Tchaikovsky:交響曲第4番ヘ短調op.36 O.クレンペラー/PO. 63.1.23-25, 2.2 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo |
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![]() 例えばこの曲を聴き始めるとき、冒頭のホルンとファゴットの強烈なテーマに身構えたりしないでしょうか。私は何度も聞き慣れた演奏で、音楽も音もわかっているのについ息を殺して出を待ってしまいます。LPの盤面をトレースする針音を聞いている時間もCDの無音を聞きながらも緊張しながら待っています。昔ムラヴィンスキーの盤で初めてこの曲に接した時のインパクトが残っているのかな、とも思いますが。 クレンペラーの出だしはレニングラードpo.の空間を引き裂くような激的な音とは違って、非常に重い響きです。この点では少しばかり緊張感も薄らぐのですけれど、その分だけ印象は薄くなっているでしょう。テンポの変動はほとんどなく、曲が高揚しても演奏は高揚しないというかなり変わった演奏。9/8 Moderato con animaからの弦の旋律や第2主題以降に頻繁に出てくる木管のやり取りなども非ロマンティックで情緒的な色合いはありません。 第2楽章中間部 piu moso以降のリズムには1拍目に強いアクセントをおいていていささか野暮に聞こえます。全体にcantabileも流れが良くなく、代わりに言葉で語るような独特の歌い廻し。最後のファゴット・ソロも同様。けだるい憂愁感というより光のない廃墟を思わせます。そして恐ろしく虚無的な終わり方。 第3楽章はムラヴィンスキーの演奏が勢いと気迫の漲った演奏でした。弦のピチカートの正確さ、弾むようなリズムと冷徹なアンサンブルは見事というより戦慄を覚えたものです。ここのでのクレンペラーの速めのテンポですが、メリハリを欠いていて幾分平板な感じを受けます。 第4楽章。この終楽章も一般的な演奏に比べると全く異様な相貌を持っていて、とまどいを感じさせます。どう考えてもアッチェランドするのが自然な部分でも一貫してテンポを変えず、逆にいっそうテンポを落とすようにすら聞こえるこの剛直さは、他の2曲でも共通してみられたことです。クレンペラーのTchaikovskyの最も特徴的なのはallegroでのこのテンポの設定でしょう。良く言えば巨大な構築感、悪く言えば救いようのない鈍重さ。 あまりに堂々としていて、この楽章の、喧騒の中に身を投げるといった幾分ハイな雰囲気がかげをひそめてしまいます。言ってみればこの演奏には歓喜も狂喜もありません。クレンペラーにとっては、Tchaikovskyがどのように表現しようとしていたのか、それを構成している音と音の力だけが重要だったように思える程です。聞く側は果たしてどうでしょうか? 歓喜の渦の中に参加できないけれど歓喜を見ることはできます。フラストレーションは解消できるでしょうか? いや、聞き手は歓喜の伽藍の中にまだ佇んだまま・・・。 クレンペラーは演奏によって音楽の持つカタルシスを表現しようとはしませんし、何かしらの解決を試みようとはしません。Tchaikovskyの演奏としては全く異色の空恐ろしい演奏ですね。 クレンペラーはこの曲をどれくらい指揮したのでしょうか。L&Tによれば1932年ブリュッセルで演奏しており、このときの印象が「考えていたよりハード」というものでした。クロル・オペラ時代の「ハード」に没入する演奏様式から言えば、粗々想像できるでしょう。それ以降この曲を演奏したという記述はL&Tにもないので、レパートリーを増やそうとしていた若い頃かアメリカ時代に演奏したことがあったかもしれませんが、そう数はなかったでしょう。
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Tchaikovsky:交響曲第5番ホ短調op.64 O.クレンペラー/PO. 63.1.16-19, 21 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo |
