Stravinsky:3楽章の交響曲

O.クレンペラー/PO.
62.3.28,30,5.16  Kingsway Hall, London (EMI) Stereo
 
EMI
CDM 7 64142 2

 EMIから出ているクレンペラーの2つの録音、「プルチネルラ」と「3楽章の交響曲」はいずれもStravinskyの新古典主義の時代に属するものです。前者はその入り口に当たるのに対し、この3楽章の交響曲はその最後を飾る曲として、作曲者がフランスからアメリカ西海岸に居を移した後、1945年に完成されました。同じ年、Stravinskyは同じ地に一足早く移ってきていたもう一人の現代音楽の巨人、かつて反目し合っていたSchönbergに出会います。アルマ・マーラーの3度目の夫、F.ヴェルフェルの葬儀の時のことで、33年振りであったといいます。奇しくもこの時期、音楽の後進地ロサンゼルスに最も先進的な音楽家が揃うことになりました。そしてクレンペラーもまたロサンゼルスpo.の指揮者として既にこの地にたどり着いていたのです。
 Stravinskyはこの後、ヨーロッパに戻ることなく亡くなった(1951)Schönbergを弔うように彼の音楽技法を研究し始め、新たな挑戦をスタートさせます。ヨーロッパに比べれば音楽的には遙かに見劣りがするこの街で憤死したSchönberg。Stravinskyは12音による音楽を模索し、最終的には完全な12音による音楽を書きました。こうした変貌は、西欧音楽の伝統を継承しようとしたSchönbergなりの方法論を改めて検証しようとした結果ではなかったでしょうか。クレンペラーはこのことについて1961年にチューリヒの新聞に寄稿した中で書いています。

 数年前、彼は純粋な調性から十二音へと急に作曲法を変えたが、これはすでに書いたように、彼の音楽における様式の変化にすぎない。その本質は変わらない。 (「指揮者の本懐」)

 それでも50年代以降のStravinskyの作品は、Schönbergの作曲技法、西欧音楽を救うべく考え出された12音技法の継承者の如く見えます。それはSchönbergの継承者としてではなく、新たな伝統のために音楽の進むべき道の模索でもあったでしょう。

 この曲は、1942年から1945年にかけて作曲されたもので、丁度戦争中にあたります。曲名どおり協奏曲を想起させる3楽章からなる音楽。両端楽章はピアノが、中間楽章はハープが重要な役割を果たしていますが、それも協奏曲のようなソロをとるのではなく、あくまでオーケストラの一部に止まっています。作曲者自身によると第1楽章と第3楽章は戦争を描いた映画、ドキュメンタリー・フィルムにインスパイアされたものであり、第2楽章はF.ヴェルフェルの『ペルナデッテの歌』という映画のために書いた音楽を使っているとのこと。戦後、戦争の悲惨さや告発、或いは虚無感を題材とした音楽が多くの作曲家によって発表されましたけれど、この曲の冒頭の強烈な響きにはそうした影響を見ることができるでしょう。初演は1946年1月24日、作曲者の指揮とニューヨークpo.によって行われました。因みに翌日1月25日チューリヒではR.Straussの「メタモルフォーゼン」が初演され、更に同じようにアメリカへ逃れてきて前年亡くなったBartókのピアノ協奏曲3番が翌月フィラデルフィアで初演されています。

 晩年のクレンペラーのレパートリーからするとStravinskyというのは想像しにくいのですが、クレンペラーの回想にはSchönbergとともにその名が頻繁に出てきます。実際、戦前、アメリカ時代を通じてクレンペラーはStravinskyを度々取り上げており、晩年に至っても関心を持ち続けていました。この曲についてもクレンペラーは多大な関心を寄せていたようですが、実際には1957年を最後にそれ以降公では振ることがありませでした。L&Tによれば、ACO.を振った2月20日、21日の聴衆の反応は酷く冷たいものであったようです。ヘイワースの記述によれば『怒りのあまり、アンコールに全曲繰り返すと脅しをかけた』そうです。ただし、この時のプライベート録音を聴いたヘイワース自身は、その演奏に非があるわけではなく、当時の聴衆がこの作品に親しみをもてなかったのが原因であると擁護していますが。(因みにこの時の他のプログラムはSchubertの4番、Mendelssohnの「フィンガルの洞窟」。これらはCD化されているのでおよその想像はできる。)
 この録音は62年、それほどポピュラーでもないこの曲をEMIが録音し、クレンペラーが57年以来全く公衆の前で演奏しなくなったこの曲を何故取り上げたのでしょうか。

