発端でした(カンディンスキーは同年この演奏会にインスパイアされた「印象III」という作品を描いています)。この後、カンディンスキーがSchönbergに手紙を出し、この作曲家が絵画も描くことを知って展覧会への出品を勧めました。この時、カンディンスキーは、Schönbergの絵をを誉めていますが、それは技法的なことではなくて、絵画の表現の仕方についてであって、言ってみれば随分抽象的観念的な評価の仕方でした。もともと「青騎士」は「ブリュッケ」とともに歴史上ではドイツ表現主義に位置づけられることを考えると、こうしたある種先鋭的な思考は当然と言えば当然だったのかもしれませんが、Schönbergの絵は私にはどうも素人画にしか見えません。カンディンスキーその人も年齢的には遅くに絵画の道に入った人ですから、そういう意味では共通する何かがあったのかも知れません。後に、カンディンスキーがバウハウス*にSchönbergを招こうとしたことがありましたが、ユダヤ人という障害と誤解からこれも実現しませんでした。この後、この両者はナチスの台頭もあり、全く別の道を歩むこととなりました。しかしこの後2人とも表現主義という共通の思想から非常に抽象的な構成感を指向していったというのは興味のあるところです。
 
 *バウハウスは1919年に始めワイマールに設立された総合芸術の専門学校のようなもので、その後デッサウへ移転され1933年まで存続しました。ここでは、舞台芸術についての講義も行われていて、いくつかのスケッチや写真を見ると非常に斬新で前衛的な舞台や衣装を作っていたようです。クロル・オペラの舞台制作には例えば同校で教えていたモホイ=ナジやシュレンマーの名前も見えます。クレンペラーのクロル・オペラ時代はこれらの舞台そのものの影響も大きく、彼の前半生(オペラに関しては全人生)を決定づけたと言ってもよいでしょう。
 尚、このバウハウスの校長はW.グロピウスという建築家ですが、どこかで聞いたことがある名前ですね。そう、Mahlerの妻アルマが彼の死後再婚した相手です。そしてこの2人の間に生まれ18才で亡くなったマノンのために書かれたのがBergのヴァイオリン協奏曲でした。