SPECIAL THANKS!!


このページは、多くの人から頂いた知識や経験をもとに、様々な人々の御協力で作られています。
ここに、そういった方々の一部をご紹介したいと思います。


秋田の先生・先輩

-Masao Sugou-
 初めてスピードスケートを教えてもらった先生です。もともとホッケーをやっていらしたそうですが、それをスピードスケートに応用する形で素晴らしくきれいなエッジの使い分けをされていました。一昨年の12月にお亡くなりになりました。73才くらいだったと思います。

-Souhachi Sato-
 山形出身だそうですが、今はもうかなり秋田県人化していると思います。菅生先生と仲がよかった(?)方で、現在も記録会の時などにはスターターなどをやっていらっしゃいます。私も記録会の時は、「がんばれ〜」とよく応援していただきました。お年は、あまり聞いたことがありません。何歳なんでしょう? 60才ぐらいでしょうか。

-Kouetsu Sato・Choko Sato-
 父親と母親です。父親には、高校まで、冬の間は雪に閉ざされたスケート場まで車で送ってもらいました。私たち兄弟がスピードスケートを始めるようになってから、自分でもやるようになり、現在ではコーチのようなこともさせていただいているようです。記録会で通告をやっています。

-Junichi Moribayashi-
 かなりすごいスケーターです。もう40才を超えているのですが、いまだに500mは45秒を切ってきます。国体での優勝経験も数知れず。中学、高校と先輩として、指導者として、お世話になりました。

-Shuichi Sato-
 高校生の時にコーチしていただきました。年齢的には下のアキラさんより少し上だったと記憶しております。最近はまたパチンコに行ってるのかな?

-Akira Sasaki-
 小学校6年生でカモシカクラブに入り、菅生先生の教えを受けています。掲示板で「みちのくのスケーター」と書いて下さったのは、この方と思われます。年齢的には10コ近く上なのですが、いつも気さくに話して下さいます。

-Jun Yuda-
 小学生の頃からかなりすごい(すごすぎる)スケーターで、学年的には3コ上なのですが、中学・高校の時に陸トレも含めて一緒に練習させていただきました。全日本レベルと言うよりは、全世界レベルと言わせていただいてもいいかもしれません。現在は、筑波大学でスピードスケートの研究をなさっています。ちなみに、このページでリンクしているリレハンメル五輪銅メダリストの河合さんも筑波大学の方です。

-Ikuko Wakabayashi-
 やはり小学生の頃からすごいスケーターで、学年的には3コ上でした。女性ながら全日本レベルのスケーターで、ときどきリンクでも後ろにつかせてもらっていました。

-Fumihiko Sato-
 弟です。短距離選手で、長距離選手である私とは最近では練習内容がかみ合わなくなってしまいましたが、やはりバッジテストB級のスケーターで、いい練習相手・競争相手でした。





東北大学の
先生・先輩・後輩

-Fumihiko Hoshino-
 放射線科のお医者さんで、東北大学の名誉教授をなさっていました。医学部サッカー部とともに、スケート部を非常にかわいがって下さいましたが、1997年の春にお亡くなりになりました。70代後半であったと記憶いたしております。

-Hiroshi Okamoto-
 医化学の研究者で、東北大学医化学第一講座の教授を長くなさっています。現在、東北大学学友会スピードスケート部・医学部スケート部の部長を兼任していただいており、1998年の東医体・医歯薬では大会長として秋田に来ていただくなど、大変お世話になっております。

-Nobukazu Nakasato-
 脳神経外科のお医者さんで、脳磁図などの機能画像の研究もなさっています。現在、スケート部の監督をしていただいており、多面に渡る多大なご協力・アドバイスを頂いております。

-Hiroyuki Shibata-
 消化器科のお医者さんで、癌遺伝子の研究もなさっています。スケート部外学部スケート部を母体として学友会スピードスケート部に昇格した瞬間の役員会に出席していただきました。

-Shunichi Megawa・Takayuki Fukaya・Jun Sasakado-
 最初の二人は1コ下、Sasakadoは2コしたの後輩です。1995年から1996年にかけて、学友会スピードスケート部の創部にあたり、えもいわれぬ苦労をともにしました。まあ、正式に考えればSasakadoが初代主将ということになるんでしょうか。その辺がかえって一番落ちつくところかもね。何はともあれ、本当に感謝しています。ありがとう。

-Satoshi Ohata-
 経済学部2年生の後輩です。POWER UP ON ICEを担当してもらいました。このホームページの作成に関しては最もお世話になった後輩です。ありがとう。

-Takeshi Mori-
 工学部2年生の後輩です。WEIGHTの片足屈伸のところをやってもらいました。

-Tsutomu Takahashi-
 理学部2年生の後輩です。学友会スピードスケート部のプロフィール型ホームページを作っています。

-Fumihiro Oba-
 文学部2年生の後輩です。このページの掲示板(SKATERS' BOARD)の常連です。





参考文献

1. SPORTS SCIENCE編集部: スピードスケートの科学的トレーニング -Bridge the gaps between sports sciences and coaches, players in speed skating-.
SPORTS SCIENCE 1982;1:38-45

2. 根本勇: 速く滑る -スピードスケート-.
SPORTS SCIENCE 1983;2:921-934





and MANY OTHER PEOPLE...