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![]() クレンペラーの第1楽章は速めの演奏です。メランコリックな旋律もクレンペラーらしくドライ。Tchaikovskyにとって旋律線に付けられた強弱は情感の表現に直接結びついていることが多いのですが、これも全体に控えめにしかやっておらず、物量で押していく演奏です。これに比べ第2楽章はクレンペラーにしてはやや情感を持った表現だと思います。ホルンの旋律、それに続くオーボエの甘美さと哀愁の混ざった旋律もぶっきらぼうということはありません。でもここではそれぞれの管楽器奏者の演奏に依るところもありますね。品のあるオーボエがいいです。 第3楽章はTchaikovskyが最も得意としたワルツ!軽く戯けたような旋律はバレエでの幻夢的な世界を感じさせ、この曲に豊かなふくらみを与える秀逸な構成ではないでしょうか。ここにも最後に「運命」の動機が回帰してくるところなど頗る暗示的で、曲中の変化の要素と同時に終楽章に対する前半3つの楽章の対照が鮮やかです。 ここでのクレンペラーはこうした効果に目もくれずただひたすら符を音化するよう。ワルツのリズムはやはり重鈍ですね。この楽章のやや憂いを秘めながらも軽やかなリズム・・・いろいろ形を変えながらも底に流れるリズムはほとんど分断されてしまって雰囲気を感じさせるといった演奏ではありません。 終楽章はTchaikovskyの音楽の中でも特に気分を高揚させる音楽ですね。しっかりとした足取りで始まる英雄的なコーダの響きは、運命に打ち勝った勝利の歓喜を想起させます。全休止の後、一気に緊張感から解放された聞き手は輝かしい雰囲気で最後の歓喜を迎えることができます。Tchaikovsky自身は初めこの曲が気に入らなかったらしいのですが、各地で好評を得るに従い次第に自信を持つようになったといいます。言ってみればあまりにも見え透いた構成なのですが、実際にこうした作りでもって作曲し成功している例はそれほどないでしょう。成功すれば大喝采、失敗すればただの笑いものですから。情緒的な起伏が音楽の構成感をしっかり支えているのも聞き手の感情を揺さぶる点でしょう。 クレンペラーの演奏は全く独自のもの。テンポの取り方も異様。この楽章は大きく揺れるテンポによって次第に高揚していく作りなのですが、ここでの演奏は几帳面に音楽を構築していくあまり、熱狂がことごとく無機的な構造物に硬化していく過程のようになっています。 Allegro vivace からも遅い。テンポが上がらないまま、しかもずっとインテンポでいく。重い金管と重いリズム、重戦車で進むが如き長大重厚な演奏。つまり熱狂がなく、吹っ切れた快感もなくひたすら重い。全休止の後の Modarato assai e molto maestoso からのヒロイックな音楽はクレンペラーにかかると闘争の後の晴れやかな歓喜への転換ではなく、ただの壮大なコーダなのです(カラヤンはここの転換が実に巧い)。 この楽譜の指示をも無視したようなインテンポへの固執は、聞いていると途中どうなるかと心配になってくるほどですが、最後には興奮とは異質の重みを感じることも確かです。 この曲には6年前の極めて対照的なシルヴェストリ、PO.の演奏があります。シルヴェストリ盤のコーダの最後、畳みかけるようなアッチェランドと、クレンペラー盤での悠然と構えたテンポはあまりにも違います。(シルヴェストリの演奏は57年録音であることを考えると、EMIは初めクレンペラーのこの曲の録音を考えていなかったのでしょうか。) 4番の終楽章や「悲愴」の3楽章も同様ですが、クレンペラーの演奏には根本的にスタンスが異なっているようにしか思えないところがあります。これは極論すると解釈のしかたの違いではなく、楽曲の捉え方が本質的なところで全く異なっていると言うことです。それがTchaikovskyの曲について相応しいか否かという点以前に(否でしょうね・・・)クレンペラーの演奏スタイルが厳然としてあるわけです。クレンペラーを語るときこのスタイルがドイツ的と言われることがありますけれど、これは全く違う性質のもので、ドイツ的なスタイルだからTchaikovskyにあわないということではありません。クレンペラーは戦前はともかく晩年はヒロイックな熱狂というものに冷淡であるような気がします。これが深いところでは戦争時のドイツの記憶につながっているような気がしないでもありませんが・・・。
