「北欧木工漫遊記」とは、94年夏スウェーデンの工芸学校カペラゴーデンのサマーセミナーに参加した私が、帰国直後にPCVANの家具とインテリアSIGに連載した旅行記です。今読むと感傷的で恥ずかしい部分もありますが、若干の写真を加えてここに再公開します。KAGUの皆さんとの出会いがなければ実現しなかった旅です。ありがとうございました。


北欧木工漫遊記(1)

(はじめに)
 WWMおじさんの木工講座はしばらく中断し、今回の旅行記を連載します。木工の話題が多いとは思いますが、実は生活そのものが興味の対象でありました。
 また、アーミーの義務を終え、仕事に人生に悩む22才のメチャ面白い、同室の人のいいウイレ、セミナー中に19才の誕生日を迎えた音楽中毒のガブリエール、昨年北欧の留学先をさがす一人旅をしていてカペラに惚れ込んで今年やってきたイッコさん、タクシー運転手で彼女を1週間も同伴したマッツ・・・あげればきりがないほど、人にめぐまれたことが楽しい旅行であったことの一番の原因です。
 私事で恐縮ですが、こんな年で1カ月近く仕事をさぼり、家事や子供をホットらかした夫を気持ち良く送り出し、迎えてくれたヨメさんに感謝します。

(成田からSASに乗って)
 ヒエー!2700円!!!。「なんでこんなに高いんじゃ」と腹立てながら箱崎からリムジンバスに乗り込んだ私は、空港使用料をまた払わされ、「観光客が交差するところはいつもいやな気がするわい」とおもいつつ、SASスカンジナビア航空の飛行機に。
 SASは少々高いが、ベタベタしないポイントを押さえたサービスと、室内の快適さに満足した。5列おきぐらいに配置された小さなテレビは映画がないときは、いつもカラーの世界地図と飛行機の絵で現在地を知らせてくれる。高度10000メートル、速度900キロぐらい、外気温−60度、到着予定時間と現地時間などの表示はいつ見ても飽きなかった。

 10時間の飛行を終え、アーランダ国際空港に到着し、ヘマをしないように注意しながら、入国審査、両替をすまし安いリムジンバスでストックホルムへ。まず、2日後の列車の切符を買いに駅に行く。メチャクチャな英語にかかわらず、てきぱきした対応で切符を出してくれた女性職員に気をよくし、また、ホテルの場所を聞いたおばあちゃんの「Well Come!」にも気を良くして、イッコさんからすすめられ、日本からFAXで予約したホテル「ベマ」へ向かう。
 オフィス街にある普通のビルの一階のそのホテルは小さいが気持ちの良いホテルであった。防弾チョッキのようなベストに全財産、パスポートを詰め込み、ショルダーバックにカメラの姿で、今日は市内を歩き回ることにする。

 市内中心部を抜け、ガラムスタンの古い町並みに入る。いつも履いている靴が少々ゆるい。これは失敗。やはり、しっかり足元を整えるべきであった。歩き疲れて、ホテルへもどり、近くのレストラン、といってもただの街角の店の前のテラスで「パスタスペシャル」というきしめんにクリームソースをかけたようなパスタとビールを飲んで、少し、「外国に来たな」という気分になった。

 夜は10時頃まで明るい。なかなか寝れないが疲れをためてはいけないと思い、けっこう早く寝たのであったが、空調のない部屋は暑かった。


ホテルベマのある通り

北欧木工漫遊記(2)

 日記形式はどうもダラダラするような気がしまして、執筆方針を勝手に変更します。観光名所めぐりはガイドブックのほうが良くわかります。
 さて、たった1日のストックホルムで観光名所以外に行けたのは、イケアだけでした。 イケアは神戸にもイケヤタウンがあり、若い頃、小さな子供を連れて良く行ったものです。その本家本元のイケアはストックホルムから地下鉄で約30分の大阪で言えば桃山台みたいな駅から徒歩20分のところにありました。おじんさんいわく、「イケアがノックダウン方式を始めたので、見る価値ありますよ」とのこと。

 店は、円形2重構造の変わったビルと四角の倉庫兼ストック場とからできています。どの階段にも鉄のレールみたいなものが滑り台のように設置されているので、「危ないなあ、こけたらどないすんねん!」と思っていましたら、赤ちゃんをのせたバギー用の車の通るミゾでした。イケアの方が一枚上手でした。
 パイプを使用した6万円ぐらいのイノベータータイプの椅子に座ってみて、その座り心地の良さにびっくり。「木の椅子よりこれがほしい」とこれ実感。超高級品から普及品までありますが、白木の無垢材と金属使用の高級品の椅子が気に入りました。
 興味深かったのは、オスモカラーと同じ様なワックス+亜麻仁油の塗装剤やハケをしっかり販売していたことです。無塗装の白木の家具を買い、好みの色のオイルワックスで各自仕上げるのではないかと思います。この塗料を1缶買おうと思いましたが、重量を気にしてやめました。

 そのご、カペラガーデンのストックホルム校に電話をするが通じないので、あきらめ美術館を見たり、公園で寝ころんで、ノーブラのお姉さんを見ながらビールを飲んだりしておりました。有名なギャラリーでガラス器の展示があり、見ましたがこれは日本のレベルとはかなりちがう色彩と透明感のすばらしいものでした。

