R.Strauss:交響詩「死と変容」op.24

O.クレンペラー/PO.
61.10.23,11.13 Kingsway Hall, London (EMI)
 Stereo
EMI
5 66823 2
EMI
2C 181-50557/8(仏LP)

R.Straussの楽譜を見ると、大オーケストラではありますけれど非常に精巧に作られています。この精巧さはR.Straussの厚く重層的なオーケストレーションの重要なポイントですけれど、(これは悪口でも何でもないのですが、)音楽の響きは実に精巧に組み立てられた音のパーツによって成り立っているように見えます。逆に言うと、こうしたパーツは極めて機能的に置かれているため、他の場所では機能しないでしょう。クレンペラーが「英雄の生涯」と「ばらの騎士」の演奏について助言を求めたときR.Straussの答えは「自分が指揮する時もそこがうまくいけば嬉しい」という言葉でした。
 これに対してMahlerの音楽は極めて感覚的だと言えるでしょう。Mahlerの音楽では、音が決してそこにあらねばならないような機能的な役割を持っていない場合があります。誤解を招く表現かも知れませんが、これは芸術的な価値を減ずるものではありません。Mahlerにとっては、音なりフレーズがそこに置かれたと言うことが重要であり、その上で作品として存在するということです。Mahlerは表現されることについて非常に敏感でしたが、R.Straussは書かれた作品そのものが重要だったように思えます。演奏される手段として譜があったMahlerに対し、R.Straussの場合、演奏されるべきものは全て譜面にありました。R.Straussの譜面にはそれが顕著に表れているのではないでしょうか。極めて才能ある職人音楽家であったと言えます。

 .R.Straussの音楽に特徴的なのは、Straussの交響詩、2つの交響曲等は全て何らかの具体的なプログラムを下敷きにして書かれていることです。「ティル」のような物語性(例え物語として首尾一貫していなくても)やこの曲のような心象風景をも音楽にしてしまいます。例えばこの曲では、−−死が間近に迫った病人が、死の恐怖と戦いながらも自らの人生を回想する−−それも空しく死を迎えるが、そこには天上からの救済と浄化が待っている−−といった具合。こうしたかなり詳細なプログラムを念頭に曲は書かれています。
 音楽が実際こうしたプログラムを想起させるか否かはともかく、これは一種描写的な音楽とも言えましょう。恐らく音楽は、それ自身何かを模倣しようとしまいと、多かれ少なかれこうした要素を持っています。音楽が「真の象徴性」を賞賛される時、そこには音楽が機能上、特定の「もの」を具体的に指し示すことが出来ないこと、更に具体的には何も指し示すことをしなくても成り立つことを前提としていますが、少なくともR.Straussにとってこうしたプログラムは作曲の重要な要素であったに違いありません。音楽は、このプログラムを下敷きに書かれ、また見事に音化しています(Mahlerの音楽はこれを巧妙に隠そうとしている)。これは音楽家としての一種の自己顕示欲とも言えます。けれど実はR.Straussの作曲過程では、描写的であることはそれ程重要ではなかったかもしれません。その音が何を指すかという具体性より、プログラムからインスパイアされる多様な音素材とこの素材を組合せることによる表現効果がより重要ではなかったのでしょうか。極論するとR.Straussにとってプログラムが首尾一貫しているかどうかはあまり問題ではなかったわけで、彼の音楽的語法に相応しい対象があり、音楽としてのプログラムが効果的であれば良かったようにさえ思われます。
 例えば、彼の生涯で最も幸福な時期にこの「死と変容」という死に関わった音楽を書き上げたというのは、決して驚くことではありません。或いは病弱であった作曲者の個人的な思いがあったのかも知れませんが、音楽家として音楽を書くために最も適した対象が「死」へのプログラムであったということでしょう。
 またR.Straussのこうしたプログラム的、ドラマ的思考は作曲だけではなく指揮にも当てはまるようです。クレンペラーがR.Straussについて語っている次のような話は非常に興味深いものです。