 クレンペラーの演奏がこの曲を聴く最初の経験だとしたら、恐らく戦争への関わりは薄く感じられるでしょうね。ただし、少々遅いテンポに慣れれば、ここで演奏されている音楽が、何かとんでもなく異様な音楽であることに気づくのではないでしょうか。リズムの躍動感は例の如く後退してはいますが(ヘイワースの聴いたアムステルダムでの演奏はさぞかし凄まじかったと思いますが)、マッスとしての大音響はこれ以上ないくらい強烈で、少なくとも音としてこれ以上構成的に再現している例は他にないでしょう。冒頭はいささか強引に思えるほど強いにも関わらず、音の不協和な階層がはっきり聞きとれます。
 小編成の第2楽章は奇妙な静謐さを感じさせる演奏。間を置かず続く終楽章の演奏は前2つの楽章に比べ若干冗長であるかのように聞こえるのは、音楽そのものがめまぐるしく変化する構成を持っているためでしょうね。クレンペラーは演奏効果など考えませんから。
 最後の強引な終わり方は作曲者自身意図したものでしょうか。幾分コラージュ的な雰囲気を持っている音楽には、突如として引かれる幕が効果的なのかもしれません。クレンペラーは面白いくらい即物的に終わります。

 EMIにはクレンペラーの録音以前に同じPO.の演奏があります。それはシルヴェストリの指揮の録音で、DiskyからりリースされたCDには録音年が記されていませんが、(P)1961となっているので60年頃の録音だと思われます。クレンペラーの録音とは僅か数年の違いしかありません。
 このシルヴェストリの演奏は、クレンペラーとは逆にStravinskyが言う戦争との関連を最も強く喚起させる演奏です。Stravinskyの音楽は本来どこか醒めた響き、決して深刻になるところまで深入りしない構成を持っていますし、特にこの曲の場合、戦争をフィルムというフィルターを通すことによって独特の客体化が意識されていると思いますが(個人的には、Stravinsky自身こういう説明をすること自体に彼のシャイな一面を感じますね)、、シルヴェストリの演奏ではまるで戦争告発の音楽に聞こえます。バーバリズムの要素はそのまま怒りの表現手段となり、第2楽章さえ、破壊された過去への苦渋・・・Shostakovich的な暗さを持っています。これも考えさせられる演奏です。

I II III Total 増減
PO.(62) 10:59 6:34 6:41 24:14 0
シルヴェストリ/PO. 9:37 6:29 5:50 21:56 -2:18 参考

pulcinella

Stravinsky:バレエ「プルチネルラ」組曲

(1) O.クレンペラー/トリノRAIso.
  56.12.21L Auditorium RAI, Turin Mono
(2) O.クレンペラー/バイエルンRAIso. R.ケッケルト、W.ブヒナー(vn) O.リードル(va) J.メルツ(vc) F.ヘーガー(cb)
  57.9.26L Herkulessaal, Munich
 Mono
(3) O.クレンペラー/PO.
  63.2.18,5.14,18 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo
(1) Cetra
  LAR 37(伊LP)