 一夜明けて、駅に行く。

 等々に感心しながら感傷的になっている中年おじさんをのせた列車は一路カルマルへと向かうのでありました。

北欧木工漫遊記(3)

 カルマル駅まで迎えに来てくれるはずなのに、電話が通じないので、バスとタクシーでようやくたどりついたカペラガーデンは別荘地の間にひっそりと古い農家の建物と大きな菩提樹が印象的なぜんぜんハデさのないところでした。
 料理長らしきおばさんが出迎えてくれ、同室になるウイレ君とその両親にも紹介されたのでした。荷物がおおいので国内から来る人は自分の車か、両親や友達の車で運んでもらうらしい。
 宿舎は立派な寝室5つとダイニング1つ、それにシャワーとトイレのある快適な一戸建て。日本からのイッコさんも同じたてものでした。ベッド、椅子、テーブル、キッチン、フロアスタンド、電気のかさ、ほとんどパインでもちろんカペラ製。最小限の太さで細身でスキッとしたデザインは今まであまり見たことのない物。手抜きのない作りにも感心。

カペラゴーデン中庭

 前日はセミナー期間に入っていないため食事はないが、よかったらこれでも食べなさいと言う感じで食堂にパン、ハム、チーズ、バター、クラッカー、コーヒーなどがおいてある。簡単な食事をして荷物を入れ、イッコさんとおとなしそうなスウェーデン女の子と3人で近くのカフェにいき、夜遅くまでビールを飲みながら話を楽しんで寝た。

 翌朝、いよいよセミナーのスタート。朝の催しでカペラガーデンの歴史やカール・マルムステインのことや、ここでの生活全般についての話があったと思う。

セミナーの一日はだいたい次のようなもの

月から金
07:30 朝食
08:00 朝の催し
10:30 ティータイム
12:00 昼食
17:00 夕食

土曜
08:00 朝食(昼食は各自が朝食の時にサンドイッチを作る)
17:00 夕食

日曜
10:00 朝食
14:00 軽い間食
16:30 夕食

土は特別のプログラムがあったりするが、日は全くフリーであった。

 その後各グループに分かれて自己紹介。木工、テキスタイル、陶芸3コースあり、各々15名程度の生徒数である。午後は、コースに関係なく適当に選んだ数名のグループに分かれて、身の回りのものを使って、恐いモニュメントを作るという課題が与えられる。女の子のエネルギーがすごい。遠くまでいって草を集め、梯子を骨組みにし、大きなワニの口に人間が挟まったような恐ろしげな物を作り上げた。
 夕食後、全員で各グループの作品を見て回り、グループの一人がそれを解説する。それぞれ工夫と豊かな発想ですばらしい。みんなとても積極的で、日本ではこのようにはいかないと思った。

北欧木工漫遊記(4)

 カペラ・ガーデンはとても食事を大切にしている。最初に、ベジタリアンの人は申し出て肉無しの料理が出される。そうでない人も、基本的には菜食主義にちかい食事であるが、とにかくとてもおいしく、健康的で、簡素だけれどすばらしい食事でした。セミナー中、日本食が食べたいと思ったことは全くなかった。

 朝食は、7時半のベルを聞いて食堂に行くと、テーブルにパン、クラッカーみたいなもの、バター、ハム、チーズ、ピクルス、ヨーグルト、木ノ実のくだいたもの、コーンフレーク、干しぶどう、ジャム、ジュース、コーヒー、ハーブティー、紅茶などがならんでいる。たまに、オートミールのような、あるいは日本のおかゆみたいなものがでていることもある。
 好きなものをとって、食堂か外のテーブルで食べる。多くのスウェーデン人は大量のヨーグルトに木ノ実を砕いたようなものとジャムなどをいれて食べる。私もこれが大好物で、深いお皿にいっぱいのヨーグルトを毎朝食べていた。
 食事のときだけではないが、感心することがある。それは過剰な清潔感覚がないこと。はえがとまっても気にしないし、人が手で掴んだチーズなんて平気だし、パンをじかにテーブルに置いているひとも多い。私も山岳部暮らしで多少不潔なほうが合っているので、たいへん居心地が良かった。日本の、特に若い女性の異常な清潔習慣はそろそろ考え直した方がいいと思った。このことは、シャワーや洗濯といったほかの生活でも同様で、案外着たきりであったり2.3日シャワーをしない人も多い。

 食事が終わると、かたづけであるが、このシステムにも考えさせられた。まず、みんなが、せいぜい1〜2枚の皿とコップひとつしか使わないようにしている。ジュースを飲んだコップでそのままコーヒーを飲む。食べたあとの食器は、流し横の食器立てコンテナに立てて置く。コンテナがいっぱいになると、横の流しに移動し、上から簡単に熱湯シャワーをかけてから次に横の食器洗い機に移動し短時間に食器洗いが終了する。もちろん、たまにはカスがこびりついていることもあるが、そんなことは気にしない。この方法だとあとかたづけがとても簡単。日本のような小皿いっぱいの食事では、あとかたづけが大仕事である。見習うことができたら主婦の負担もグーンと少なくなるとしみじみ思った。

 また、あとで昼食や夕食について書くが、野菜が多いこと、そして精製していない小麦を使ったパンや豆類がおおく、繊維質が充分にとれ、塩分は少ない食事である。ただ、海草類はまったくでなかったのでワカメがサラダに加われば完ぺきやなと思った。朝食の後、毎日趣向をこらした時間をすごしたあと10時過ぎにお茶の時間があり、リンゴジュースとコーヒーか紅茶かハーブティーを飲む。