 シュトラウスとベートーヴェンの第5交響曲についてお話ししたことがあったでしょうか。1928年の夏、シュトラウスもわたしもシルス・マリアのヴァルトハウス・ホテルに泊まっていました。わたしたちはときどき散歩に出かけました。そんなあるときのこと、彼はわたしに言ったのです。「ねえきみ、わたしはある種の絵を目の前におかないと、ベートーヴェンの交響曲を指揮できないんだよ。」「ほんとうですか?どんな絵ですか?」とわたしは尋ねました。「そうだね、たとえば第5の第2楽章は最愛の人との別離だ。そしてトランペットが登場するとき、さらに高い目標へと進むのだ。」そんなことは信じられないではありませんか。わたしは自分の耳を疑わずにいられなかったのです。 (「クレンペラーとの対話」)

クレンペラーが初めてこの曲に接したのは1900年頃だったようで、「クレンペラーとの会話」の中で次のように話しています。

 15歳の頃、母はわたしを、シュトラウスの『死と浄化』がハンブルクではじめて演奏されるコンサートにつれていってくれました。それはわたしに強烈な印象を与えました。オーケストラの響き、全体の構成−−わたしはこの作品を素晴らしいと思いました。 (「クレンペラーとの会話」)

 15歳のクレンペラーにこの曲の宗教的な意味合いがどれほど伝わったのかはわかりませんが、大オーケストラの効果的な響きはかなり衝撃的な体験だったようです。
 R.Strauss自身が振った44年の録音を聞いてみますと劇的な曲の作りが非常に良くわかります。時代的なこともあって重い響き、回想の場面での旋律は優しく、また強奏では割れんばかりの凄まじい音響。決してスマートではない、言ってみれば古風なスタイルのコントラストは死にゆく人間の床で起きている事態にしては激しすぎるかも知れませんが、宗教的なそしてWagnerの救済を意識したかも知れないこの曲の響きと作りがクレンペラーを感動させたんでしょうね。
 クレンペラーも若い頃にはR.Straussの演奏に近かったでしょう。このEMI録音は他のR.Straussの演奏と同様素晴らしい演奏だと思います。
 静かに横たわる病人に回帰する微かな過去の情景、木管とハープ、独奏ヴァイオリンによる素朴で深い静けさを思わせる音楽、甘い青春時代の思い出、繰り返される死との闘争での激しい音楽でもあくまで激せず、しかししっかりとした足取り。クライマックスと浄化の映像的コントラストなど意に介さず、ただ純粋に音楽的なコントラストだけで表現された豪快な演奏です。個人的にはクレンペラーのR.Straussは大好きです。楽器のバランスが他の演奏と違ってやや滑らかさに欠けるのですが、オーケストラも良くなっていますし、この時期のクレンペラーの充実した構成感と力感が良く表れた最上の演奏でしょう。

 最後に、私は長いことこの曲のタイトルを単純に「死と変容」と呼んできましたが、原語では、Tod und Verklärung、英語ではDeath and Transfigurationで、「死と変容」、「死と浄化」と二通りの訳で呼ばれているようです。「メタモルフォーゼン」も「変容」と訳されることがありますが、これとは意味合いが違います。'Verklärung'の方はSchönbergの「浄夜 Verklärte Nacht」と同じ語ですね。私はドイツ語がわからないので、解説書のお世話になると、これは「キリストの変容」を指すらしく言葉自体宗教的色彩を持っているようです。

増減
PO.(61) 22:25 0
R.シュトラウス/VPO.(44) 23:32 1:07 参考

salome

R.Strauss:楽劇「サロメ」op.54〜サロメの踊り

(1) O.クレンペラー/ベルリン国立歌劇場o.
  28.5.25
 Philharmonie, Berlin (Electrola) Mono
(2) O.クレンペラー/PO.
  60.3.5,8-10 Kingsway Hall, London (EMI) Stereo
(1) Koch
  3-7053-2 HI
  Archiphon
  ARC-121/25