(1) 音楽史上、この曲が書かれた頃はバロック期の音楽を再び見直すといった風潮がありました。ロマン的な音楽は世紀末以降、精神の表現から退廃的な物質への指向に変化してきたようにも見えます。風船のように膨れあがればあがるほど内側の空虚は大きくなるでしょう。こうした表面の複雑性がある程度まで行き着いてしまうと、表面の要素間の関わり合いが強くなる反面内部との関わり合いは希薄になっていくものです。「〜に帰れ」とは複雑化し過ぎた芸術の季節には必ず叫ばれてきた言葉です。
 Stravinskyの「新古典主義」時代は一般にこの「プルチネルラ」以降と区分されますが、一個の作曲家の作風がそうはっきり変化するものではないにしろ、この曲は非常にわかりやすい。ディアギレフが見つけだしたイタリア・バロックの音楽、当初Pergolegiの作曲と考えられていた音楽をもとに構成したこのバレエは、3大バレエの大仰さを持たないかわりにシンプルな楽しさに溢れています。効果的なオーケストレーションや色彩感覚もまたStravinskyならではでしょう。初演はアンセルメの指揮でパリで行われましたが、器楽のみの組曲版(1922)はモントゥー指揮ボストンso.により初演されました。組曲版は他の曲同様、戦後改訂版(1949)が作られ、録音の多くはこの版を使っているようです(クレンペラーもこの版の演奏)。
 戦後の改訂に批判的なアンセルメの録音は1922年版。56年録音のDecca盤はStereo初期ながら明快な録音と共に色彩感が素晴らしい。オーケストラの技術的な綻びが少し見えますけれど、このラテン的な色彩は魅力ですね。現代の演奏がパステル調だとすれば、アンセルメの演奏は印象派の油彩に似ているところがあります。明るく強い色調のタッチと造形が見事にバランスしていて、流石に曲を知り尽くした人ならではの自信に溢れた表現だと思います。

 このCetra盤は50年代中頃トリノRAIso.に客演した時の演奏。盤には" 21 dicembre 1955 "となっていますが、L&Tによると56年12月21日の演奏であるとのこと。イタリアのオーケストラによる演奏ですが、やはりクレンペラーの重いリズムが勝っていて明るさはほとんどありません。この曲ではリズムの切れが重要ですけれど、アンサンブルは乱れ気味できりっとしないですし、「タランテラ」のような部分ではやはり軽さに不足すると言えましょう。EMIへのスタジオ録音を考えればこの曲はクレンペラーに合わなくはないでしょうが、今ひとつ魅力ある演奏ではないと思います。

(2) バイエルンRso.との57年9月26日の演奏。ライヴ。Orfeo盤のBrahms4番の前日ということになります。

 これは緊張感のある力強い演奏です。低弦の強さはこの時期までのライヴにしばしばみられるもの。クレンペラーらしく全く軽さを感じさせない質実剛健な演奏ですが、そのぶっきらぼうで容赦のない響きの中にも 独特の味わい深さがあります。演奏時間から言うと、前年のトリノでの演奏より遅めのテンポながら、あまり遅さを感じさせません。音質は想像以上に良い。
 このGreat onductors of the 20th Centuryの盤では、この曲の後、戦前の最も注目すべき録音であるWeillの「三文音楽」組曲が続くのも印象的です。どちらかというと軽い音楽の部類に入るこれらの音楽を真面目に振るクレンペラーを想像すると、何か感慨深いものがありますね。後年のスタジオ盤ではある種の平明さを感じますが、この演奏ではまだ戦前の現代音楽の旗手であった頃の熱気が滲み出ているような気がします。伸びやかさと力強さを合わせ持ったオーケストラも素晴らしい。 (2003.1.15加筆)
 
(3) クレンペラーが自ら語っているところによると、この曲を初めて指揮したのはヴィスバーデン時代で、Stravinskyをピアニストとしたピアノ協奏曲とともに演奏したそうです。時期的には20年代の中頃でしょう。クロルオペラ時代には「オイディプス王」、「マヴラ」、「ペトルーシュカ」、「ピアノと管弦楽のためのカプリッチョ」、「結婚」、「妖精の口づけ」、「詩篇交響曲」等々、ラインナップを見るだけでもかなりの数を演奏していたことがわかります。