北欧木工漫遊記(5)

 食事の話の続き。昼食が一日でいちばん大切なフォーマルな食事である。この時だけは、ベルがなって食堂に行くとお皿がテーブルに一人一枚ずつきちっと並べてある。
 まず、お皿を持って大きなサラダボールから野菜をとりテーブルにつく。メインディッシュがでてきて、必ず誰かから料理についての説明がある。たまには「ラズベリーのアイスクリームのデザートがありまーす」と言われ歓声があがったりする。夕食は内容的にはほぼ同じであるが、各自勝手にとって食べてよいので外のテーブルで食べる人も多い。私も後半は気持ちがいいので外が多かった。

 さてメニューであるが、メインディッシュを毎日簡単に記録していたので披露します。このほかにかならずサラダがつきます。

 

昼食

夕食

7/18 カネロニ 魚のフライ
7/19 ミートローフ 野菜とポテトのスープ
7/20 ライスとカレー
ラズベリーのアイスクリーム
ポテトと魚のいためたもの
7/21 トマトソース
リンゴとバニラソース
マッシュルームとベーコンのグラタン
7/22 ミートソーススパゲティー 生にしん?に味付けしたものにヨーグルトソース
7/23土 各自朝作るオープンサンド ベーコンとハムの卵とじ。ポテト
7/24日 濃いいフルーツジュース サーモンとポテト
7/25 ソーセージのストロガノフ サーモンと野菜の冷スープ
7/26 クリームベーコンパスタ ローストポーク、ブラウンソース
7/27 ミートソースとライス 各自の手製パンとサラダ
7/28 小キャベツ煮込み フランクフルト
7/29 魚のフライ たきこみごはん
7/30土 朝作るオープンサンド チキン照り焼き
7/31日 濃いいフルーツジュース ポテトグラタンとローストポーク
8/01 野菜のボルシチと玄米 野菜パイ、チェリー
8/02 シーフードブイヤベース
チェリーのパイ
ブロッコリーとえんどうのクリーム煮
8/03 大ソーセージの野菜スープ煮 ブロッコリー、アスパラのクリーム煮
8/04 焼き豚、ブラウンソース 野菜のグラタン
8/05 野菜スープ 野菜中心の食事
8/06 *青身の魚のスモーク、ポテトとクリームソース(*閉講式用の特別料理)
 

北欧木工漫遊記(6)

いよいよ木工である。2日目、先生のベンとアシスタントのシニカ嬢(以下シニカ)に生徒16名の本当の約3週間のセミナー生活が始まった。
 木工室は食堂のとなりでもっともメインの場所にあり、古い農家を改造した手加工とプレス機がおいてある部屋と、後に建て増しし、大型の木工機械と材木のストック場、塗装の部屋がガラス窓のある壁でしきられ隣接している。おそらく、開校当時は、プレス機のところに木工機械がおいてあったのではないかと思う。
 ズラーとならんだ16台のワークベンチが一人に一台ずつ割り当てられ、工具は、最初に洋鉋2丁(長台と普通のやつ)、木つち、スコヤ、ナイフ、メジャー、ゴミ掃除用の小ブラシなどが配当される。

 まず、車に分乗して、20分程はなれた森へ行き、地元の人の協力で、バーチ(ブナに近い)の直径40センチぐらいの木を切り出しに行った。すでに倒れてはいるが、最近切り倒されたバーチをチェーンソウで長さ60センチ程度に輪切りにする。枝などは、みんなが手のこでおとし、汗だくだくなって車にのせて持って帰った。途中、ベンの家に寄り、梅の小径材ももってくる。ベンのボルボワゴンがひっぱるトレーラーというか荷物車が便利そう。


森で切ってきた木

 昼食後、庭で斧とくさびによる木割りの練習と各々の課題であるスプーンとおたまの材料を斧だけで荒木取りする。全くの生木である。木を斧とくさびで割る方法は知っていたが、実際にやるこのははじめてで、斧を振る手がとてもだるく、イッコさんははじめての木工でもあり、かなりしんどかったと思うが、もくもくとがんばっていた。カペラ・ガーデンのパンフレットにも必ず登場する、おたま(スープをすくうおおきなしゃもじ)は、森からきりだした生木を使い、斧で気取りし、あとはナイフと、のみと手のこで作り上げるのである。その前に、やや乾燥した、梅の木でまずスプーンを作る。木取り、穴堀り、柄や外部仕上げという順で加工する。
 この段階で木目を考慮した木の使い方や、カービング用の丸のみの使い方を教わることになる。スプーンは半日ほどで形になるが、洗練されたよけいな太さのない形に仕上げることはとても奥の深い作業であった。また、乾燥が急速にすすむので、すぐに小さいクラックが生じるので、手早く均一な厚みに仕上げなければならない。最後の仕上げを残すだけになった生木のスプーンはおがくず中に入れて、均一な乾燥をさせる。以後も生木を使った作品は、最終仕上までの間いつもおがくず中に保管した。

北欧木工漫遊記(7)