「サロメ」は聖書の「マタイ福音」14章、「マルコ福音」6章に記されている話が元になっています。「マルコ福音」では次のようにあります。

実は、このヘロデスは、自分の兄弟フィリポスの妻ヘロディアスと結婚しており、そのことで人をやってヨハンネスを捕らえさせ、牢屋につないだのである。 それは、ヨハンネスが、「自分の兄弟の妻と結婚するのは不法なことである」とヘロデスに言ったからである。 そこで、ヘロディアスはヨハンネスを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。 なぜなら、ヘロデスがヨハンネスは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。 ところが、ヘロディアスに良い機会がやって来た。ヘロデスが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガラリヤの有力者などを招いて宴会を催したのである。 そこへ、このヘロディアスの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデスとその客を喜ばせた。そこで、王はこの少女に言った。「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」。 さらに、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓った。 そこで、少女は座をはずして、母親に、「何をお願いしましょうか」と尋ねると、母親は、「洗礼者ヨハンネスの首を」と答えた。 早速、少女は大急ぎで王のところに戻り、「今すぐに洗礼者ヨハンネスの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 王は非常に困ったが、客の前で少女に誓った手前、その願いを退けたくなかった。 そこで、王はすぐに衛兵を遣わし、ヨハンネスの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢屋の中でヨハンネスの首をはね、 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
 (新約聖書(共同訳)「マルコスによる福音」6章 17-28節)

 聖書では名前が現れませんけれど、「ヘロディアスの娘」が後に「サロメ」と名付けられます。
 ここでの「サロメ」像は当初母親の復讐の手段としての位置づけしかなかったということがわかります。ヘロデ王の妻ヘロディアスの策略は計画的なものではなく、偶然の機会から発したものでした。しかし時代が下るに従って「子供の世界にとどまっていた」サロメの役割は変化し、19世紀の後半には妖艶で倒錯した性愛感を付されるようになって、一種異様なドラマとなってきました。妖しげな「サロメ」は、世紀末の象徴主義的風潮とオリエンタリズムへの趣向とが結びついて芸術一般に大流行だったといいます。
 1893年発表された(フランス語版)ワイルドの「サロメ」は、作家自身の非社会性とともに当時最も衝撃的な事件でした。当時の大女優サラ・ベルナールの主役を念頭に置いたこの戯曲は、アルフレッド・ダグラスとの男色事件で獄中にいた間の1896年、パリで上演されたものの、イギリスでは1931年まで上演禁止となっていました。そしてドイツでは1901年、マックス・ラインハルトの手によりベルリンで成功したのですが、これが契機となりR.Straussのこのオペラが誕生しました。
 このラインハルトという人は当時、役者、演出家として活躍していた人でした。そしてクレンペラーという指揮者のスタートをお膳立てしてくれた人でもありました。つまりその5年後、1906年クレンペラーはO.フリートの代わりにOffenbachの「天国と地獄」を50回も指揮することになるのです。

 ところで、ワイルドの「サロメ」はR.Straussの音楽から感じられる豪奢なエキゾティスムと倒錯した官能の絵巻物的印象に比べて、どちらかというとスリムで仄暗い印象を受けます。ワイルドの作品は戯曲であって、人物の性格描写とストーリー性、特に月と「死」を暗示する「羽ばたきの音」が重要な要素となり緊迫感を生み出しているのですが、そこには唯美主義的な洗練された精神性を感じます。戯曲では「7つのヴェールの踊り」を描写することが出来ないこともR.Straussとの印象の差になるのかも知れません。R.Straussが見たベルリンでのラインハルトの演出はどういうものだったのでしょうか。ワイルドが描いた(そしてビアズリーの挿絵の印象が強い)サロメ像より官能的でショー的要素が強かったかもしれません。「7つのヴェールの踊り」は単独で録音されることも多いR.Straussの傑作のひとつですが、この音楽だけでもワイルドの世界を新たに創作したと言ってよいでしょう。