 -1996.12.7(大学3年)時の部誌-

 今日のAM0:28、俺のスケートの一番の恩師である菅生先生が亡くなった。留守電で母が言っていたのだが、呆然としている。小学校5年生の時、貸靴のスピードスケートで遊んでいた俺と弟を、「本格的にスケートをやってみないか」と誘ってくれたおじいさんである。
 中学2年の時にレベルが高くなって菅生先生にはもうキツいということになってからは、先生が替わって、(秋田のリンクに写真の大きく出ていた) 森林さんがコーチしてくれたが、やはり一番お世話になって、しかってくれたのは菅生先生である。最近は年賀状を出すくらいで疎遠になってしまっていた。何で最近スケートに来ないのだろうとおぼろげには思っていたが、病気にかかっていたとは...。気付かなかった自分がホントに情けない。
 本当にここ5年くらいは、ほとんど話してなかった。こんな感じで人の死はやってくるのか。

 もし、菅生先生が亡くなったら、医者になってどんなに忙しくても葬式には絶対行くと思っていた。菅生先生の葬式に行けないような大人にはなりたくないと秘かに思ったこともあった。だけど、もし、国公立や東医体や医歯薬と重なったら...。国公立や医歯薬と重なったら、残された後輩達の交通手段がちょっと想像つかないし、最後の東医体にOBを呼んどいて主将が行かないなんて!! しかもただでさえ最近主将としての役割を果たしてないのに。

 ...とにかく重ならないことを祈るのみである。
  今年は何だかんだと嫌なことが続く。その全てが、
   「もっと他人のみになって考えること」
   「もっと強い人間になること」
  ...を要請しているように思えてくる...
......






自己紹介

-Shinichi Sato- 23才 東北大学医学部5年

 小学校5年生の時に、故・菅生正雄先生(専門はホッケー、生涯の師である)を師としてスピードスケートを始める。練習日は、月・水・木(毎週記録会)・金の週四回。
 中学・高校の間は、森林純一・湯田淳・宮崎浩一・佐藤修一各氏に教えを受ける。練習日は、月曜日から土曜日までの週5回。
 高校1年生の時にインターハイ、国体に出場。3000m、5000mでB級を取得する。高校2年生で同じく国体に出場。

 東北大学医学部に入学し、医学部スケート部、医学部陸上部に入部。1年生でインカレに出場した。練習は、週一回程度で、合宿にも参加。1月に、スケート部が学友会体育部直轄部として学友会に仮加入となる。

 同2年生で、鈴木基、女川俊一、深谷孝幸氏とともに、学友会スピードスケート部の創部に関与。インカレ・国体に出場し、5000mで自己ベストを更新する。練習は、週三回程度で、合宿にも参加。1月に、スケート部が学友会直轄部に本加入する。

 同3年生で、東北大学学友会体育部直轄スピードスケート部主将に就任。インカレ出場、東北大スピードスケート部始まって以来の得点獲得(未確認)。練習量は、2年の時と同程度。1月の代表委員会で、スケート部の学友会加盟が承認される。

 同4年生の4月に、学友会加入が役員会で承認される。医学部スケート部主将就任。SPEEDUP MANAGERの編集に着手する。その他執行部関係の資料をまとめる。練習は週四回程度。

 同5年生の5月に、学友会加入が理事会で正式に承認される。SPEEDUP MANAGERをホームページとして開設。スピードスケートの練習、レース、その他の情報を公開する。練習は週二回程度。





今後の活動予定

 練習は、回復時間が十分とれるような状況であれば、やります。回復時間が十分とれないような状況であれば、やりません。
 はっきり言ってまだ全然医者ではなく、医療に関する知識は一般の人とほとんど同じなのですが、今後はチームドクターのような態度も持ち合わせて、故障した人や故障しそうな人のケアをしていこうと思います。

 後は、やっぱり、そろそろいい加減、国試の勉強をして、社会的な役割も果たしていかなければなりません。このホームページも、いろいろな人が見るにつけ、いろいろな評価をして下さることになるでしょうが、まあ、なるようになると思います。いずれにしても、お金という尺度では測れない活動なので、経済成長率の回復には役立たないかもしれませんが、多かれ少なかれ自分のため、人のためになっていているのならば、時間的・体力的な余裕のあるときに少しずつやっていくことになるでしょう。

 将来的な医療活動は、秋田、東北、世界、あるいはその他、のどの舞台が主体になるのか、まだよく分かりませんが、その橋渡しをする役目を担うことになるのかもしれません。内科か外科かクラインかもよく考えていませんし。これからは、心に腹黒いもの(非道、策略、裏切り)を抱えながら生きていくかもしれないし、人の役に立つことだけを考えて生きていくのかもしれないし、偉くなるかもしれないしならないかもしれませんが、とにかく頑張っていきたいと思います。(これは、典型的な日本人の口癖ですが、楽しむ、エンジョイする、と表現しても、結局私がやるべき事をやっている、という意味では同じ事だと思います。)




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