 朝8時からの朝の会が終わってから、昼食をはさんで5時まで木工、そして夕食のあと生徒全員が当番制で木についてのレクチャーをする。夕食後、その日の木の下に行って、スウェーデン語で書かれたA4一枚のレポートのコピーを配り説明し、最後にベンがサンプルの木片を配ってくれる。プラム、バーチ、エン(ネズ)、チェリー、アッシュ、ウォールナット、カエデ、ナシ、ニレ、ボーク、ボダイジュ、ナラ、・・・などなど。日本名のわからない木もたくさんあった。
 私はウォールナットがあたったが、スウェーデン語が皆目わからず、とても苦労し、ウイレにほとんど訳してもらってなんとかノルマをこなした。ベンに「ウォールナットの木がどれかわかったか?」と聞かれ、恥ずかしいながらわからなかったのであるが、なんとその木はいつも見ている中庭の木であった。今、手元に17枚の木片がある。これがそのレクチャーの証。今まで、材木はわかっても生えている木の姿と一致はしないことが多かったが、少しは木の姿が見えてきたようだ。


巨大なオークのコブ

 おたまにサンドぺーパーをかけるのはかなり乾燥してからということで、次の製作に移る。次の課題は、自然の葉をモチーフにした木のお皿であった。この課題から、かなりみんなの個性がでてくるし、また希望により乾燥材も使える。バンドソーも自由に使うことが許される。私は、まわりにギザギザのある葉の形をした皿をニレで作った。とても硬いので穴堀は苦労したが、今まで自分ではできなかった作品ではないかと思う。それまで凹面の仕上げに自信がなかったが、丸のみやバンカキみたいな道具、スクレーパーなどを駆使して曲面をきれいに仕上げてゆく。

 この作品はけっこう評判がよくて、ほかのコースの女性が見に来て、「私はこれが好きだ」とか言ってくれる。とてもうれしい。仕上げについては、長くなるので後でしっかり書くつもりだが、オイルフィニッシュについて得るものが多かった。最もよく使うのは亜麻仁油であるが、私が売っている亜麻仁油よりもかなり色が濃い。聞いてみると、精製した亜麻仁油は高いので精製していない亜麻仁油を使うとこんな色だということであった。ウイスキーより少し濃い色である。
 この未精製の亜麻仁油に北欧のオイルフィニッシュの秘訣がありそうに思った。ところが、帰国後、仕入れ先に問い合わせてみても、日本では工業規格によってきめられた精製された透明な亜麻仁油しか入手できないようであった。

北欧木工漫遊記(8)

一日の使い方は、かなり日本とちがった。たった3週間のセミナーということもあって「寝るのがもったいない」という意識がある。5時に夕食を終えてから、木の勉強会をして、それからまた木工する。私はしっかり寝ないといけない方で、11時過ぎには寝ていましたが、同室のウイレ君は後半は2時、3時まで作業をして朝起きられずに寝坊してました。

 木工室は閉まることがなく、いつでも使えるのです。バンドソーも。先生も10時ぐらいまでは居て、アシスタントのシニカはカペラに住んでいることもあって、最後までつきあってくれたようだ。

 木の葉の皿の次のテーマは”三角、四角、丸、及び三色の色をつかった、何かを収納できるものを作れ”であった。
 この課題で、なかなかスゴイ作品がでてくる。個性というか発想がユニークであった。生木の丸太を半分にして中をくり貫き、トイレットペーパーボックスを作った女性。インディオやインディアンなど文明国によって迫害された民族の文化がすきだというウイレは、極彩色の仮面のボックスを作った。19才のガブリエールは、ピラミッド型の入れ物で裏返すとバックギャモンになるという代物を作った。私は、円錐形の何とも言えない、名刺整理棚兼小物入れを作った。この自分の作品は、本当に奇妙なもので、なかなか面白いと思ったし、先生のベンも見学者がくるたびに、この作品を紹介していた。

 おっと、忘れていました。その前に、ナイフを作ったのでした。カペラではよくナイフを使いました。刃渡り7センチぐらいの小さいナイフですが、とても便利。刃は近くの鍛冶屋さんから購入し、柄と革のケースを作りました。木はバーズアイの美しいバーチ材や、ウォールナットで、粘土で型を作ってから、作成しました。ケースの革細工は、革を水につけて、柔らかくしてから、ナイフの形に整形し縫製します。仕上げは、メルドスという市販の亜麻仁油ベースのオイルでした。


夜の作業風景

北欧木工漫遊記(9)

木工の話が続いたので、今日はスウェーデンの若者について

 同室のウイレ君は22才。昨年アーミーの義務を終え、仕事をさがしているがなかなかの就職難らしい。彼に言わせると「いい仕事がないので、働かない若者が多い。社会福祉が充実しているスウェーデンでは働かなくてもある程度食える。だから、よけい働かない人が多くなり、経済自体が弱体化し、さらに仕事がなくなる悪循環におちいっている。このことが大きな社会問題だ」。ウイレ君は木工もやりたいが、今筋肉をほぐすマッサージの勉強をしているらしく、それに使うベッドまで持参し、同じセミナーの生徒のガブリエールにマッサージをしていた。

 彼がじっくりと私のムチャクチャな英語を聞いてくれたので、彼とはかなり真剣に何回か人生について夜おそくまで話した。セミナーの最後に、冬のコースの先生、キャレの自宅に行ったときも、同じ様に人生と仕事の話しになったが、結論はウイレ君の時と同じで私も全く同感であった。

”Much money, no time. Little money, many time. Whitch do you choose?"