 このサロメの踊りを描いたもので最も有名なのは、G.モローが1876年にサロンに出品した「出現」(水彩画)と、ともに出品された「ヘロデ王の前で踊るサロメ」(油彩画)でしょう。ワイルドが戯曲を上梓する十数年前のことです。
 「ヘロデ王の前で踊るサロメ」では、サロメがむしろ静謐で厳粛な空間の中に描かれています。ここで「ヨハネの首」を所望する倒錯したサロメは未だ影が薄いような気がします。ただ、右手に持った蓮の花が、彼女をも支配する愛欲の象徴として静かに描かれています。モローはこの時点で、果たしてサロメに残虐な愛を象徴したかったのか。この絵を見ていると、倒錯した愛欲の世界に踏み込む前の、踊りの錯乱状態に入り込む前の、まだ純真な少女の姿に思えます。
 そして「出現」。サロメが舞っている途中、突如として現れるヨハネの首。ここでモローは、時間的な流れを超越した真に象徴的画面を作り上げました。時間の芸術ではない絵画の特性、並列する時間を描いたのです。(そしてこの特性は、後のシュルレアリスムの偶然性と並列性に大きく寄与しています)
 聖書の物語では踊っているサロメの頭の中に「ヨハネの首」はないのですが、世紀末のサロメ的人格にはこの時点で既に彼女の欲望として存在していることを示しています。そして驚くことに、ここでは洗礼者ヨハネの神性が既にこれを預言しているのです。しかもヨハネの首がサロメ以外にその姿を現しているようには見えません。中央に坐るヘロデ王や脇のヘロディアス、右脇の衛兵(?)には依然として表情がありません。
 この象徴主義の最も熟成した傑作では、聖書の復讐劇はどこかに押しやられてしまいます。既に母親のヘロディアスの役割はほとんど傍観者であって、「出現」の画面でも一人の女でしかありませんし、ヘロデ王でさえ脇役の一人でしかありません。この場の運命を支配しているのはただサロメだけであり、更にサロメ自身もこの運命に支配されていることを強烈に印象づけます。こうして徹底的にサロメだけに視点を集中させるやり方は、まさに「ファム・ファタル」としてのサロメを照らし出しています。実は「ファム・ファタル」とは運命を支配し支配されるというこの両義性にあります。

 そして、ペルシャ風、インド風の絵物語を思わせるモローの世界から、典型的な「ファム・ファタル」の一場面を切り抜いて、濃厚な壮絶さを感じさせるのがレヴィ=デュルメール(Lévy-Dhurmer)の「サロメ」です。ここに至っては、既にサロメの物語そのものも消滅してしまって、ひとりの女の妖しい自己陶酔の世界だけが主題となっています。「おまえの口に口づけするよ」、まるでスキャンダラスな事件に立ち会っているような衝撃。

モロー 「ヘロデ王の前で踊るサロメ」
Moreau:Salomé dansant devant Hérode
1876
 モロー 「出現」
 Moreau:L'apparition 1876

 
レヴィ=デュルメール サロメ
Lévy-Dhurmer: Salomé 1896

(1) この時期のクレンペラーの特色が出た面目躍如たる名演です。クレンペラーの演奏様式とR.Straussのスペクタキュラスな(ラインハルトの演出を見ていたのでしょうか)エキゾティスムが見事にマッチしていて、まるで異空間に迷い込んだ如き感覚が味わえます。例の如く甘口の演奏ではないのですが、一昔前のスペクタクル映画に付された音楽のようで、いかにも効果的な演奏。また、R.Straussの先進性を印象づける豪快で集中力の強い演奏でもあります。
 恐らく、これは戦前の録音の中でも最も聴き応えがある演奏のひとつです。クレンペラーはこれ以前、記録によるとケルン時代最後期のR.Straussの60歳誕生日記念に「サロメ」を演奏していましたから、十分練られた表現だったのでしょう。
 尚、この録音は戦前28年の独Electrolaへの録音。競っていたわけではないでしょうが、面白いことにPolydorには同年のR.Strauss自身の録音があります。

(2) 「クレンペラーとの会話」のなかにクレンペラーのR.Straussのオペラに対する評があります。

 1890年代の当時、シュトラウスはドイツ人にとって希望の新人であり、神聖侵すべからざる存在でした。のちに「サロメ」が大きなセンセーションをまきおこしましたが、これは今日でもなお、ただ音としてだけでも、けたはずれの作品です。