 この曲は木管が活躍するという点と小規模のアンサンブルという点で、ある意味クレンペラーにうってつけの曲ではないでしょうか。セレナータでのオーボエ、アンダンティーノのホルンなどはうっとりする美しさ。続く「タランテラ」のゆったりしたテンポはいかにも几帳面なクレンペラーらしい。「ガヴォットと2つの変奏」におけるオーボエとフルートの掛け合い、そしてホルン・・・PO.というオーケストラでは、このオーボエとホルンがいつも素晴らしいですね。強く吹くことを求められないこの曲のような場合は特にそうです。
 全体には遅いテンポで、Stravinskyというより普通にオーケストラで演奏したバロック音楽という雰囲気です。クレンペラーの晩年に見られるBachやHandelの演奏に共通したスタンスではないでしょうか。「ガヴォットと2つの変奏」はタイトル自体、後年クレンペラーがオーケストラ編曲したRameauの曲を連想させます。

増減
1.トリノRAIso.(56.12.21L) 23:50 -1:28
2.バイエルンRso.(57.9.26L) 24:38 -0:40
3.PO.(63.2) 25:18 0 EMI
アンセルメ/SRO.(56) 22:14 -3:04 1922年版 参考

 尚、左下EMI盤のトラック表示は一部間違いがあります。ブックレット表示上は別トラックとしていますが、「タランテラ」と「トッカータ」はトラック分けされていません。以降、トラックナンバーと曲がずれ、1トラック表示である最後の「メヌエット」と「フィナーレ」を2トラックにして帳尻を合わせてあります。
(2) EMI
  5 75465 2
(3) Testament
  SBT1156
 
  EMI
  CDM 7 64142 2

petrushka

Stravinsky:バレエ「ペトルーシュカ」(1947改版3管)

O.クレンペラー/NPO.
67.3.28-31 Abbey Road Studuo, London (EMI/Testament) Stereo
Testament
SBT1156

この録音はかつて一度も世に出ていなかった録音でこのTestament盤が初めてのリリースです。しかしこの録音の存在は以前から知られており、レコード芸術に連載されていたディスコグラフィにも未出として載せられていました。この辺の事情は日本盤がリリースされたのでその解説でも触れられているかも知れませんが、私は輸入盤しか持っていないので、全く稚拙な読解力でライナーを読むと次のような経緯があるようです。

 1967年4月4日にパウル・クレツキはニュー・フィルハーモニアを指揮することになっていた。このコンサートの内容はハイドンの「時計」交響曲、イルムガルト・ゼーフリートとトマス・ヘムスリーをソリストとしたマーラーの「子供の不思議な角笛」抜粋、そしてブラームスの第1交響曲だった。しかし、クレツキは病気でキャンセルせざるを得なくなった。クレンペラーが代わりにこのコンサートを引き受けた。プログラムはクレンペラーにとってお誂え向きと言っていい。ところが驚くことにクレンペラーはブラームスの交響曲の代わりに「ペトルーシュカ」をやると言い出した。
 EMIは素早く行動をおこした。コンサートの前にこの曲を録音するため、アビー・ロード第1スタジオに充分な時間を確保した。最初のセッションは3月28日の夕方、続いて30日、31日の2回セッションが行われた。
 編集されたテープが手に入ったときEMIはこの演奏が発売するには傷が多いと判断した。最近になって、このときのオリジナルテープが再調査され、そのマスターテープが主に3日目のセッションから作られたものであることがわかった。このリリースはほとんど初日のセッションによっている。オーケストラと指揮者はより新鮮で自発的なアプローチである。従ってアンサンブルの不正確さ、不安定なイントネーションが時折見られるが、クレンペラーのスコアにあたる洞察力はこの演奏をあえてリリースすることを充分正当化するものであり、彼の遺産に大きな興味を加えることになる。