という話で、「少ない収入で良いから、自分のための時間を大切にしよう」と転職を重ねてきた私は、ここスウェーデンでもやはり同じ考えの人がたくさんいたということに、なんとなくうれしくなってしまった。
 ウイレ君とは年齢はちがうがほんとに仲良くやれた。アーミーでの40kの荷物とライフルを背負っての行軍の話、私の総重量60kgの山スキーの話など、日本では感じる世代の断絶なんて全然なかった。彼は、若者らしい正義感と元気さとちょっと無鉄砲なところを持った愛すべき若者であった。

 さて木工のほうであるがセミナーも半分をすぎて時間が足りなくなるおそれがでてきて、みんな深夜まで木工する日々が続く。夕食後、海水浴にも行かなくなり、がつがつと作業をする。この頃になると、私の持参した替え刃式の胴つき鋸や愛用の仕上げ鉋が「切れる!」という評判になり、"Can I use your saw ?"と使いたい人が続出し、胴つきの使用目的について説明に苦労したこともあった。

 

北欧木工漫遊記(10)

 自己満足の連載ですが、質問がありましたら遠慮なくして下さい。たしか、WOODさんでしたか、言葉は大丈夫でしたか?と心配なさっていましたね。
 現地の講義は全てスウェーデン語です。ですから全くわかりません。しかし、大半の人がかなりのレベルで英語ができ、親切な人が多いので英訳してくれるのです。それと、女子大生のイッコさんがかなり英語ができるので、私がわかっていない顔をしていると「イッコ、訳してあげなさい」。これは少し自尊心が傷つく部分もありますが(^_^;)、とても助かりました。
 しかし、どうしても表面的な会話が多く、細かいニュアンスが伝わりにくいので、精神的に疲れがたまる。一度、イッコさんと夜に近くのカフェに行って、思いきり二人で日本語を話したことがありました。その時偶然とは言え、イッコさんが和蝋燭にこっていることが、わかりびっくりした。彼女の専門は金属、それも鍛造で、ずうっとキャンドルスタンドを製作しているのでした。そして最近京都や高山をまわって木蝋をさがしたといいます。私が「木蝋も白蝋も扱ってるよ」というとびっくりしていました。

 朝の全体行事も後半は各コースが分担する。それで一度、イッコさんが、蝋燭についての話をし、私が日本と西洋の大工道具のちがいについての話と自宅の工房と作品をスライドで見せました。メチャクチャな英語で (*_*)。
 しかし、身ぶり手ぶりいっぱいの話はなかなか好評で、終わった後にいろんな人がお礼を言ってくれるのでした。あとで校長先生がわざわざ木工室までやってきて「今日のはよかった、サンキュウ」というので、うれしくなってしまった。


日本の鉋は引くのだ!

 昼間は観光客が自由に入ってくる。一度、日本人の奥さんとスウェーデン人のご主人とそのお父さんが見学にきたことがあった。ご主人はカペラのストックホルム校で2年家具作りの勉強をして後、日本に2年ぐらい行っていたらしい。今は、工房をかまえて主に身障者用の家具の注文製作をしているとのことであった。東京のでく工房のメンバーとも知り合いということでした。でも、やはりそれだけでは食べて行けないので、何か仕事をしているとのこと。スウェーデンの日本語がわかる奥さんを持った知人ということでこちらからお願いして名刺を交換した。

北欧木工漫遊記(11)

そんな大げさなレクチャーではなかったんですよ、すこやさん。実際に北欧の道具や作業台を使ってみて思ったことをしゃべったんです。日本は”引く”、西洋は”押す”は良く知られています。洋鉋を本格的の使った印象は、「押すのも便利、どちらでもええ」でした。日本ではほんのちょっと昔まで、食事も作業も座ってやっていた。座式作業台では、引く方向にしか力がかけられません。が立った姿勢では押す方が力がはいりそうです。

 鉋のいわば素人のイッコさんは押す鉋が気に入って、「このほうがくせがでないみたい」と言っていました。私は引く方が平面がでやすかったのですが、押すのがだめということはなかった。鉋そのものは、洋鉋も日本の鉋もまったく同じ理屈です。洋鉋は裏刃をセットしてから刃を入れるので刃の調整が初めての人にもやりやすそうでした。また、刃が長いので研ぎが正確にできるようです。感心したことは、腕に自信のあるひとはほとんど自分で鉋を作っていることでした。先生のベンの作った仕上げ鉋は、刃口を木口部分を下にした堅木を埋め込み対摩耗性を高めたいいものでした。切れ味も私の仕上げ鉋に負けなかった。

 のみは全然違う。何が違うかと言うと、使い方が違う。むこうでは、刃をこじって使うのがあたりまえ。穴を彫るとき、グイーと回すようにのみを使います。日本でこんなことをしたら、おこられるか、アホかと思われる。柔らかい地金に極めて堅くて脆い刃金をつけた日本の刃物はまっすぐに使わないとすぐだめになります。 どちらがよいというのではありませんが、カービング用の丸のみは西洋式、真っ直ぐで正確な加工は日本ののみの勝ちという気がしました。