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Tchaikovsky:交響曲第6番ロ短調op.74「悲愴」 O.クレンペラー/PO. 61.10.18-20 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo |
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EMI CMS 7 63838 2 A EAC-40062(国LP)
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![]() この録音は61年、DGから出ているムラヴィンスキーの評判高い録音が60年の録音ですから時期が悪いと言えば悪い。私もこの曲はムラヴィンスキーのDG盤LPで親しんだ口ですから、クレンペラー盤を聴いたときは少なからずびっくりしました。まあ、ムラヴィンスキーじゃなくてカラヤンでも他の誰の演奏と比べても相当違います。 この演奏、初めて聴いたとき、まず驚いたのが、第1楽章ファゴットのppppppの後、展開部Allegro vivo以降の遅さ。これには驚きました。聴いていてガクッときました。ムラヴィンスキーのテンポと激烈なリズムに比べると唖然とするほど違います。ムラヴィンスキーの場合、過度な思い入れをすることなく、しかしながらしっかりと統制された響きで十全にドラマティックな表現を獲得しているのに対し、クレンペラーは驚くほど無骨で、まるで標題的な雰囲気を持っていません。PO.の渋い金管の音色も手伝って鮮烈な印象がなく、遅いテンポのおかげで悲壮感、焦燥感というより巨大な伽藍を思わせます。こういう演奏の仕方、曲の捉え方はあまり聴いたことがありませんね。クレンペラーはこの展開部から再現部にかけての音楽を殊更ヒステリックには捉えていなかったのでしょう。続くAndanteから終結部にかけてはむしろ穏やかな表情。 第2楽章。ロシア民謡にヒントを得たと言われる5拍子が純粋には軽やかでない、どこか淋しげな哀愁を漂わせます。中間部は取り戻しようのないやり切れなさも感じます。純音楽に昇華された音楽とは言いながら、主観的な発想から生み出されたものに対してこの曲の標題性を言うとき、この楽章のメロディアスな旋律はやはりアイロニックに響きます。クレンペラーの厚めで淡々とした演奏からは、切実な想いを内に秘めたような感触。内声部の充実が特に目立ちます。 第3楽章、これはかなり遅い。ムラヴィンスキーと比べて2分半も長い。確かにムラヴィンスキーは速めなのでしょうが、他のいくつかの演奏を調べてもこの楽章に10分以上かけているのはそれ程ありません。61年位であれば、クレンペラーの指揮もそれ程枯れてはいないので、あまり遅くはないのではないかと思っていましたが、そうでもありませんでした。とにかくじっくり音を鳴らしていく演奏で、普段聞き慣れている演奏とは相当印象が違います。まず冒頭のリズムからして重い。普通の演奏では、切れの良い軽めのリズムから始めて次第に迫力を増し、それでもリズムは維持しながらクライマックスを迎える形になりますが、クレンペラーの演奏では最初からゆっくりとしたリズムで、一つ一つの音を追って行き、その延長に突如大きな音楽が現れてくるような感覚。つまり始まりを軽くしてその対比を効果的に使おう等とは考えていません。地にしっかりついた足取り、踏みしめるようなリズム、次第に減速していくようなリズム。 これはかなり独特で、こうした演奏はそう多くはありません。ムラヴィンスキーもカラヤンもここではリズムと音響の効果を最大限発揮できるように(そしてオーケストラの技量も)それに見合うテンポで演奏しています。むしろ終楽章との落差、全ての要素において対照的な効果を得るためにこうした明暗は必要ではないかと思います(ただそれだけではないように思いますが)。しかしクレンペラーの演奏では、切れの良いリズムを犠牲にして、堂々とした音楽を作ろうとしているように見えます。つまりコントラストをつけるのではなくて、一度曲を終わらせてしまうような、フィナーレの演奏と言えます。例えばEMIのStereo盤Beethovenの5番終楽章のような、テンポを上げずにラストへのクライマックスをじっくり作っていくような構成です。こうした演奏を以前のクレンペラーがやっていたかどうかはわかりません。