• 今の私が考える自分であるわたし

        今は、2007年です。
        10年前は1997年でした。
        私の人生の中で、これほど世界が変わるということを、
        実感させられるには、十分な時間でした。

        それまでも、われわれはTVゲームに親しみ、
        その世界観にとらわれ、楽しみ、時間を使ってきたのでした。
        Windowsの普及に伴い、家庭にもパソコンやインターネットが使えるようになり、
        2002年ごろにはADSLに加入にともない、大容量の通信が低価格で行えるようになりました。

        別に考えもせずとも、音楽ファイルは、そのあたりの転がっていたので、
        ファイルをダウンロードしていましたが、
        それが、日本語であり、世界に大量に置いてあるのは、アニメ系だったわけです。

        MP3の次に、アニメのOP、EDなどをダウンロードし始めるわけですが、
        そのきっかけは、光之大陸であり、
        それらを見ているうちに、それらに対する、社会的に考えられている抵抗感が無くなり、
        とりあえず、ダウンロードしていたわけですが…。

        一時は、完全に断ち切った回線ですが、
        再開すると、少しは静寂が戻ったかと思うと、次はWEB2.0の革命でした。
        動画に対しては、クォリティを重視するほうなので、
        YouTubeで見たいとは思わないですが、供給過多と思うほどの乱立ぶりです。
        世界中に10や20以上の配信サイトが現れ、あらゆる媒体に関して、
        無法地帯的なコピーが繰り返されています。

        現世に帰って、TSUTAYAに行けば、CDやDVDは山のように手に入り、コピーが出来て、
        部屋の中に、その面積を拡大せんとしています。
        外を走り抜けぬけ、図書館に行けば、CDやDVDやマンガや雑誌や本といった、
        あらゆるメディアがばっこしており、
        その中にいれば、2,3時間など矢のごとく過ぎ去ってゆくものであります。

        どこまでが、自分の考えている普通なのでしょうか。
        コピーを繰り返し、媒体が増えるにしたがって、時間は追われるようになります。

        また、人間の欲望にとらわれ、どこまで突き進めば良いのでしょうか。
        止まらない自分という存在が、加速していきます。

        元来、暇があると人間は、ろくでもないことをすると言いますが、
        それは、普通であっていいのでしょうか。
        自分のオフの時間は、社会の常識から離れた場所に移動し、
        それが、オンの時間にも続いている状態(とき)もあります。

        でも毎日見る夢の中では、何も考えない自分がいます。
        見ない日もありますが、見るときは現実とは違う時系列で時が過ぎます。
        強烈な体験のまえで、ドップラー効果が発生するような感じです。
        楽しい世界のなかで、シンプルな体験の中で喜びを感じています。
        まるで、幼稚園の子どもが、庭で遊ぶような無垢な感情だけが、そこには広がっているようです。

        生活を振り返ると、食事をするときも社会性を取り戻しています。
        そこには、食欲を満たす自分と、家族と会話をする自分がいます。

        人と話すときも、街を歩くときも社会性を取り戻しています。
        笑っている自分がそこにいるはずです。
        落ち込んだときには、魂の抜けたような、どんよりとした自分がいるはずです。

        ただ、そういう絶対領域に中にも、最近は影がさしてきました。
        なにかしら、違う考えが浮かんだりするのです。
        毎回ではありません、ごくごくたまに人と話しているときに、
        相手の言葉に対し、よくない言葉が浮かぶ、自分がいるのです。
        もう驚きとしか言いようがありません。自分も年をとったのかなぁと感じるのです。

        現実は、つづきます。多分、自分が何であれ世界は少しずつ進むのでしょう。
        そういえば、もうひとつ不安の種があるのです。

        街を歩いたり、過ぎ去るときに、見えたり、聞こえたり、臭ったりする、イヤなものです。
        別に昔から変わらないようなものですが、最近は良く感じます。
        それは、特に私より若い人から発せられたり、
        年上の人からも感じられるときがあります。
        街が暗くなると、より一層感じます。
        みんなが急ぐほどに、周りに感じる風はつめたく感じられます。

        それでも、今日と変わらない明日が来ることが、希望であり、
        未来を見ることができる喜びを日々感じています。
        あと50年後にはどうなっているのでしょうか。
        自分がどうあれ、生きていれば喜びはつづいていくのでしょう。
        夢や欲望もとどまることなく、流れていくことに恐ろしさも感じます。
        人間を楽しませる快楽が日々生産されていくわけです。
        それは、数千年間変わらなかったわけですが、現代の量は、
        比べられないものです。WEBページでさえ、星の数ほどの量があり、
        無限にループし続けるわけです。そこに含まれるファイルの大きさはどれくらいになるのでしょうか。
        人間1人が、1日1TB消費したら、果たして底がつくのでしょうか。

        考えてみたら、映像のもつ情報量は、文字のもつ情報のはるか先をいく量です。
        映画が1本2時間でドラマが1本50分とすると、1日映画6本と14本ほどのドラマを見るだけで24時間が過ぎます。
        もっと簡単にしようと思うとテレビは1日中、とどまることなく放送をつづけ、
        ラジオもまったく手加減の様子もうかがえません。
        だれも、情報を生産、送信することを止めようとは考えていません。
        放送することでも、社会的な利益が生まれるのです。
        ただ、受信することが自由なことに関してだけ権利があって、
        誰も電波の届かない無人島に行こうとは思っていないのです。

        人は、別に気にすることなく情報端末を携帯するようになり、
        また、無尽蔵の限りをつくすような情報が溢れでているのです。
        便利になることで、また情報が溢れでてくるのです。

        そういえば、生きていれば、限りなく情報が入手できます。
        その情報と何が違うのでしょうか。
        そんな疑問もふと浮かびます。

        ただ、もう考えることに疲れたので休むことにします。
        おつかれさまでした。
        (2007.09.21)    by miki-tea-en



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