 ところが、鋸は絶対に日本の勝ちです。替え刃式胴突き鋸を持って行きましたが、これでも断然切れ味が違います。最後の方で、私の要望でベンがタブテールの加工を見せてくれた時、持ってきたのはなんと日本ののみとレザーソーと玄能でした。こんなわけで、 私の道具はみんなの羨望の的になり、 「日本の刃物は切れる」という印象を植え付けてしまいました。ストックホルムに日本の刃物を扱う道具屋があるそうで、ベンもしっかりそのカタログを持っていました。私は、カービングに適した穴堀用の数種類の丸のみと、ドローナイフがほしくてなりません。「コペンハーゲンで買えばええわ」と思っていたのが失敗。カペラの道具はそんなにたやすく手にはいる代物ではなかったのでした。救いは、むこうで刃物鍛冶屋さんと面識ができたことで、彼のカタログを見ながら「送ってくれる」という約束をたよりに注文してみようと思っているところです。


共通の道具棚

北欧木工漫遊記(12)

 WOODさん、お恥ずかしいかぎりです。カミさんいわく、「お父さんは、ハ ッタリのうまい人やから」。こんなレポートを書けるのもパソ通だからこそ。ネット上では誰もがレポーターや作家になれるというのは、カラオケで歌手になった気分を楽しんでいるようなものかも (^^)。しかし、ホントにカペラで経験したことは大きくて、いくら書いても終わらないのです。

 セミナー期間中に作った作品は

です。

 最後の作品は、ただファーニチャーという課題でした。本当は好きな椅子が作りたかったのですが、持って帰ることを考え小箱にしました。木は濃い色のものが使いたかったのですが、適当な板がなく、ベンのすすめもあり、楢で作ることにしました。アンモニアによる着色を試そうということで。今までは、日本で作らなかったタイプが多かったのですが、最後に日本的な細かい技を見せてやろうと邪心がはたらきまして、経験のあるアリ組を欧州流でやってみたいと思ったのです。が、これを作っている間、日本のもどった気がして少し後悔しました (^^)。今度も、バンドソーだけで木取りをし、手加工で平面、厚み、直角を出しました。ただし、アリ組の精度アップのため木の端はテーブルソーで切ってもらいました。それと鏡板をいれるミゾは、日本にない機械シェーパーで溝切りをしました。この設計図をベンに見せると、「タブテールは日本流にやるのか?」と聞いてくるので、「スウェーデン流を教えてもらいたい」というと、「明日、朝に見せたる」。

 そうして、前述のとおり彼は日本の道具を持ってきました。タブテールの加工は、アメリカのビデオで見たとおり、いきなりオスを切っていきます。私は、今まで、全部墨入れしてから加工していましたが、墨入れの段階で誤差が生じます。だから、スウェーデン流のまずオスを適当に加工し、それを定規としてメスの墨付けをするほうがのこびきの誤差だけですむので合理的やと思いました。それと端にオスがくるのです。私は今まで端はメスだったのです。だからデザインがやぼったかった。(わかりにくくてごめんなさい。図で書けばすぐわかるのですが・・・)

 とにかく、メチャ細かい加工を時間に追われながらなんとか完成しました。塗装はアンモニア着色を木片で試しましたが、あまり気にいらなかったので、初めての経験でシェラックのタンポ塗りと仕上げにカペラ特製ブレンドのワックスを使いました。蓋の丁番はドイツ製の真鍮のもの。これに限らず、ドイツ製の金物を見ると日本の金物を使うのがいやになるほどすばらしいのです。日本で入手できる方法があったらぜひ教えてください。箱の脚は、お寺の床のイメージで作りましたが、この作品は日本を感じさせる物でした。


左は私、右奥はイッコさんの作品

北欧木工漫遊記(13)

 セミナーも第三週半ばになると、みんななんとなく無口になった。「あと3日で終わりや」「オレは悲しいよ。この生活が終わるなんて」といった会話がただよっている。

 ある半日、各自他のコースに行って花をモチーフにした作品を作り、15センチ四方の手製の木枠に納めた。最終日の発表会のためである。私は、テキスタイルのコースで、ちぎった紙を型に布を染めた。逆に他のコースの女性の一人は木工室に来て、薄い木片で花を作った。夕方になると木工のコースのみんなでとなりのペンションの庭でアイスクリームを食べに行って楽しんだり、若い人達はそれなりにカップルができたり。

 最終日の前日は午後3時頃までしか作業ができないと聞いていたが、なんとかそれまでに小箱は仕上げた。同室のウイレ君は、見たこともないような極彩色の仮面のボックスの着色の最終調整に余念がない。夕方から、図書室の椅子や机をすべてかたずけ、明日の発表会の準備をする。ここでも女の子が深夜まで徹底的に飾り付けをやっていた。レンガを運び込んだり、砂をまいて陶器をならべたり、ナイフをこけのついた木につきさして展示をしたり・・・。イッコさんはポプリを入れる女性らしい繊細な篭を仕上げた。このつまみが展示準備中に折れるハプニングがあり、スウェーデンの技術家庭の先生、モーガンといっしょに時間をかけて楽しみながら修理をする。

 夜はもう作業はないが、みんな名残惜しそうに、ワークベンチにむかってコチョコチョやっている。私はシャワーをあびて11時ぐらいまでうろちょろしていたが、部屋に帰ってウトウトしていると、イッコさんが「宮本さん、起きて来て!いいから早く!」という。起きて宿舎の玄関にでると頭にローソクを4本のせた白い衣装を着た女神サンタルシアと10人ほどの白い衣装で身をつつみ蝋燭を手に持った女性がサンタマリアかなんかの歌を歌いながら、庭に立っていた。あとで聞いたところによると、私とイッコさんが蝋燭に興味があるので、特別に12月13日に行うサンタルシアの祭の衣装を着て、楽しませてくれたのでした。