しかし、クレンペラーは過去にこの楽章の後で聴衆の拍手を促していたことさえあったようで(曲を知らない人の拍手を許していたという訳ではなさそうで、アリアの後の拍手みたいなものでしょうか)、恐らくこの楽章自体が持っている聴衆の反応を知っていたようです。(L&Tによれば本人もそう感じていたらしい。ただし、「会話」の中でも書かれているようにクレンペラーは終楽章を軽視していたわけではない。)聴衆の受け方から何らかの意識を持ってこの演奏スタイルになったということも幾ばくかはありそうです。 なお、ここでは強奏(ティンパニ強打の何カ所か)で音割れがあるのが残念です。 終楽章は以前、オリジナルはAdagioではなくAndanteの表記であったということでフェドセーエフ盤(91)が評判になりました。Tchaikovskyが初演した時の自筆譜ではそう書かれていたそうで、後にAdagioに書き改められたそうです。冒頭に書かれているメトロノーム速度は意外に速めで54。Tchaikovskyは当初、それ程遅く演奏する意図はなかったかもしれません。後の人間が作曲家の死と「悲愴」のタイトルから悲劇的な絶望的な度合いを増すために変更したものでしょうか。 クレンペラーの演奏は幾分速めかも。第3楽章とはコントラストが薄く、従って前楽章との対比でここからグッと落ち込むのではなく、新たに違う音楽が始まったように感じられます。殊更、感傷味の薄い響きからそう感じるのかも知れません。しかしクレンペラーの演奏はたいそう立派で、厚みのある弦の響きや、重厚な作りはこの人ならではでしょう。ここでは深刻な慟哭も絶望感もあまり感じられず、音楽はむしろ平静な世界へ進むかのようです。 全体にTchaikovskyとしては変わった演奏で、これをどう感じるかは人様々でしょう。すごく面白くて他では聞けない演奏ではありますが、ロシア的な味はなく、スカッとするようなオーケストラの響きもありません。ただクレンペラー的なのですね。私のような聴き方をしていると何でも良い方に解釈してしまうのですが、正直言うとTchaikovskyを聴くときにクレンペラーを出してくることはありません。大体他の演奏を聴きます。それでも改めて聴き直すと、むしろこうした曲の方がクレンペラー独特の演奏の仕方があちこち見えてきて興味深いものがあります。 余談ですが、終楽章のはじめの旋律について。ここでのTchaikovskyの書き方は非常に面白い。楽譜を見ながらムラヴィンスキー盤を聴いていたら、どうも第1ヴァイオリンの音型が聞こえてくる旋律と違う。楽譜をよく見ると1,2ヴァイオリンの音が交互に組み合わさって旋律を作っています。それで、クレンペラーの演奏を注意深く聴いてみると、1音ずつ左右から交互に聞こえてきます。はじめの2小節で言うと、[2,1,2,1,2|1]、つまりクレンペラーの配置では[右、左、右、左、右|左]となります。20小節目、Adagio poco meno che prima の部分でも同様(この前の小節も交互)。しかしこれに注意して聴き進み、練習番号G Andante non tanto で再び同じ音型が現れると、今度は左右に揺れない。楽譜の該当個所を確認すると確かに聞こえる旋律と同じ音型が譜にあって、2つのヴァイオリンに相互に振られていない。そしてこれ以降同じ音型が出てきても全て同様です。 これは何を意味するものなんでしょうね。恐らくTchaikovskyの頃のオーケストラ配置もクレンペラーの配置と同様だったでしょうから、聴衆にはそのことに気づいたことでしょう。作曲者側も当然何らかの意図を持ってそうしたと思われます。揺れる心情の表現だったのでしょうか。後半に書き方を変えているのは決心が固まったからでしょうか。Tchaikovskyの死因がコレラではなく、同性愛の精算としての自殺説を考えあわせると、はじめ互いに密接に一つであったものが、途中から明確に分かれていく過程ともとれます。・・・ちょっと考え過ぎかな。
なお、記録によれば、クレンペラーは1960年4月にロンドンでオールチャイコフスキーのプログラムを組んでおり、この時の曲は「1812年」、ピアノ協奏曲第1番、そしてこの曲。この他にクレンペラーが演奏したことがあった曲は、アメリカ時代に、序曲「ロメオとジュリエット」があったそうです。「1812年」なんかはどんな演奏だったんでしょうか。 |