 ここに書かれているように、少なくともクレンペラーが演奏するStravinskyの曲がセールス的にペイするかどうかの危惧を別にすれば、EMIにとって非常に興味のある組み合わせだったでしょう。ドイツ音楽の伝統的レパートリーを録音し続けていたこの指揮者が、戦前の現代音楽の第1人者としての経歴を持っていたにしろ、自らStravinskyを振ると言うのですから。もちろん、クレンペラーには他に2曲のStravinsky録音がありました。しかしこの最晩年の時期に・・・クレンペラー自身どういう心境の変化だったのでしょうか。クレンペラーが作曲を再開したのが丁度この頃ですから、そうした影響もあったのでしょうか。
 大手のレコード会社EMIがリリースするために最初に編集されたテープを聴く術はないのですが、Testamentからリリースされたこの演奏は(確かにいくらか傷のあるものかもしれませんけれど)、曲が曲だけに貴重な遺産であることは間違いないでしょう。

 クレンペラーがStravinskyに初めて会ったのは1914年パリでモントゥーが指揮した「ペトルーシュカ」とR.Straussが自作「ヨゼフ物語」を指揮した演奏会でのことだったといいます。言うまでもなく「ペトルーシュカ」」はロシア・バレエ団のために書かれたバレエであり、モントゥーがこの3年前、1911年パリで初演したものです。1913年には「春の祭典」の衝撃的な初演が行われていましたから、クレンペラーがこの曲を聴いた頃はそうした興奮がまださめやらぬ時期だったのではないでしょうか。以来クレンペラーはこの曲を相当気に入っていたらしく、Testament盤解説によると、1922年初めて演奏したケルン時代から、1926年には初めて訪れたニューヨークで、1928年にはクロル・オペラで、1929年にはロシアで、1933年にはLAPO.との最初のコンサート・シリーズで、1934年にはVPOと.、1949年ヴィクトリアso.とメルボルンで・・・といった具合に頻繁に演奏していたようです。

 クレンペラーの演奏はやはり相当変わっています。最晩年の録音に特徴的な構造の透けて見えるような演奏で、現代の色彩豊かでスマートな演奏とは比較できないような全く異次元の響きがします。渋いと言えばこれほど渋い演奏はないでしょう。当然、戦前はオリジナルの4管編成で演奏していたでしょうから、これを3管編成に縮小した1947年改訂版で録音した点から考えても、クレンペラーが派手な音響を望んでいたわけではないことを示しています。構造がシンプルで見通しが良い改訂版の選択は、晩年のクレンペラーの演奏スタイルに通じるものだったのでしょう。
 第1場はかなり遅いテンポで、もたれる感じがありますが、続く第2場は意外にテンポ良く進めていきます。第4場のめまぐるしく変わる音楽は、ほとんど意識的な変化を求めず、ただひたすらに音の構造だけを提示するような趣。どうしようもなく無骨なそして非情な響きではあるのですが、それは『総譜は身ぶりや歩みを描いてみせ、戯曲上の人物への感情移入からつねに遠ざかりつづける』(Th.W.アドルノ)音楽への一つの回答でもあるように思えます。

 モントゥーがBSO.を振った59年の録音はこの指揮者の最晩年のもので、恐らく20世紀初めの斬新で過激でスキャンダラスな雰囲気ではないのでしょうが、若々しく堂に入った素晴らしい演奏です(版はオリジナルの4管)。そしてこの演奏、意外に純器楽的な演奏なんですね。それぞれの場面を音楽的に性格付けて、ストーリー性を感じさせるといった演奏ではないように思います。複雑に張り巡らされた音が変にまとめられてしまわないで、複雑なままです。これは現在のスマートな演奏の仕方(つまり既に古典として位置づけされた)とはやはり少し違うような気がします。だからといって過激な演奏でもないのですが、言ってみれば音の端々に生まれたばかりの(当時の)現代性を宿した演奏でしょう。