 あとは、庭のテーブルに座って夜おそくまでいろんな人と会話を楽しんだ。明日の最終日の予定は、朝のミーティングのあと、10時から14時まで村人や観光客も含め、作品の展示見学会を行い、最後の昼食をとる。そして、かたずけをして、各コースにわかれて「グッバイ」とのことであった。


サンタルシアの祭りを再現

北欧木工漫遊記(14)

 WOODさん、TACKさん、感想ありがとうございます。細かい技術的なことは漫遊記のあとでボチボチ書こうと思っています。TACKさんのおっしゃるとおりでして、おそらく自分の人生の中で最も幸せな時を過ごしているのだろうと、感じていました。

 さて、最終日。夜が遅かったウイレ君はなかなか起きないが、中年の私はいつもどおり7時30分に食堂へ行きました。今日は急ぐ必要もないのですが。ほとんどの人は今日の午後帰りますが、私と学生のフレドリックと、ロバートは今日泊まって明日朝早くカルマル駅まで、ベンに送ってもらうことになっています。

 朝のミーティングを終え、自由に展示を見たり写真を撮ったり。みんな、すぐ木工室にあつまってコチョコチョしています。どうも、先生のベンと、アシスタントのシニカに各自が何か作って贈るのが習わしらしい。そう気がついたイッコさんと私は少しあわてました。発想の貧困な私は、つい実用品になってしまい、ベンにはひょうたん型、シニカにはくじら型のコースターを作りました。女子大生のサラは、タブテールで失敗した木の切れ端を、1週間の間をおいてカペラの本コースに入学する、うらやましいロバートは、木を細かく削って、モニュメントを、イッコさんは日本で作ったキャンドルスタンドのデザインの飾りを・・・、みんなだまってプレゼントを作っている。

 3日程前に全員でポスターを書いたので、10時頃から村の人や、観光客や、そして迎えにきた生徒の両親や、ボーイフレンドなどが、ぞくぞくと見学にやってくる。何かと世話になった面白くまじめなウイレ君の両親とも再会である。昼食は、両親などのゲストもいっしょで食堂が満員になるが、特別料理の魚のスモークやビールがでて、ムードが盛り上がる。あっと言う間に2時のかたずけの時間がきてしまった。ワーッとかたずけて各コースの最後のミーティングである。

 最初、いろんな資料をくれる。なんと、3ページのカペラ・ガーデンの木工道具や木などの取引先リストも全員にくれる。これはちょっと日本では考えられないと思った。スウェーデン語なので私にはあまりやくに立たないが、スウェーデンの生徒にとっては、家に帰ってもこのリストをたよりに同じ物が入手できるはずである。そして最後に、卒業証書というか認定書の入った封筒をベンがひとりずつ手渡してゆく。名前を呼ばれて証書をもらい、握手してベンとシニカと抱き合って、次の人に交代。ヨメさん以外にしっかり抱き合った女性は、ファッションモデルのようなアシスタントのシニカがはじめてでありました(これホント)。今度は生徒が各自の作ったものを解説しつつ、ベンとシニカにプレゼントする番。なごりはつきないが、今日帰る人は時間がないので、三々五々、握手や抱擁のあと出ていく。若いウイレ君達は、最後のバレーボールを楽しんでいた。

 人気のなくなった中庭には、主人のいなくなった椅子がたくさん並んでいた。その一つに座って風に吹かれながら、ひとつの”時間”が確実に終わったことを実感していた。もう5時になっても、夕食のベルは鳴らなかった。


最後のミィーティング

北欧木工漫遊記(15)

 KOHSEIさんのご指摘で、書き落としていた重要なポイントがみつかりました。私は最長老ではありません。65才の木工道具の取っ手を作る仕事をしていたオッケ、60才ぐらいで幼稚園の校長先生をしているキャレ、50才ぐらいの主婦であろうクリステルもいた。女房いわく「お父さんは、心理学でいう永遠の青年で、いくつになっても大人になりきれないんよ」。この指摘はあたっているようで、20才代の青年との会話がとても楽しかった(^_^;)。ついでに、ノミをたたくのは、丸い大きな木槌です。なれると使いよかった。また、メインに使う鉋はほとんど木製で、スタンレーなどの金属製が有名なので、誤解されているのではないでしょうか。

さて、いつまでも感傷的になっていても仕方がない。最終日の夜は、井上さんの友人で、本コースの先生である、キャレの家に招かれているのであった。午後7時に11才になる息子が、自転車で迎えにきてくれ、2kmほど離れた彼の家まで歩く。日本の中学1年生ぐらいの息子が、ほんとに人懐っこく、おたがい少ないボキャブラリーで、サメの話やコンピューターの話をしながら歩くのは楽しかった。
 小高い土手のような所を通る幹線道路の側の赤い壁と白い屋根のふちどりが美しい豪邸がキャレの家である。帰国してから聞いたのだが、キャレはカール・マルムステインの直々の指導を受けた最後の人であり、豪邸は彼の自作であるとのことであった。
 のんびりと彼の家を見物し、手料理をごちそうになった。スウェーデンの家庭料理に興味があったので鮮明に覚えているが、アボガドの中身を取りだし、その中に小海老入りのサラダを入れキャビアをのせたものがメインディッシュである。あとは、サラダ、チーズ、パン、それにワインが2本。簡素だが、気持ちのこもった、もてなし料理であった。