 わたしは『サロメ』を1907年に、ドレースデンでシュフの指揮によってはじめて聴きました。それから2年後プラハで『エレクトラ』が、ドイツ歌劇場ではなくチェコ国立劇場によって、チェコ語で上演されました。それはすばらしいものでした。その次が『ばらの騎士』で、この曲ではすべてが甘い砂糖水にとっぷりとつかってしまった。『ばらの騎士』以後にシュトラウスが書いた作品のなかでは、『ナクソス島のアリアドネ』がもっともすぐれていると思います。それは第一次大戦前に彼が完成した最後の作品です。それから彼は『影のない女』を書きました。この作品はわたしにはほんとうによくわかりません−−テクストがですが。 (「クレンペラーとの会話」) 

 1905年にこのオペラは初演されていますから、クレンペラーが聞いたのはこの2年後、初演と同じ指揮者、オーケストラによってのことになります。(因みに「エレクトラ」の方は初演の年に聞いたことになる。)

 クレンペラーはR.Straussのオペラをどのくらい振ったのでしょうか。EMI時代以降はオペラを振る機会そのものが極めて限られていたわけですから、それ以前ということになりましょうが、ブダペスト時代には「ばらの騎士」の演奏記録はありますけれどそれ以外は不明、ただ「サロメ」を取り上げようとしたことはあったようで、恐らくキャストの難しさと興行的なリスクのため実現しなかったようです。これ以前となるともうクロル・オペラを含めたドイツの歌劇場時代、ひっとするとケルン時代まで遡るかもしれません。1932年クレンペラーがシュトラウスに直接教示を受けたのは「ばらの騎士」。「対話」のなかでのクレンペラーの言によれば翌年(つまり1933年)指揮する予定だったためとありますが、果たしてこの微妙な時期に実現されたかどうかわかりません。
 「ばらの騎士」については、クレンペラーは上記の発言にみられるようにそれ程評価していませんでした。このオペラの組曲に至っては「オッフェンバックのほうがはるかにすぐれている」と言っているくらいです。しかし、劇場へ楽しみに来る人たちにとっては人気のオペラだったのでしょうね。クレンペラーの演奏したR.Straussの他のオペラがどれほどあったのかはよくわかりませんが、上述の言葉にもかかわらず「ばらの騎士」は度々演奏していたようですから。「サロメ」や「エレクトラ」のような過激で凄惨なオペラは、同じく過激であったクレンペラーには好みであったでしょうが、いくつか記録はあるもののそれ程多くはなかったでしょう。

 カラヤンがEMIに録音した全曲は昔から世評の高い盤ですが、これなどはDebbussyの「ペレアスとメリザンド」と同様、最も耽美的な側面を強調した演奏といえるでしょう。「7つのヴェールの踊り」単独ではこの数年前BPO.との録音がありますが、ここでもこの上なく洗練された響きがこの曲の妖しい雰囲気を一層高めます。
 クレンペラーによる演奏は、一言で言うと非常に健全なサロメの踊り。ヘロデ王の気を惹く妖艶さ、というのとは違いますね。けれどこの演奏はちょっと他では聞けないくらいの凄みがあります。冒頭からリズムの強靱なこと、力のある音、切れ味の良いザッハリヒな演奏にも関わらず、ペルシャ風の宮殿の空間を感じさせるような響き。むしろ磨きのかかった滑らかな響きよりこうした深い奥行きをたたえた演奏が現実味を帯びているように思えます。踊りの進行につれて次第に高まっていく狂気が演奏の表情によってではなく、音楽そのものの力によって高められていくよう。クロル・オペラ時代以上にドライな扱いは、次に何が起こるのか予感できない迫真の情景を体感させてくれます。全く舞踏的ではないかもしれない。しかしここにはオペラからの単なる抜粋ではない一個の音楽としての確固たる姿があります。

 今となっては無理だった話でしょうが、クレンペラーの指揮で全曲聴けたとしたらどんなすごい演奏だったでしょうか。きっと凄まじい世界が繰り広げられたに違いありません。ハンガリー時代以降のクレンペラーのオペラが数少ないことはいかにも残念です。特に60年代半ば頃までのオペラがもう少し聞きたかったですね。

増減
1. ベルリン国立歌劇場o.(28) 8:26 -0:37 Archphon
2. PO.(60) 9:03 0 CD
カラヤン/BPO.(73) 10:09 1:06 参考
(2) EMI
  5 66823 2
  
EMI
  2C 181-50557/8(仏LP)