 クレンペラーの演奏も純粋にシンフォニックな点で晩年のモントゥーの演奏に通じるところがあるような気がします(少なくともスタジオ録音では)。演奏から感じられる温度の違いを除けば、どちらも現代のまとまりのよい−場面ごとの性格描写を描き分ける−演奏とは随分違っています。つまり、バレエが演じられることのないバレエ音楽を、バレエを感じさせるストーリー性をもって演奏しているわけではない、という点で。この2人の指揮者は、スタイルも辿った生涯もそして特に人格的な点で似通ったところはないように思いますけれど、共に戦前の激動の時代に同時代の音楽を振り続けた経験があります。その時代に体に染みついたそれぞれの思いが、音楽の内包する時代性に共感するのではないでしょうか。シンフォニックな響きというのは、対峙する音楽と同時代に生きていたことによってできるアプローチの仕方であって、曲を客体化することによって曲との距離を置く現代の演奏よりも遙かに近いところに立って演奏している結果ではないかと思います。

 尚、この盤は国内盤としてもリリースされ、レコード芸術2001年6月号の国内新譜紹介でも取り上げられました。そこに金子建志氏が書かれた詳細な一文があります。曲の順を追って書かれていますが、その中で特に興味を引くのはクレンペラーがカットを行っている、という部分です。

 もっと驚かされるのは〈10−御者と別当の踊り〉最後の「231番」(10−2分17秒〜)、ブージー版スコアの149〜150ページで主題の反復を省略していること。20世紀の怪物ストラヴィンスキーを、大魔人クレンペラーが喰う−みたいなカットだが、こうしたことはバレエの現場では、しばしば起こることなので、逆に、クレンペラーの現場体験の豊富さを物語っていることになるかもしれない(編集ミスということはないだろう?) 

 もう一人の月評者藤田由之氏の評でも「第4場の〈御者の踊り〉の231から233直前までの12小節間が省略されている」とあります。確かにこの演奏ではこの繰り返し部分はすっぽり抜けていますが、両方の入りの譜面面も全く同じですから編集ミスかどうかは判断し難いところです。ただ、音が鳴りっぱなしの部分ですから編集するのもなかなか難しいような気がします。金子氏の「現場体験の豊富さを物語っていることになるかもしれない」という言い回しは、少々無理のある好意的な表現ですが、実際はクレンペラー晩年のお得意「音楽が冗長」ということでカットしたものではないでしょうか。この頃のクレンペラーは他にもあれこれバッサバッサとカットしていますから、まあクレンペラーの我が儘時代の産物といってもよいでしょう。クレンペラーは躁状態になると傲慢で何でも俺が一番となったらしいですし、作曲への関心の高まりもそうした自己過信状態の時期に当たっているようです。躁鬱というのはある一定の波がありますから(娘のロッテはこの波の間隔がクレンペラーのスケジュールを狂わすことを随分心配していたようです)、或いはそうした時期に当たっていたのでしょうか。

I II III IV Total
NPO.(67) 10:44 4:26 7:48 15:09 38:07 47年版
ドラティ/デトロイトso.(80) 9:45 4:27 6:38 13:18 34:08 47年版 参考
モントゥー/フランス国立o.(58.5.8L) - - - - 27:23 47年版組曲 参考
モントゥー/PCO.(57) 9:52 4:06 7:30 13:08 34:36 11年版 参考
モントゥー/BSO.(59) 10:07 4:08 7:36 12:24 34:15 11年版 参考

 モントゥーの録音は自ら初演した11年版によっています。フランス国立o.(58.5.8L)との演奏(PECO SSCD003)は47年版との表記がありますが、第3場「ムーア人の部屋」を省略した組曲版です(ライヴではこうした版で演奏していたのだろうか?)。
 今回初めていくつか聴き比べをしましたが、B&Hの47年版とDoverのオリジナル(に近い?)4管編成では、編成の違いによる楽器の使用方法以外にも結構変更している部分があるようです。例えば第1楽章のフルートの旋律から微妙に違います。個人的には11年版のやや危うい錯綜した響きの方が好きですが。