 奥さんと息子と4人でいろんな話をしたが木工の話はほとんどしなかった。ここでもお互いの月収や税金の話になり、最後は「収入が少なくてもいいから、自分の生活を大事にする」ことが大切だという意見で「そうだ、そうだ」とおおいに盛り上がった。キャレは最初会った時から、「温厚で良さそうな人や」と思っていたが、まさにそのとおりの人であった。お酒は弱いのに、4杯もワインをのんだ私は、フラフラになりながら、キャレに送ってもらい、夜道を歩いて帰った。キャレは前から車がくると、必ず懐中電灯をつけて安全を確保してくれていた。

 夜更けの木工室にはいって、教官室の鍵を持っているキャレは、そこから、「井上に電話しよう」といった。日本時間で朝6時頃だが、「起こそう」ということになり、東京の井上さんの声を何日ぶりかで聞いた。自転車でキャレが帰り、人気のない宿舎で最後の眠りについたのは12時過ぎであった。


キャレ先生の家と息子

北欧木工漫遊記(16)

 オルガン屋さんの”全く同感です”の一言になぜか安心しました。できたらドイツの金物屋さんの住所教えてもらえませんか?。スウェーデン語のリストを訳しているのですが、半分もわかりません(^_^;)。

 さて、昨夜遅く寝たわりに早く目がさめて、中庭の椅子に座って菩提樹の木をながめてボヤーとしていた。7時半にベンが、ボルボでやってきて、ロバートとフレドリックといっしょに、私の楽園であったエーランド島から長い橋を渡ってカルマル駅へ。ロバートは飛行機で帰り、1週間後に本コースに入るためにもどってくる。フレドリックはスイスにいるガールフレンドのところへ列車で行くので、コペン・ハーゲンまでいっしょである。
 デンマークへ渡る列車ごと乗るフェリーの中で、アルコール度の強いツボルグを2人で飲みながら、「あの城がハムレットの舞台になった城や」と説明される。

 コペンハーゲン駅で、電話連絡していた王立学校の先生であるアヨー女史と会うことになっている。彼女とダンナさんは昨年、日本に来てすこやさんや井上さんにお世話になっているので、その友人の私をたいへん歓迎してくれる。彼女の運転するゴルフに乗ってアパートへ。まるでインテリア雑誌の写真みたいな部屋に荷物を置いて、気さくで楽しいダンナさんがリトルマーメイドへ案内してくれた。夜は、3人で食事をしてチボリの夜景を楽しんだ。「3泊して行きなさい」と言われるが、正直なところ、あまりに美しい部屋と2人の気遣いに恐縮してしまい、明日はホテルへ移ることにした。

 翌日、アヨーさんのおすすめのホテルに荷物を入れ、家具工場のショールーム、王立学校、港の大きな家具ショップ、工具屋などを案内してもらった。独断で印象を語ると、デザインで有名なデンマークは今だに、ウェーグナーやモーゲンセンなどの突出したデザイナーの過去の業績にたよっている。王立学校の屋根裏には、本でしか見たことのなかった、彼らの椅子がすべて集められていた。生徒は、一度はこの現物から、図面をおこす作業をやるらしい。これらの椅子にはもう以前ほど興味がなかった。王立学校は、日本の学校と同じで少し閉鎖的で官僚的な匂いがしたし、商業のためのデザイン、名声のためのデザインという気がした。スウェーデンのイケアの家具の方が私は好きであった。(後日聞いた話では、カペラで会った日本人の奥さんをもった家具作家は、イケヤの奨学金で日本に木工の勉強に来たとのことであった。)

 夕方、希望どおり一人になって、バスに乗ったり町を歩いたり。自宅へ公衆電話から電話をかけようとするが、コインだけ取られてつながらない。次の日は、観光名所めぐりである。美術館、王宮、博物館、デザインセンターなどを見た。博物館の規模はすさまじいし、美術館で見たペストの恐怖を描いたエッティングの連作も頭に残っているが、おおむねガイドブックどおり。

 私の旅は、カペラ・ガーデンで終わってしまったようだ。

 帰国する日、午前中おみやげを買う。昼頃、大きな荷物を背負って駅に向かって歩いていると、全く偶然に前からイッコさんが歩いてきた。彼女はサラといっしょに金属のコースを持っているスティーナビースクールを見学に行ったのだが、「設備は抜群なんだけど、環境やムードをカペラと比べてしまうのよね。」と言っていた。彼女はコペンで知人の所に泊まって、その後10日間ほど、ドイツへの旅を続けるのである。

 約4週間ぶりに、観光客相手のギンギラしたお店の並んだ空港からSAS機に乗り込んだ私は、何か自分が変わった気がしたが、それが何かはわからなかった。1カ月足らずの期間であったが、自分は平成の浦島太郎のようにも思えてひとりでクスッと笑った。

           −−−−  完  −−−−

(PS)みなさん、御静聴ありがとうございました。今は狭い自宅の工作室で、近所の人からの注文で食卓を作っています。大阪の木材屋さんで高い木を買ってしまって少し後悔したり、狭い工作室で汗だくだくになってイライラしたりと、前と同じ現実にもどりました(^_^;)。 ただ、こんな今の生き方に少し自信が持てたようです。

94/08/28
WWM

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